湯けむりのひだまり亭 〜現世と幽世の境界でカフェはじめました〜
【極上・もふもふ黒猫悶絶編】
私が店を構えるこの街は、上州の雄大な山々に抱かれた、温泉の湯けむりと坂道が交差する場所。
中央を流れる利根川と、幾重にも重なる石段街。湯けむりが立ち上るその街並みは、古くから日本のヘソと呼ばれ、現世うつしよと幽世かくりよを繋ぐ絶妙な境界線でもあった。
昼間は観光客や地元の人でにぎわう、どこにでもある静かなカフェ『猫のひだまり亭』。
だが、山から吹き下ろす冷ややかな風が街を包み、山並みが夜の闇に溶け込む22時——。
店を囲む古い格子戸の隙間からほんのり温泉の湯気が漂い始めると、この店はあやかしたちの「駆け込み寺」へと姿を変える。
私は、某総合病院の救急外来や病棟で長年揉まれてきた、元・看護師だ。
過酷な看護業務とそれ以外の業務…委員会、係、看護研究、目標管理、学会発表…や、他職種との軋轢の日々を捨て、めでたく病院を退職。第二の人生としてこの境界の街に古民家カフェを開き、昼は人間を、夜は疲れ切ったあやかしたちを癒している。
「ふぅ……今夜は山からの風が少し冷たいわね」
カウンター越しに、湯気を立てる大鍋を見つめながら、私——ジュンコはエプロンの紐をキュッと結び直した。
「さて……そろそろ22時。夜の部の開店時間ね」
カランコロンと、アンティークのドアベルが鳴る。
山から吹き下ろす冷たい風と共に飛び込んできたのは、月光を吸い込んだかのような艶やかな漆黒の毛並みを持つ、一匹の大きな黒猫——石段街の奥に佇む骨董品店『銀月堂』の若旦那にして、この山一帯のあやかしたちを統べる主、銀月ギンゲツ様だった。
「……すまん、ジュンコ。今夜は……心が折れそうなのだ……」
トコトコと歩いてカウンターの専用クッションに飛び乗ると、銀月様は「ふにゃあ……」と大きな溜息をついて丸くなった。
「今日はどうされたんですか? 黒猫ちゃんの命である毛並みのツヤも落ちてますし、毛玉できちゃっますよ」
「……人間の若者どもだ」
銀月様はピクッと耳を動かし、恨めしそうに黄色く澄んだ瞳を細めた。
「昨日、石段街で格好よく屋根から屋根へ飛び移ろうとしたのだ。……だが、ほんの少し目測を誤ってな。その…湯気に驚いて、すてーんと転んでしまったのだ……! そこを通りかかった観光客に『どんくさい黒猫ちゃんカワイイ〜!』とスマホで写真を撮られ、SNSという現代の術式に拡散されたのだ……! 100年生きる化け猫の主がどんくさい黒猫扱いだぞ!? もう猫権にゃんけんなどどこにもない……っ!」
「あらあら、お辛かったですねー」
私は苦笑しながら、手作りのお手拭きで銀月様の顔周りを優しく拭いてあげた。プライドの傷ついた患者さんには、まず『共感』と『温かい手当て』だ。
「銀月様、まずは温かいスープで胃腸を温めましょう。今夜のスペシャルメニューです」
【新鮮なマグロ節と鯛の極上出汁スープ 〜自家製無塩ボイルチキン添え〜】
「……私は今、失意の底にいるのだ。食欲など……
クンクン……む……!?」
香ばしいお出汁とチキンの香りに、黒いヒゲがピクピクと跳ねる。
「……一口だけだぞ」
ペロリ。
(ペロペロペロペロペロ……ッ!!)
「な、なんだこの深みのある味わいは……!? 身体の芯から温もりが広がり、傷ついた心が解けていく……っ! 鯛の甘みとマグロのコクが絶妙だ……っ!!」
夢中でスープを飲み干し、器をピカピカに舐め上げる銀月様。食欲は大丈夫ね。
「さて、お腹が膨らんだら……本番のお手入れです」
私はエプロンのポケットから、特製の『天然豚毛ブラシ』を取り出した。
「な、何だその道具は……!? 待て、私はまだ心の準備が……っ!」
「銀月様、力を抜いて。失礼しますね」
美しい漆黒の毛並みに沿って優しくブラッシング。そして、耳の後ろにある『風池ふうち』のツボを、指の腹でトントンと心地よいリズムで刺激していく。
「ぬ……っ!? ん……あ……っ!? な、なんだこの指先は……っ!?」
「ここ、すごく凝ってますねー。人間の目を気にして、ずっと全身に力が入ってたんでしょう?」
「く、屈する……ものか……! 私は……誇り高き……漆黒の化け猫の……主……っ!」
ここからがベテランナースの真骨頂だ。
私は抵抗する銀月様のアゴの下を、親指で絶妙な力加減で「かゆいところ」へ滑らせ、同時に首すじの筋肉(胸鎖乳突筋)を優しく解きほぐした。
「〜〜〜〜〜〜〜っっっ!?????」
銀月様の黄金色の瞳がカッと見開かれ、ビクンと全身が跳ね上がった。
(ゴロゴロゴロゴロゴロ……ッ!!)
次の瞬間、店内に重低音のエンジン音のような盛大な『ゴロゴロ音』が響き渡る!
尻尾の付け根も忘れずトントンモミモミ。
「あ……あダメだジュンコ……ッ! そこは……そこは…あ…んん……ッ!!」
「はいはい、力抜いてくださいねー。次は肩甲骨のコリを解しますよ」
「ひゃうんっ!? 待っ……あぁぁ〜〜〜〜っ!! 溶ける……! 漆黒の誇りが……我が魂が……昇華していくぅぅ〜〜〜っ!!」
アゴ下から首すじ、そして耳の付け根への連続ツボ押し攻撃に、銀月様は前脚をピーンと伸ばして空を掻き、後ろ脚をピクピクと痙攣させた。
「ふにゃあぁぁ〜〜〜ん……っ! 気持ちよすぎて……息が……息ができないにゃ……っ!!」
「フフ、呼吸止まってますよー。ほら、深呼吸ですよー」
「ひっ……ひっ……ふにゃあぁぁ〜〜〜〜〜〜んっ(昇天)」
数分後。
カウンターの上には、すっかり骨抜きにされ、限界まで伸びきって「へにょ〜ん」と真っ平らな黒い液体のようになった銀月様の姿があった。
「……ふぅ。……ジュンコ……」
「はい?」
「……私を……殺す気か……。あまりの快楽に……三途の川の向こうで咲く彼岸花が見えたぞ……」
「失礼ですね、命を救うナースですよ。ほら、黒髪のようなツヤツヤの毛並みに戻りました」
銀月様はフッと満足げに目を細めると、ぽんっと小さな白い湯気(温泉の湯気のような香り)を上げた。
煙が晴れると、そこには黒い着物を優雅に着こなした、漆黒の髪と黄色い瞳を持つ美青年――『銀月堂』の若旦那の姿があった。……ただし、顔は真っ赤で、頭の上にはぴょこんと黒い猫耳が立ったままだ。
「ジュンコ……お前という女は……恐ろしいな……(黒耳をぴくぴくさせながら、涙目で見つめてくる)」
「ふふっ、可愛い黒耳が出てますよ、銀月様。お茶でも淹れましょうか?」
「う、うむ……頼む。それと……その……」
美青年になった銀月様は、まだ余韻でプルプルと震える手で私のエプロンの裾をぎゅっと掴んできた。
「……明日も……いや、毎日ここへ通ってもいいか……? お前の手当てが……ないと……私はもう……生きていけん……っ!」
「ふふ、重症ですね。いつでもお待ちしてますよ」
熱いお茶を湯呑みに注ぎながら、私はふと、この街で初めて彼と出会った冷たい雨の夜のことを思い出していた。
長年勤めた職場を退職し、第二の人生としてこの境界の街に店を開いたばかりのころ。
過酷な業務から解放されたはずなのに、どこか自分の居場所を探して宙に浮いていた私のもとへ、銀月様がやってきた。
しとしとと降り続く雨の夜カランコロンと激しい音が響いた。駆け寄ると、軒下に倒れていたのは、冷たい雨に打たれ、足と腹部に深い傷を負った一匹の大きな黒猫だった。
『寄るな……人間……! 私に……触るな……っ』
バチバチと小さな妖気を散らし、はっきりと人間の言葉で威嚇してくる黒猫。
普通なら腰を抜かす場面だけれど、修羅場を潜り抜けてきた私の頭に真っ先に浮かんだのは意識レベル清明、呼吸よし。ただし低体温と循環不全、出血性ショックの危険ありという一次評価だった。
「はいはい、喋れるなら結構。でも強がらない。患者さんに上も下もありませんよ!」
「なっ……私を誰だと……ひゃんっ!?」
驚く暇すら与えず、私は迷わず清潔なバスタオルで黒猫を包み込んだ。
救急仕込みの手際で出血部位を圧迫止血し、温めた生理食塩水の代わりに薬膳スープを少しずつ口に含ませる。主としてのプライドも威厳も全て抱え込んだまま折れかけていたその身体を、ただ一人の「命」としてテキパキと手当てした。
手当てが終わり、毛布の中で穏やかな寝息を立て始めた黒猫を見つめたとき、私は「ああ、私はここで、こういう形で看護を続けていけばいいんだ」と、肩の力が抜けるのを感じたのだった。
(……まあ、処置が一段落したあとに『あ、なんかそういえば普通に日本語で喋ってたわね……』って、ちょっとジワジワ来たのは内緒だけれど)
あの日から、彼は「あやかしの主」という重荷をそっと降ろせるこの場所へ、こうして足を運ぶようになったのだ。
「……ジュンコ? どうしたのだ、急に黙り込んで」
湯呑みから立ち上る湯気の向こうで、黒耳をぴこぴこと揺らしながら、銀月様が不思議そうに私を覗き込んでくる。
「ううん、なんでもありませんよ。はい、どうぞ。銀月様にはまだお熱いので気をつけてくださいね」
「うむ……かたじけない」
ふーふーとお茶を冷ます彼の姿に、猫舌可愛いわねと微笑みながら、私はカルテにそっとペンを走らせる。
お茶を飲み終えた銀月様は立ち上がると着物の袖を整え、ぽんっと小さな白い湯気を立てて再びしなやかな黒猫の姿へと戻った。
その頭上の黒い耳は、まだ熱を帯びたようにぴくぴくと揺れている。
「ではな、ジュンコ。夜は冷える……戸締まりを怠るなよ」
捨て台詞を残し、妖の主ぬしは優雅な足取りで格子戸の隙間へと向かった。
だが、完全に骨抜きにされた腰はまだ少し覚束ないらしく、歩くたびにその艶やかな漆黒の尾が「ふにゃ……ふにゃ……」と力なく揺れている。
カラン……と静かな鈴の音を響かせて戸が開くと、夜の隙間から、ほんのり硫黄の香りを含んだ冷たい川風と温泉の湯気がすうっと店内に流れ込んできた。
格子戸の向こうには、夜の闇に溶け込む赤城の山並みと、ゆらゆらと白い湯けむりを立ち上らせる石段街の街灯りが広がっている。
「はい、お気をつけて。夜道で転んでまたSNSに載らないようにしてくださいねー」
「ぬっ……! か、からかうなっ! 私は闇を駆ける漆黒の化け猫だぞ……っ!」
ぴくっと耳を立てて振り返り、カッと黄金色の瞳を輝かせたものの、私の可憐な(?)笑顔に毒気を抜かれたのか、「……ふん」と小さく鼻を鳴らした。
そして、闇と湯けむりが混ざり合う現世と幽世の境界線へと、その漆黒の体をしなやかに躍らせ、夜の街へと消えていったのだった。
「ふふ、まだどなたかお客様は来るかしら」
風に乗って遠くから聞こえる湯の流れる音と虫の声。
湯けむりのひだまり亭の、長い夜が静かに更けていく。
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