第2話 惨劇の空、泥の味
精霊の森、東部。
鏡のように澄み渡った巨大な湖が広がっている。
『水晶湖』と呼ばれるその場所は、水の氏族(妖精やネレイド)たちの楽園であり、森の水源を司る聖なる場所だった。
「ふあぁ……今日も平和ねえ」
湖畔に設けられた純白のあずまやで、水の氏族長ルルは優雅に紅茶を啜っていた。
透き通るような羽を持つ妖精たちが、水面を滑るように飛び回り、キラキラと鱗粉を撒いている。
泥一つない、完璧に浄化された世界。それこそがルルの誇りだった。
「ルル様! 報告です!」
慌てた様子の側近が飛んでくる。
「上空に、正体不明の飛行物体が接近中! 白い船のような形をしています!」
「白い船? ……ああ、またあの馬鹿(勇者)が来たの?」
ルルは呆れたようにカップを置いた。
以前、薄汚い靴でこの湖に入ろうとした無礼な男の顔が浮かぶ。
「しつこい男は嫌われるわよ。追い返しなさい。……二度と来れないように、水鉄砲で撃ち落としても構わないわ」
「は、はい! 直ちに迎撃態勢を……」
側近が敬礼し、飛び去ろうとしたその時だった。
ヒュルルルルルル……
上空から、空気を切り裂くような音が響く。
「え?」
ルルが見上げるよりも早く。
ドォォォォォォォン!!!
湖の中央で巨大な水柱が上がった。
優雅なお茶会が一瞬で吹き飛ぶ。衝撃波がテーブルを薙ぎ払い、ルルの小さな身体を玉座から転がり落とさせた。
「きゃっ!? な、何よ!?」
「ルル様! て、敵襲です!!」
血相を変えて戻ってきた側近が、空を指差して絶叫した。
「一隻ではありません! あ、あれを見てください!!」
ルルは震える顔を上げた。
そして、絶句した。
空に浮かんでいたのは、雲ではなかった。
純白の流線型ボディを持つ飛行艇――かつて勇者が乗っていた『イノセント・アーク』だ。
だが、それだけではない。
その背後に、不格好だが確かに空を飛ぶ鉄の船が、九隻ほど追従していたのだ。
「な……何よ、あれ……」
たった十隻の船団。だが、空からの攻撃手段を持たない水の氏族にとって、それは絶望的な光景だった。
◇
「投下ァ!!」
船団から無慈悲な号令が下される。
開かれたハッチから投下されたのは、魔法弾ではなかった。
黒く塗られた鉄の樽――ドラム缶だ。
バシャーン! バシャーン!
無数のドラム缶が湖面に叩きつけられ、ひしゃげ、中身をぶちまける。
溢れ出したのは、ドス黒く濁った廃油と、可燃性の液体燃料だった。
「や、やめて! 私の湖が! 汚さないで!!」
ルルにとって、それは身を切り裂かれるよりも耐え難い光景だった。
神聖な水晶の湖が、瞬く間に虹色の油膜とヘドロで汚染されていく。
「総員、結界を張りなさい! 私の魔力で守るわ!」
ルルは広場の中央で杖を掲げた。
上空に展開される、巨大な水のドーム。物理攻撃と火属性を無効化する、水の氏族最強の防御魔法だ。
ジュウウウウウッ!
降り注ぐ火矢と爆弾が、水の膜に阻まれて蒸発する。
「ふん! 私の結界を破れると思って……!?」
ルルが強気な笑みを浮かべた瞬間。
上空の艦隊が一斉に砲門を開いた。
「斉射ッ!!」
ドガガガガガガガガガガッ!!
雨あられのような砲撃。
十隻分の火力が一点に集中し、水の膜を叩く。
「ぐ、うぅっ……!?」
ミシミシと結界が軋む。
ルルの魔力がゴリゴリと削られていく。
「だ、だめ、支えきれな……」
パリンッ。
硬質な音と共に、水のドームが砕け散った。
降り注ぐのは爆炎と鉄塊。
そして、飛行艇から垂らされたロープを伝い、武装した兵士たちが雪崩れ込んでくる。
「ヒャハハハハ! 燃やせ燃やせェ!!」
「綺麗な顔した妖精どもを燻り出せ!!」
現れたのは、赤い肌のトカゲたち――火の氏族の兵士だ。
彼らは火炎放射器のように改良された魔道具を構え、逃げ惑う妖精たちを容赦なく焼き払う。
「あ、熱い! 助けて!」
「いやぁぁぁ! 羽が、羽がぁ!」
魔法戦に特化し、接近戦を苦手とする妖精たちに、屈強なサラマンダーの暴力に対抗する術はなかった。
一方的な蹂躙。虐殺。
澄んだ水は血と油で黒く濁り、悲鳴が木霊する。
「おのれ、野蛮なトカゲ風情が……!」
ルルは激昂し、杖を振るおうとした。
だが。
「がっ!?」
背後から忍び寄った影に、強烈な一撃を首筋に見舞われた。
視界が明滅する。
朦朧とする意識の中で、首に冷たい金属の感触が走った。カシャンッ、という無機質なロック音。
さらに、乱暴な手つきで両腕を背中側に回され、荒縄でギリギリと締め上げられた。
「な……力が、入らな……」
魔力を練ろうとしても、首輪に阻まれて霧散してしまう。
抵抗することもできず、ドサリと地面に倒れ伏したルルの頭を、硬い軍靴が踏みつけた。
◇
「久しぶりだな、ルル」
燃え盛る集落を背に、一人の男が悠々と降り立った。
豪奢な軍服に身を包み、歪んだ笑みを浮かべる火の氏族長、ヴォルグだ。
「ヴォ……ル、グ……ッ!」
「いつも高い所から見下ろしてくれた礼に、今日は俺が見下ろしてやるよ。……いい眺めだ」
ヴォルグは踏みつけられているルルの顔を覗き込み、愉悦に鼻を鳴らした。
ルルは屈辱に顔を歪めながらも、空に浮かぶ純白の船を睨みつけた。
「どうして……どうしてお前たちが、あの船を……」
「ん? ああ、これか」
ヴォルグは誇らしげに空を仰いだ。
「勇者殿が譲ってくれたのさ。『険しい山に住む可哀想な君たちに、翼をあげよう』とな」
「なっ……勇者、が……!?」
「ハハハ! まさに聖人だな! おかげで俺たちは山を下り、こうして積年の恨みを晴らせるというわけだ」
ルルの顔から血の気が引く。
自分たちを襲っているこの兵器は、あろうことか「勇者の善意」によってもたらされたものだったのだ。
「さて。……捕虜にするのは女だけでいい。残りの男と老人どもは殺せ」
ヴォルグが冷酷に言い放つ。
兵士たちが魔導銃のチャージを開始し、老人や子供たちが悲鳴を上げて身を寄せ合った。
「ま、待って!!」
ルルは必死に声を張り上げた。
「無抵抗な民を殺すなんて、それでも氏族長なの!? あなたたちが憎いのは、氏族長である私でしょう!?」
「ほう?」
「私を……私をどうしてもいいわ! だから……お願い、民には手を出さないで!!」
プライドの高いルルが、初めて他種族の男に頭を下げた。
その必死な懇願を、ヴォルグは見下ろし――やがて、口の端を歪めた。
「俺が移住地のことで何度、嘆願しても拒絶してきたのはてめぇだろ。殺されても文句言えねーよな。それに人に頼む態度じゃないよな」
「お願いします……、民には手を出さないでください」
「……まあ俺は優しいから、覚悟を見せてくれたら、考えてやるよ」
ヴォルグは部下に合図を送る。
運ばれてきたのは、大きなバケツと、深底のスープ皿だった。
バケツの中には、ドス黒い液体が波打っていた。廃油、ヘドロ、そして兵士たちの汗や脂が染み込んだ、この世で最も穢らわしい泥水。
「俺たちが今まで、生きるために啜ってきた泥水だ。お前らのような綺麗な水しか知らない連中に、この味を教えてやる」
部下がスープ皿になみなみと泥水を注ぎ、地面に置く。
「ルールは簡単だ。……その皿一杯を飲み干せば、一人助けてやる。バケツ一杯全て飲み干せば、全員助けてやる」
「そ、そんな……」
「ただし、吐き出しても殺す。一滴でも残しても殺す。……さあ、飲めよ」
背中を押され、ルルは前のめりに倒れ込む。
両手を縛られた彼女は、四つん這いになり、犬のように直接口をつけるしかなかった。
鼻をつく強烈な腐臭。油の臭い。
(私が……私が我慢すれば……)
ルルは意を決して、スープ皿の汚濁に口をつけた。
ジュルッ……。
口内に広がる、粘りつく油と腐った泥の味。
「っ、ごふっ!! おえぇぇぇッ!!」
耐えきれず、ルルは泥水を噴き出した。
生理的な拒絶。清浄な水で育った彼女の身体が、毒のような汚れを受け付けなかったのだ。
「あ……」
しまった。そう思った時には遅かった。
ズドンッ!!
乾いた銃声。
目の前で、人質の老人の頭が弾け飛んだ。
「お爺ちゃん!!」
「いやぁぁぁぁ!!」
悲鳴が上がる。ルルは顔を蒼白にして震え上がった。
「おいおい、汚すなよ」
ヴォルグは冷ややかな目で、銃口から立ち昇る煙を吹いた。
「言っただろ? 吐き出したら殺すと」
「ひっ……!」
「次は子供にするか。ほら、まだ皿には残ってるぞ。……早く飲まないと、また減るぞ?」
ルルは悟った。こいつは本気だ。
自分が躊躇えば、本当に全員殺される。
(飲まなきゃ……全部、飲まなきゃ……!)
ルルは涙を流しながら、再び皿に顔を突っ込んだ。
嘔吐感を必死で押し殺し、ヘドロを喉に流し込む。
ジュルッ、ゴボッ、グヂュッ……。
「ギャハハハハ! 見ろよあの恰好!」
「尻を突き出して、まるで犬だなぁ!」
「高潔な妖精様が、這いつくばって餌を食ってるぞ!」
サラマンダーたちの下卑た嘲笑が降り注ぐ中、ルルはただひたすらに泥水を啜り続けた。
一杯、また一杯。
綺麗なドレスは泥にまみれ、美しい髪は油でベトベトになった。
長い、長い地獄のような時間。
ようやくバケツの底が見え、最後の一滴を舐め取ったルルは、激しく咳き込んだ。
「げほっ、ごほっ! おぇっ……はぁ、はぁ……」
口の周りを黒く汚し、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げる。
「の、飲んだわ……これで、全員助けて……」
ヴォルグは空になったバケツを見下ろし、満足げに頷いた。
「ああ、よくやった。『飲み干したら助けてやる』と言ったな」
そして、冷酷に顎をしゃくった。
「――だがあれは嘘だ」
ルルの思考が凍りついた。
「な……?」
「俺は十分に楽しませてもらったが、部下たちはどうかな? こいつらも、溜まっているんでな」
ヴォルグは吐き捨てるように命じた。
「女は連れて行け。可愛がってやる。……それ以外は全員殺せ」
ダァァァンッ!!
一斉射撃の音が轟く。
老人や怪我人、男たちが、次々とゴミのように撃ち殺されていく。
「あ……あぁ……」
「なっ……嘘つき! 悪魔!! 約束が違うじゃない!!」
ルルは絶叫し、ヴォルグに掴みかかろうとした。
だが、すぐに兵士に髪を掴まれ、ズルズルと引きずられていく。
「いやぁぁぁ! 離して! みんな! みんなぁぁぁ!!」
遠ざかる視界の中。
黒く染められた湖と、死体の山、そして燃え盛る故郷が映る。
水晶の楽園は、一夜にして地獄へと変わった。
「勇者め……! お前さえ、お前さえ来なければぁぁぁぁッ!!」
彼女の憎悪に満ちた叫びも虚しく、黒い煙の中に消えていった。




