第1話 名無しの終わり、旅立ちの空
ガタゴトと、車輪が轍を刻む音が心地よく響く。
薄暗い地下都市や、常に霧に覆われていたネムレスの街とは違う。頭上には突き抜けるような青空が広がり、頬を撫でる風には土と草の匂いが混じっていた。
商人ギルドのアインが用意してくれた幌馬車は、順調に街道を進んでいた。
御者台に座るのは、新緑色のローブを纏った青年――ユートだ。
「……眩しいな」
ユートは目を細め、久しぶりに浴びる直射日光を手で遮った。
緑竜の皮で作られたローブは、風にたなびくたびに微かな鱗光を放ち、周囲の緑豊かな景色に溶け込んでいる。以前の黒ずくめの姿に比べれば、確かに「不審者」感は薄れていた。
「あら、ようやくお天道様の下を歩く気になったのね、マスター」
背後の客席から、リリィがひょっこりと顔を出した。
彼女もまた、ネムレスで調達した旅装束に身を包んでいる。
「別に隠れて歩いていたわけじゃない。……ただ、あの街では『影』に徹する必要があっただけだ」
「ふふ、そうね。でも、ここはもう『名無しの国』じゃないわ」
リリィは扇子を閉じ、意味ありげにユートを見つめた。
「ねえ、マスター。そろそろ教えてくれない?」
「……何をだ?」
「本当の名前があるんでしょう。外の世界でまで、仮面をつけ続ける必要はないでしょう?」
言われてみれば、その通りだった。
ネムレスでは真名を隠すことが絶対の掟だった。だが、今の彼らは自由だ。
「……そうだな」
ユートは頷き、自らの名を口にしようとした。
だが、舌に微かな違和感を覚える。
(……ああ、そうか。まだ『かけっぱなし』だったな)
ネムレスに入った際、自分とシルフィに施した【偽声領域】だ。
互いの名前という特定のワードだけを、強制的に偽名へと変換して認識させる術。そのフィルターが、まだ機能していた。
「……まずは、この枷を外すところからだな」
ユートは小さく呟くと、片手を軽く挙げた。
「【解除】」
パリンッ。
何かが弾けるような乾いた音が響く。
同時に、ユートと、幌の奥で眠るエルフの少女の周囲から、言葉を歪めていた魔力の膜が霧散した。
「……あら? 今、何かした?」
「あの街で使っていた『名前を変換する術』だ。それを今、解いた」
これで、名前は歪められることなく、正しく届く。
「これからはユートだ。……よろしく頼む、リリィ」
「ええ。改めてよろしくてよ、マスター」
リリィは頷くと、幌の奥でうとうとしている少女に視線を向けた。
「それで? そこの眠り姫も、いつまで『エヴァ』のつもりなのかしら」
「んん……?」
長い金髪を揺らし、眠たげに目を擦りながらエルフの少女が起き上がる。
シルフィだ。術が解けた今、彼女の名前もまた、何かに変換されることなくありのままに響くはずだ。
彼女は状況を察すると、ふわりと微笑んだ。
「そうね。私もエヴァは卒業。……これからはまた、シルフィって呼んでね、ユート」
「ああ、勿論だ」
「ふふっ、やっぱりユートに名前を呼ばれるのが、一番しっくりくるわ!」
花が咲くような笑顔。
ネムレスでの緊張感が嘘のように、彼女は無邪気な少女の顔を見せた。
互いに真名を呼び合う。たったそれだけのことだが、三人の間に流れる空気が、仮初めの契約関係から、確かな「仲間」としての絆へと変わった気がした。
◇
昼食休憩のため、街道脇の開けた場所に馬車を停めた。
簡単なサンドイッチを頬張りながら、ユートは地図を広げた。
「さて……目的地である『精霊の森』までは、あと数日の距離だ。そこで、予習をしておきたい」
ユートは視線をシルフィに向けた。
「お前の故郷でもある精霊の森。……そこに住む『氏族』について、詳しく教えてくれないか?」
「ええ、分かったわ」
シルフィは居住まいを正し、地図上の広大な森を指差した。
「精霊の森は、とっても広いの。そこには大きく分けて四つの氏族が住んでいて、それぞれが異なるエリアを統治しているわ」
彼女の説明によれば、森の勢力図は以下のようになっていた。
北の森林地帯を治めるのが、『風の氏族』。
シルフィの出身種族であり、高い魔力と弓の扱い、そして精霊魔法に長けている。排他的でプライドが高く、古い伝統を重んじる傾向があるという。
東の湖沼地帯に住むのが、『水の氏族(妖精やネレイド)』。
気まぐれで遊び好きだが、水辺の環境保全に関しては神経質。他種族が水源を汚すことを極端に嫌う。
西の岩岳地帯を拠点とするのが、『地の氏族』。
頑固で職人気質。お酒を愛し、建築技術に優れている。繊細なエルフとは反りが合わないことが多い。
そして、南の火山地帯に追いやられているのが、『火の氏族』。
「サラマンダー……トカゲの亜人か」
「ええ。彼らは少し特殊なの。かつての大戦で暴れすぎたとかで、森の中でも一番過酷な火山帯に押し込められているわ。他の三氏族からは、少し……いえ、かなり差別されているの」
シルフィの言葉に、少し影が差す。
「彼らの土地は不毛で、いつも食料不足に悩まされているわ。何度か『もっと住みやすい土地を分けてほしい』って嘆願があったみたいだけど……他の氏族長たちがそれを許さなかったみたい」
「……なるほどな」
ユートは短く呟き、地図上の南側、赤く塗られたエリアを見つめた。
抑圧された不満が何を招くか、今の彼には容易に想像がついた。
「そして、森の中央にあるのが『聖域』よ」
シルフィの指が、森の中心部にある空白地帯を指した。
「ネムレスでも説明したように、そこはどの氏族の領土でもない絶対不可侵の場所」
「だから、外部の人間である勇者が調査に雇われたってわけか」
「ええ。……よりによって、一番雇っちゃいけない人たちを呼んじゃったけど」
シルフィは深いため息をついた。
「ねえ、シルフィ」
横で聞いていたリリィが、紅茶を飲みながら問いかけた。
「あなたはエルフの中でも、それなりに良い家柄の娘なんでしょう? どうしてそんな閉鎖的な森を飛び出したの?」
「……必要とされていなかったからよ」
シルフィは自嘲気味に笑った。
「私の家は、代々『風の氏族長』を輩出する名家だった。でも、私は女だったから。一族にとって、私は跡継ぎを産む道具でしかなかったの」
「……それで、家出を?」
「ええ。自分の価値を証明したかった。広い世界に出れば、私だって誰かに必要とされるはずだって」
そうして飛び出した先で出会ったのが、勇者ザスターだった。
「最初はね、憧れてたの。ザスター様はキラキラしてて、強くて、皆に頼りにされてて……。彼についていけば、私も輝けるんじゃないかって」
「でも、違ったのか?」
「……ユートがいなくなって、気づいたのよ。私が必要としていたのは、輝かしい英雄じゃなくて……私のお腹と背中を守ってくれる、確かな支えだったんだって」
シルフィは苦笑しながら、ユートを見た。
「だから追いかけてきたの。最初は『美味しいご飯が食べられないから戻ってきて!』っていう下心だったけど……今は違うわ。私は、あなたと一緒に旅がしたい」
「……買い被りすぎだ。俺はただの結界師だぞ」
「あら、いいじゃない。勇者様が散らかした問題を、渋々片付けて回る結界師。……私は嫌いじゃないわよ?」
「ふん、物好きな奴らだ」
ユートは肩をすくめ、食べ終わった包みを片付けようと空を見上げた。
「……さて、休憩は終わりだ。行くぞ」
ユートは立ち上がり、遥か彼方にある森の輪郭を見据えた。
青空の下、森は静かに広がっているように見える。
だが、シルフィの話を聞く限り、そこには長年の確執と火種が燻っている。そこに「勇者」という劇薬が投入されたのだ。何も起きないはずがない。
(頼むから、俺たちが着くまで無事でいてくれよ……)
心の中で密かに願いながら、ユートは再び手綱を握った。
まだ、空は青く澄んでいる。
その青さが、いつまで続くのか。それを知る者は、まだ誰もいなかった。




