第7話 聖女の殺意、吹き荒ぶ風の絆
精霊の森からほど近い、教会の奥にある一室。
最高級の調度品で飾られた執務室に、場違いなほどの荒い呼吸音が響いていた。
聖女ルミナは、卓上に置かれた『遠見の水晶』を凝視し、美しい顔を恐怖と焦燥で歪ませていた。
「な……何よ、あれ……嘘でしょう?」
水晶に映し出されているのは、彼女が監視対象としていたユートたちの視界。
だが、今の彼女の目には、薄汚い森の惨状など入っていなかった。
その上空を、我が物顔で飛行する『純白の船』の姿に、釘付けになっていたのだ。
「あれはザスターの『イノセント・アーク』……!? まさか、森の異変の原因って……」
ルミナの脳裏に、最悪の可能性が走馬灯のように駆け巡る。
あの船は、勇者ザスターの象徴だ。それが今、聖域である精霊の森を焼き払い、住民を一方的に蹂躙している。
もし、あれが「勇者と聖女が乗っていた船」だと世間にバレたら?
教会には抗議が殺到し、これまで築き上げてきた聖女としての名声は地に落ちるだろう。
(いけない……そんなこと、絶対に許されない!)
(私は選ばれた存在なのよ。こんな薄汚い亜人たちのトラブルごときで、私の輝かしい未来を汚されてたまるものですか!)
ルミナの瞳から、慈愛の色が消え失せた。代わりに宿ったのは、爬虫類のように冷酷で、自己保身のみに特化した濁った光だった。
(目撃者は消さないと……。幸い、あの『役立たず』たちは森の奥深くにいるわ)
ルミナは震える手で、卓上の木箱を開けた。
中には、不気味な赤い宝石が埋め込まれた台座が鎮座している。ユートたちに装着させた首輪の「処刑スイッチ」だ。
「戦闘の最中のようね。……さようなら、ゴミ屑たち」
魔物に殺されるのを待つ必要もない。
ルミナは自身の保身のためだけに、迷わず処刑術式の起動スイッチへと魔力を流し込んだ。
◇
一方、腐敗の進む精霊の森。
紫色の瘴気が漂う樹海の中で、ユートとリリィは、凶暴化した魔物の群れを次々と処理していた。
「展開・【重力干渉】」
ユートが右手を握り込むと同時に、空間が軋む音が響いた。
見えない重力の枷が魔物たちを地面に縫い留める。
「ふふっ、動きが鈍いですわよ! 【氷華一閃】!」
その隙を見逃さず、リリィが舞うように扇子を一閃させる。
冷気の刃が走り、魔物たちが氷像へと変わっていく。
戦闘の最中、ユートは頭上を過ぎ去った飛行艇を横目で見やり、冷徹に判断を下した。
あの船が関わっている以上、これは単なる調査ではない。戦争だ。俺の視界を共有しているルミナも、間違いなくあれを見ている。
ルミナのような保身の塊が、この状況を知ればどう動くか。俺たちを生かして帰すはずがない。
『リリィ、首輪の接続を切るぞ』
ユートからの念話が、唐突にリリィの脳内に響く。
『え? 今ですの? まだあの女が監視しているかもしれませんわ』
『構わない。あの船を見て確信した。この件は教会にとって都合が悪すぎる』
『ああ……確かに。口封じされる可能性が高いですわね』
『向こうがいつ裏切るか分からん。爆弾を抱えたまま戦うのは御免だ。……戦闘の混乱に乗じて信号を切り、死んだと思わせる』
『シルフィの分は、どうしますの?』
『この首輪を渡された時点で、既に細工済みだ』
ユートは首元の革紐に指を這わせた。
すでに構造解析は済んでいる。魔力供給の回路を一点だけショートさせれば、ロックは外れる。相手が処刑を決断するまでのタイムラグ――その数秒が勝負だ。
『今ここで外す。……いくぞ』
ユートが魔力を流し込み、回路を焼き切ったその直後だった。
カシュンッ。
遠隔起動の信号が届いたが、すでに受信部は機能を停止していた。
ユートとリリィ、そして遠く離れた場所を走るシルフィの首輪から、呪いの光が急速に失われていく。
魔力を失ったただの革紐となった拘束具は、首から外れ、ポトリと地面に落ちた。
◇
再び、教会の一室。
遠見の水晶からプツンと映像が消え、暗黒が訪れた。
それは、装着者とのリンクが完全に断たれたことを意味する。
「……ふぅ。終わったわね」
ルミナはスイッチから手を離し、深い安堵の息を吐いた。
リンクが切れたということは、処刑が成功したか、あるいは魔物に殺されたということだ。どちらにせよ、結果は同じ。
「これで、この森で飛行艇を目撃した者はいなくなったわ」
あの役立たずどもは死んだ。これで、現場の証人は消えた。
まさか彼らが自力で首輪を外し、生存しているなどとは微塵も疑わない。
「さて、後の作業ね。過去の痕跡は消せませんが、今の痕跡は消しておきましょう」
彼女はすぐに羊皮紙を取り出し、冒険者ギルド宛の手紙を書き始めた。
流れるような筆致で記されるのは、「勇者パーティメンバーの登録抹消」の申請だ。
理由は――『教会本部からの極秘任務により、聖女ルミナは各地の聖域を巡回浄化する必要が生じた。よって、現在のパーティ行動を無期限に凍結する』。
「これならギルドも文句は言えません。教会の威光と『極秘任務』という言葉には逆らえないのですから。ふふ、我ながら名案ね。死人に口なし、生存者は任務で不在。完璧なアリバイだわ」
ルミナは満足げに手紙を封蝋すると、立ち上がった。
「この場は神官に任せて……私は、いち早く精霊の森から離れるとしましょう」
窓の外には、黒煙を上げる森が見える。
だが、聖女の心にあるのは、森の住人への哀れみではない。
自らの純白のスカートが煤で汚れることへの嫌悪感だけだった。彼女は足早に部屋を出ていった。
◇
森の中。
足元に落ちた首輪を踏み越え、ユートは北の方角を見据えた。
「……微弱だが、魔力の残滓を感じる。位置は特定できた」
首輪に施した細工により、機能停止した地点――つまりシルフィの現在地は把握できている。
「行くぞ、リリィ。シルフィが危ない」
「ええ、マスター。急ぎましょう」
ユートたちは全速力で森を駆け抜けた。
◇
風の氏族の集落。
巨大な樹木の上に作られた回廊、風を操るエルフたちの誇り高き隠れ里。
その堅牢な門の前に、息を切らしたシルフィが辿り着いた。
「はぁ、はぁ……! 開けて! お願い、門を開けて!」
シルフィは門を叩き、叫んだ。
だが、見張り台に立つ門番のエルフたちは、冷徹な目で彼女を見下ろし、鋭い切っ先の槍を向けた。
「止まれ! 何奴だ!」
「私よ、シルフィよ! お願い通して! 空から敵が来るの! 族長に合わせて!」
「黙れ! 里を捨てた裏切り者が!」
取りつく島もない。
エルフにとって、伝統を捨てて外へ出た者は、もはや同胞ではない。穢れた「他人」なのだ。
「お願い、聞いて! 本当に時間がないの!」
涙ながらに訴えるシルフィ。
その時、集落の奥から空気が張り詰めるような、威厳ある声が響いた。
「騒がしいぞ」
エルフたちが畏敬の念を持って道を開ける。
現れたのは、長い銀髪をなびかせ、風を纏うかのような圧力を持つ長身のエルフ。
風の氏族長であり、シルフィの実の父、ゼファーだ。
「お父様……!」
シルフィは希望に顔を輝かせた。父なら、話を聞いてくれるかもしれない。
「聞いてお父様! 白い船が、こちらに向かって……!」
「……今更何をしに戻ってきた」
だが、ゼファーの声は氷点下の風のように冷たかった。
そこには、娘を案じる父の情など微塵も感じられない。あるのは、掟を破った者への軽蔑のみ。
「お前は自ら掟を破り、外の世界へ去ったはずだ。お前に帰る場所など、ここにはない」
「そ、そんなこと言ってる場合じゃないの! 本当に危険なのよ! 森が焼かれてしまうわ!」
シルフィの必死の訴えも、父の鉄の心には届かない。
ゼファーが冷淡に背を向けようとした、その時だった。
ヒュルルルルル……
ドォォォォォォォン!!!
空気を切り裂く高周波音と共に、集落を守っていた不可視の結界に砲撃が着弾した。
空気が振動し、爆炎が集落の入り口を舐める。
「な、なんだ!?」
「敵襲か!?」
エルフたちが一斉に空を見上げる。
雲を切り裂き、姿を現したのは十隻の飛行艇艦隊だった。
船べりには赤い肌のサラマンダーたちが鈴なりになり、ゲラゲラと下品な笑い声をあげながら火炎魔法を準備している。
「ヒャハハハハ! 燃やせ燃やせェ!! すかし野郎どもを丸焼きにしろ!」
圧倒的な質量と、空からの暴力。
絶望的な光景にエルフたちが怯む中、ゼファーだけは瞬時に状況を理解し、個人的な感情を切り捨てた。
彼は即座に「父」から「指揮官」の顔になり、声を張り上げた。
「総員、迎撃態勢! 弓隊、風を乗せて撃ち落とせ!」
ヒュンヒュンヒュン!
ゼファーの号令と共に、無数の矢が放たれる。
風の魔法で加速された矢は、鋭い音を立てて空へ吸い込まれていく。だが――
カンッ、カカカンッ!
空高く飛ぶ飛行艇には届かず、あるいは届いたとしても、鋼鉄の装甲に弾かれてしまう。
対して、上空からはサラマンダーたちが練り上げた業火の雨が、今まさに降り注ごうとしていた。
「くっ……高度が高すぎるか!」
ゼファーが歯噛みする。
木の上の家々に火がつけば、風の里など一瞬で燃え尽きる。
誰もが死を覚悟したその時、一人の少女が前に飛び出した。
「私がやる! ……森を守らせて!」
シルフィだ。
彼女は両手を空に掲げ、全身の毛穴から絞り出すように魔力を解放した。
「吹き荒べ! 【嵐の障壁】!!」
ゴオオオオオオッ!!
集落の上空に、巨大な逆巻く竜巻が発生した。
それは見えない盾となり、降り注ぐ炎の雨を巻き上げ、空へと散らした。
轟音と共に、炎が虚空で弾ける。
「なっ……」
その威力に、門番たちやゼファーが目を見開く。
かつて未熟で、何もできなかった娘。
だが今、彼女が放ったのは、歴戦の精霊使いのみが行使できる高位の防御魔法だった。それは、彼女が過酷な外の世界で、仲間を守るために磨き上げてきた力の証明だった。
「はぁ、はぁ……!」
シルフィが肩で息をしながら、父を振り返る。
その目に怯えはない。あるのは、故郷を守りたいという強い意志だけだ。
「……お父様、今は追い出すとか言わないで! 私も戦う!」
ゼファーは娘の顔をじっと見つめた。
数秒の沈黙の後、彼は短く、しかし力強く告げた。
「……話は後だ。今は手伝ってもらうぞ、シルフィ」
「っ……はい!」
父の許しを得て、シルフィは力強く頷いた。
燃え落ちる故郷を背に、因縁の親子による一時的共闘が幕を開けた。




