13・遠藤誠
周子はお茶で口を潤してから、なるべく心配をかけないように言葉を選んで、叔母に義母の病気を告げた。
「……お義母さんは、脳腫瘍があるんです。手術は無理だそうです。予後はわかりません。でも今は、本当に癌なのかと疑うくらい元気です」
「そう。あの人がねえ」
叔母はふうっとため息をついた。
あの人。
義母も叔母のことをそう呼んでいた。
「あの人のことだから、旭川の誰とも連絡を取っていないのでしょう?」
「はい。自分は故郷を捨てた人間だからと言っています」
「そう……」
「実は、義母には内緒でここを訪ねました」
それは予想していたことなのだろう。叔母はさほど驚いた様子もなく、頷いていた。
「あの、それと、義母は今、旭川に来ています」
「ええっ」
あらまあ、まさか来るなんてねえ。と叔母は口に両手を当てて驚いた。
「会ってくれませんか?」
柔らかかった叔母の瞳が、きつくなった。
「それは、どうでしょうね」
叔母は良い返事をくれなかった。何故なのだろう。娘が事故で亡くなった。それだけで、こうも家族が疎遠になってしまうものだろうか。
「たった二人きりの姉妹ですよね。もしかしたら、これが最後の機会になるかもしれません」
周子は叔母の方へ身を乗り出して義母と会うように迫った。
困惑した顔をした叔母は、でもねえ、と呟いて俯いてしまった。
躊躇する理由は何だろう。他にも理由があるのだろうか。何か深い溝ができるような理由が。
周子は黙ったまま叔母の方を見つめていた。
「周子さん、あの人から事故の後のことは聞いていないの?」
「事故の後、ノイローゼになったと聞きました」
「ノイローゼ、ね。確かにそうだった」
叔母は口元に薄く笑みを浮かべた。義母のことを軽蔑したような笑い方だった。
「あの人はね、周りの人全てを疑うようになったの」
そういえば、義母はそんなことも言っていた。誰も信用できなくなったのだと。聞き流していたが、どういうことなのだろうか。
「娘を亡くしたあとのあの人は、抜け殻のようだった。毎日、ああしてあげればよかっただの、あの時こうしていたらだの、過去を後悔することばかり口にしていた」
叔母は冷めかけたお茶を啜り、ため息をついた。
「誠さん――あの人の夫ですけれど、誠さんも娘を亡くして意気消沈していたところに妻がそれだから、精神的にも相当参っていてね、高野の実家に何度か相談に来ていたの。あの人を実家で静養させたほうがいいんじゃないかってね」
お菓子を食べ終わった美雪は、退屈になり、周子の隣でもじもじしていた。叔母はそれを見て取り、お部屋を探検しておいでと勧めてくれ、美雪は喜んで居間を出て行った。
「誠さんは当時、会社を引き継いだばかりで、めまぐるしい忙しさだった。そんな中、両親からは、泣き暮らしているだけの役に立たない嫁と突き上げられ、あの人のことをかばうのに苦労していたようで、誠さんが本当に可哀想だった。シゲを支えてあげなければって、誠さんはいつも言っていた。私はまだ実家にいたから、よく誠さんがため息をつきながら、眉をひそめて母に相談に来ているところを目にした。嫁の実家に夫が相談に行くなんて、当時では考えられないことだった。周囲で噂にもなって、両親にも恥ずかしい真似はよしなさいと忠告されていたようだけれど、気にせず、シゲにとって最良の方法は何だろうかと常に考えてくれていた。あんなに優しい誠さんを、あの人は追い込んでいったの」
ずっと誰かに話したかったのだろう。話し始めると、叔母は息もつかずに話した。その話し振りは冷たく響いた。周子には怒りが滲んでいるように思えた。
「ある日、誠さんが帰り際に目を赤く腫らしながら私に向かってこう言った。『僕はもうだめだ。シゲを支えきれない。どうかシゲを支えてやってくれ』と。誠さんは今にも涙を流しそうだった。だから、私は思わずハンカチを差し出したの」
こうやって。と、叔母は私の前に両手を添えて、ハンカチを差し出すような仕草をした。
「有難うと言って、誠さんはハンカチを受け取り、目頭を押さえた。今でもそのときのことははっきりと覚えています。そして、誠さんはハンカチをポケットに仕舞い、帰った。ただ、それだけのことだった」
叔母は最期の言葉に力を込めた。それだけのことだったのだ、と。
その夜、姉、シゲは半狂乱で誠さんを罵ったのだという。
私がこんなに苦しんでいる間に、どこの女と一緒にいたの。このハンカチの女はどこにいるの、と食って掛かり、誠さんがいくら真実を話しても、シゲは聞き入れなかった。それどころか、実の妹であるトミまでも疑ったのだ。
「あの人は狂っていた。あんなにあの人のことを想っていた誠さんを信じられないなんて。妹の私のことを疑うなんて。そのことがあって、姉妹で一人の男を取り合っているという根も葉もない噂まで街中に流れてしまった。誠さんも、この土地に居辛くなり、何もかも捨てて、あの人を連れて追われるように東京へ出たの」
そこまで話し、叔母は大息をついた。
今頃になって、こんな昔話をすることになるとは思わなかったわ。墓場まで持っていくつもりだったのに。そう言って、笑った叔母は寂しそうだった。
周子は叔母の言葉の端々に、誠に対する想いを感じ取った。もしかしたら、叔母はひそかに誠さんを慕っていたのかもしれない、と。
それが周子の顔に出ていたのだろうか、
「周子さん、あなたのご想像通りよ」
と、小首を傾げる仕草をした叔母は、茶目っ気のある十代の少女のような笑顔を見せた。
「しょっちゅう訪ねてくる誠さんを見ているうちに、いつしか私は誠さんのことが好きになっていました。でも、それを口にしたことはないし、告白しようとも思わなかった。誠さんは、あの人のことをとても愛しているのだとよく知っていたから。それなのに――」
叔母の目は険しくなった。
「なのに、あの人ったら、それを信じようとしなかった。私がいくら頑張ってみても、手に入れることができないものを手に入れていたくせに。できることなら、あの人と入れ替わりたかった。私だったら、誠さんの重荷になるようなことはしない。誠さんを旭川にいられないようにして、人生を狂わせたあの人を許せなかった」
でも、誠さんが愛していたのはあの人だったの。と、呟いた叔母は、寂しそうに目を細めた。
叔母はその後、両親の薦める婿を取り、高野家を継いだのだった。