第3話 聖女の奇跡
精霊の森の手前、街道沿いにある小さな村。
そこは本来、森へ向かう旅人が休息をとるのどかな場所のはずだった。
「……臭うな」
ユートが御者台で鼻を鳴らした。
風に乗って漂ってくるのは、田舎特有の牧草の香りではない。
鼻の奥にへばりつくような、腐った油と、何かが焼け焦げた刺激臭。
「っ……何よ、これ」
幌から顔を出したシルフィが、絶句した。
村の入り口付近の道端には、力なく座り込む民たちの姿があった。
その様相は異様だった。彼らの衣服や肌は、べっとりと黒い泥のようなもので汚れている。いや、泥ではない。虹色の光沢を放つ、粘着質の液体だ。
「廃油……? どうしてこんな森の近くに、あんな工業廃液みたいなものが……」
「川から流れてきているのかもしれないな」
「だとしたら最悪よ」
シルフィが青ざめた顔で森の方角を見据える。
「森の入り口でこれなのよ? 水源に近い奥地では、もっと酷いことが起きているってことじゃない! 精霊たちが……森が死んじゃうわ!」
彼女の予感は正しかった。
この汚れ方は尋常ではない。森の内部で大規模な何かが行われている証拠だ。
◇
「マスター、あちらを。……妙に活気がありますわ」
リリィが扇子で示したのは、村の中央広場だった。
そこは、巨大な野戦病院と化していた。
「並んでください! 聖女様の手は休まりませんよ! 次!」
「押さないで! 配給は全員に行き渡りますから!」
神官服を着た者たちが、声を張り上げて列を整理している。
炊き出しの列、治療の列、重傷者の搬送ルート。
一見すれば、迅速で素晴らしい救済活動に見える。
ユートはそこに奇妙な違和感を覚えた。
(……早すぎる。一人ひとりの診察時間が短すぎるぞ)
まるでベルトコンベアだ。
患者の状態を見るのではなく、ただ「処理」して数をこなすことに特化した、冷たい効率化。
その「処理ライン」の終着点。一段高くなった台の上に、その人物はいた。
「さあ、次の人! ……ああ、心配しないで。私の魔力は尽きませんから!」
純白の聖衣を翻し、慈愛に満ちた笑顔を振りまく美女。
勇者パーティの現役聖女、ルミナだ。
「聖女様、ありがとう、ありがとう……!」
「ああ、痛みが消えた! 奇跡だ!」
彼女が杖を振るうたびに、患者の傷が光に包まれて塞がり、観衆から拍手喝采が巻き起こる。
ルミナはその称賛を全身で浴び、恍惚とした表情を浮かべていた。
「……ねえユート。あれって、勇者パーティの聖女ルミナよね?」
シルフィが不思議そうに尋ねる。
「どうして彼女がここに? ザスターたちと一緒にいるはずじゃ……」
「さあな。はぐれたか、別行動か」
ユートは短く答えたが、内心では確信していた。
(……あいつのことだ。勇者の横にいるよりも、こうして一人で『奇跡』をばら撒く方が、効率よく名声を得られると計算したんだろう)
彼女にとって、ここは医療現場ではない。
自らの慈悲深さと、聖女としての力を誇示するための舞台なのだ。
◇
その時。
人垣を割って、担架が運び込まれてきた。
「道を空けてくれ! 子供が、子供が息をしてないんだ!」
運ばれてきたのは、獣人の少年だった。
全身が痙攣し、口から白い泡を吹いている。肌は赤黒く腫れ上がり、異常な高熱を発しているのが遠目にも分かった。
そして、その子供の手には、泥にまみれた「黒いローブ」が握りしめられていた。
「……ッ!?」
そのローブを見た瞬間。
ユートの思考が白く染まった。
見間違えるはずがない。
裾に施された、特徴的な幾何学模様の刺繍。
かつて自分が妹に教え、彼女が拙い手つきで一生懸命に縫い付けた、世界に一つだけの魔術紋様。
(……なんで、あれがここにある?)
妹は、故郷の村が滅んだ時に死んだはずだ。
だが、あの刺繍は確かに彼女のものだ。
ずっと探し続けていた唯一の手がかりが、今、死にかけた少年の手にある。
「おい、そのローブ……!」
ユートは人混みをかき分け、なりふり構わず前へと進み出た。
◇
ルミナが少年の顔を覗き込む。
「あらあら、可哀想に。酷い熱ですね」
彼女は一瞬だけ眉をひそめ、すぐに「慈愛の聖女」の顔を作った。
「体の中が『穢れ』だらけです。悪い毒素が回っているのですね。……すぐに浄化しましょう」
ルミナは杖を掲げ、高らかに宣言する。その診断を聞いた瞬間、ユートの背筋が凍りついた。
(……は? 穢れだと?)
ユートの『解析』が、少年の体内を走る魔力の流れを捉える。
確かに毒素はある。だが、それ以上に活発なのは、少年自身の免疫機能だ。
未知の毒物に対抗するため、体内の魔力が総動員され、必死に「抗体」を作り出し、熱を出してウイルスと戦っている状態だ。
「聖なる光よ、全ての不浄を焼き払い、無垢なる状態へ還したまえ!」
ルミナの詠唱が始まる。
練り上げられる魔力構成を見て、ユートは戦慄した。
(……! あの術式構成は『全浄化』か!?)
(馬鹿な、この子の熱源はウイルスじゃない、環境適応のための抗体反応だぞ!?)
『全浄化』は、対象の状態異常を強制的にリセットする高位の魔法だ。
今の状態でそれを撃てばどうなるか。
毒への抵抗力を失った身体に、外気の負荷が直撃する。
(免疫ごと消し飛ばせば、急性ショックで即死する……!)
それは治療ではない。とどめの一撃だ。
妹の手がかりを持つ少年が、今、無知な善意によって殺されようとしている。
「【聖域浄化】!」
ルミナが杖を振り下ろす。
「やめろッ!!」
ユートの叫びが広場に響いた。
それは感情的な制止ではなく、目前の「殺人行為」を阻止するための警告だった。
だが、遅かった。
カッッッ!!
眩い光の柱が少年を包み込む。
観衆から「おおぉ……!」と感嘆の声が漏れる。
光が収まった時、少年の痙攣はピタリと止まっていた。赤黒かった肌も、嘘のように白くなっている。
「はい、治りましたよ」
ルミナは額の汗を拭い、満足げに微笑んだ。
観衆が再び拍手を送ろうとする。
ユートには見えていた。少年の胸郭が、不自然に跳ね上がるのを。
心臓の鼓動が乱れ、生命の灯火がフッと消えかけようとしているのを。
(……手遅れか。いや、まだだ!)
(まだ、心臓は動いている! 外部からの干渉を『遮断』すれば間に合う!)
「どけッ!!」
ユートは群衆を突き飛ばし、聖女の近くへと駆け出した。




