第2話 聖域という名の檻
広場の惨状を確認したユートの視界の端に、異質な空間が映り込んだ。
広場に面して建つ、アッシュワルド大聖堂。古来より「影と静寂」を信仰するこの国の象徴的な石造建築だ。街全体が灼熱と極彩色の薔薇に犯されている中で、その大聖堂の敷地だけが、奇妙なほどに薄暗く、静まり返っている。
「……結界か? いや、あれは」
ユートは薔薇の垣根を避け、大聖堂の入り口へと近づく。扉は固く閉ざされているが、漏れ出る魔力の質が違う。勇者由来の暴力的な光属性ではない。もっと古く、静謐な、この土地本来の魔力。ユートは扉に手を触れ、解析する。
「『拒絶』の理か。光を拒み、影を守る。この聖堂自体が巨大なアーティファクトになっているのか」
本来、アッシュワルドの信仰施設は、過酷な外界から民を守るシェルターとしての機能を持つ。古代の防衛機構が、皮肉にもこの異常事態で再稼働しているようだ。ユートは結界の波長に自身の魔力を同調させ、音もなく扉をすり抜ける。
◇
聖堂の中は、ひんやりとした空気に満ちていた。
外の熱波が嘘のような冷気。ステンドグラスは分厚い遮光ガラスで覆われ、堂内はろうそくの灯りだけの薄暗がりに包まれている。そして、そこには数百人の「人」がいた。
だが、安息の地ではない。重く澱んだ空気、排泄物の臭い、そして絶望的な嗚咽。
「離して! 父さんが……父さんが南門にいるの!」
「ならん! 外に出れば焼け死ぬだけだ!」
入り口付近で、少女の悲痛な叫び声が響いた。見れば、ボロボロのローブを纏った灰色の髪の少女が、必死の形相で老司祭に掴みかかっている。
「でも、南門は日陰がないの! 一日中、直射日光に晒される場所よ! 父さんは逃げないわ、私が無事か分かるまでは絶対に動かない! だから私が……!」
「落ち着きなさいリズ! お前が行って何になる! 熱で倒れて、あの赤い花畑の養分にされるのがオチだ!」
リズと呼ばれた少女。その特徴的な白磁の肌と髪、そして華奢な体つき。煤で汚れ、涙でぐしゃぐしゃになったその顔を見た瞬間、ユートの足が止まった。
不意に、視界が揺らぐ。目の前の少女と、記憶の底に沈めたはずの「彼女」が重なったからだ。
(……あいつも、こんな顔をしていたな)
故郷の谷底。毒の霧が濃くなる夜、咳き込みながらも、ユートの負担を減らそうと気丈に振る舞っていた妹。
『お兄ちゃん、私は大丈夫だから。無理しないで』
そう言って笑っていた彼女はもういない。あの紫色の毒の海に沈み、骨になっているはずだ。生きていれば、ちょうどこの少女くらいの年齢になっていただろうか。
理不尽な状況に抗おうとする瞳の色。家族を想う必死さ。それが痛いほどに似ていた。
(……南門の衛兵の娘か。無事だったようだな)
過去の幻影を振り払うように、ユートは無言で二人の間に割って入った。突然現れた黒衣の男に、司祭とリズが息を呑む。
「あ、あなたは……?」
「南門の衛兵なら生きている。俺が応急処置をして、外壁の影になるところへ移しておいた」
ユートが短く告げると、リズの瞳が見開かれた。
「え……? 本当……?」
「ああ。娘が無事か見てきてくれと頼まれた」
(……約束は果たしたぞ)
ユートは心の中でそう呟く。
リズはその場に崩れ落ち、安堵の涙を流した。老司祭も震える手で十字を切る。だが、ユートは冷や水を浴びせるように続ける。
「だが、外に出るのはやめておけ。中央区の気温は、南門の比じゃない。一歩出ればお前が死ぬ。そうなれば父親も生きる気力を失うだろうな」
「そ、そんな……」
「大人しくしていろ。このふざけた太陽を沈めない限り、お前たちに明日は来ない」
ユートは踵を返そうとする。用事は済んだ。長居は無用だ。
「ママ……お水……」
「しっ、我慢しなさい。もう水はないのよ」
静まり返った大聖堂に、幼い子供の掠れた声が響いた。見れば、母親の腕の中でぐったりとしている子供がいる。その唇は乾燥してひび割れ、頬はこけていた。
外に出られない以上、物資の補給は断たれている。このままでは、遠からず全員干からびて死ぬだろう。
ユートは眉をひそめた。
見捨てて行くことはできる。だが、ここで彼らが死ねば、死体の処理や疫病の発生で、後々の「復旧作業」に支障が出る。
それに何より――この空気の重さが不愉快だった。
「……おい、爺さん」
「は、はい……?」
「場所を空けろ。物資を出す」
ユートは何もない空間に手をかざした。
「展開・【収納結界】」
空間に四角い亀裂が走る。
ユートがそこへ手を突っ込むと、木箱に入った保存食や、樽に入った水を次々と取り出し、床に並べていった。
旅のために大量に備蓄していた物資だが、惜しんでいる場合ではない。
「なっ……こ、これは……!?」
司祭たちが目を剥く。
魔法鞄よりも遥かに巨大な容量を持ち、亜空間から物資を取り出すその術は、彼らの常識の外にあるものだった。
「配れ。少しは保つだろう」
「あ、ありがとうございます……! あなたは、一体……?」
「ただの通りすがりだ」
ユートは拝むように頭を下げる人々を背に、再び聖堂の外へと踏み出した。
妹を救えなかった自分への贖罪か、あるいは単なる気まぐれか。
どちらにせよ、これ以上「家族を奪われる者」を見過ごすつもりはなかった。
◇
大聖堂を出たユートは、迷うことなく中央区の北側にそびえる「鐘楼」へと向かう。尖塔の頂上で輝く、憎悪の光源。
近づくにつれ、石畳の上には陽炎が立ち上り、景色が歪んで見える。ユート自身も、多重に展開した【断熱結界】のおかげで辛うじて立っていられるが、魔力の消耗は激しい。
塔の真下まで来たユートは、見上げて絶句した。
本来あるべき石造りの屋根がない。いや、正確には「なくなっていた」。
「……熱で、溶けたのか」
鐘楼の尖塔部分は、内側からの凄まじい高熱によって溶解し、飴細工のようにドロドロと垂れ下がっていた。屋根が崩落したことで、皮肉にも青空への射線が通り、直射日光と凄まじい熱量の光源が二重になって街を焼いている。
「……目が焼ける」
ユートは懐から取り出した水晶片を媒介に、眼前に極小の結界を展開する。減光結界【防眩】。カメラの絞りを極限まで絞るように、透過する光量を物理的に九九・九パーセント遮断する。
視界が暗転し、世界が漆黒に染まる中、崩れた屋根の隙間に浮かぶ「熱源」だけが輪郭を現した。
「……やはりか」
そこにあったのは、巨大な黄金の結晶体。古代遺物『サン・クリスタル』。鐘の代わりに吊るされたそれは、無骨な魔力パイプによって塔の魔力炉に直結され、暴走状態にある。
「間違いない。あの魔力波形はザスターだ。そして、あの制御術式はゲイル」
ザスターが自身の膨大な魔力をタンクとして提供し、ゲイルがそれを遺物に接続して無理やり稼働させている。寒冷地用の暖房器具を、最高出力で焚いているようなものだ。
これを止めるには、ただ破壊するだけでは済まない。
ユートは再び【減光結界】越しに、サン・クリスタル周辺の大気の流れを観測する。激しい熱上昇気流が発生し、上空で巨大な熱のドームを形成している。
「……詰んでいるな」
もし今、ユートが強力な結界でクリスタルを破壊すれば、支えを失った上空の巨大な空気塊が落下し、ダウンバーストとなってこの街を更地にするだろう。大聖堂に避難している人々も、瓦礫の下敷きだ。
かといって、街の外壁を使って放熱すれば、南門にいる衛兵――リズの父親を巻き込むことになる。この「鐘楼」周辺だけで、熱を処理しきらなければならない。
「上空へ……熱エネルギーを物理的に『捨て』続けるしかないか」
クリスタルから熱を引き剥がし、固めて、対流圏上空へ射出する。だが、一人では手が足りない。制御役と、射出役。最低でも二人は必要だ。
この死に絶えた街に、そんな芸当ができる魔術師など――
「――ねぇ、そこで何してるの?」
背後から、場違いに明るい声が聞こえた。
ユートの思考が凍りつき、次いで、計算速度が跳ね上がる。風が吹いた。熱風ではない。森の香りを運ぶ、清涼な風。
ユートは振り返る。そこに、この状況を打破するための「最悪のカード」が立っていた。




