第1話 灼熱地獄と深紅の災厄
故郷の谷を埋め尽くした毒の海を背にしてから、七日が過ぎていた。
大陸北東部へと続く街道は、険しい山岳地帯を縫うように走っている。ユートは擦り切れたブーツで、乾いた土を踏みしめながら歩き続けていた。
道中、すれ違う旅人や商隊の姿は極端に少なかった。稀に見かける馬車も、一様に北の方角から――つまり、ユートが向かっている『灰色の国』方面から、逃げるように南下してくるものばかりだ。
「おい、アンタ。そこから先はやめておけ」
すれ違いざま、荷馬車を引いていた老商人が、青ざめた顔でユートに声をかけてきた。荷台には家財道具が乱雑に積み込まれており、夜逃げ同然の慌ただしさが窺える。
「北で何かあったのか?」
「何か、どころじゃない。……呪いだ。アッシュワルド王国は終わった」
商人は震える手で、懐から水筒を取り出し、一気に飲み干した。脱水症状の兆候がある。ここ数日、異常な暑さに晒されていた証拠だ。
「空が割れて、二つ目の太陽が現れたんだ。霧が消えて、街中が灼熱地獄さ。それに……『赤い悪魔』だ」
「赤い悪魔?」
「ああ。見ただけで目が潰れるような、おぞましい赤色が街の中央を埋め尽くしている。俺たちは命からがら南門から逃げてきたんだ。……悪いことは言わん、引き返したほうがいい」
商人はそれだけ言い捨てると、鞭を入れて馬車を急がせた。遠ざかる車輪の音を聞きながら、ユートは懐から一枚のカードを取り出す。
冒険者ギルドカード。その盤面上には、勇者パーティ〈スターダスト〉のメンバーを示す光点が、北の山脈の向こう側で停滞している。
「二つの太陽に、赤い悪魔、か」
嫌な符合だ。ユートの脳裏に、滅ぼされた故郷の光景が焼き付いている。ザスターの行動原理は常に「善意」だ。そしてその善意は、対象となる相手の事情や文化を一切考慮しない。
ユートはカードを強く握りしめ、足を速める。標高が高くなるにつれて、本来ならば空気は冷え込み、肌寒さを感じるはずの地域だ。だが、現実は逆だった。山道を進むごとに、じっとりとまとわりつくような不快な熱気が増していく。
◇
国境の峠、通称『霧見の峠』に差し掛かった時、その全貌が明らかになった。
「……霧が、ない?」
ユートはフードを目深に被り直し、眼下に広がる巨大な盆地を見下ろして絶句した。
アッシュワルド王国。巨大な湖の中央に浮かぶ要塞のような王城と、その湖畔を取り囲むように広がる城下町。それらを高い外壁が守っている。本来ならば、湖から発生する霧と分厚い雲に覆われ、静寂なモノクロームの世界が広がっているはずだ。
今、ユートの目の前にあるのは、そんな歴史を嘲笑うかのような光景だった。
盆地の上空から、雲が一掃されている。遮るもののない真っ青な空。そこから降り注ぐのは、暴力的なまでの直射日光だ。
それだけではない。城下町の中央、一際高い尖塔を持つ「鐘楼」から、太陽光とは異なる質の、刺すような強烈な輝きが放たれている。
「なんだ、あの光源は……?」
距離がありすぎて正体までは視認できない。だが、あの光が雲を焼き払い、霧を蒸発させている熱源であることは間違いない。
湖の向こうにある王城はよくわからないが、熱源の直下にある城下町は、逃げ場のない蒸し焼き状態にあるはずだ。ユートは斜面を急ぎ駆け下りる。
◇
長い山道を下り、ユートは城下町の南端、正門へと辿り着いた。巨大な石造りの門は、開け放たれたままだ。門の陰になるわずかな隙間に、うずくまる人影があった。
「おい、大丈夫か」
ユートが駆け寄ると、鎧を着た中年男性の衛兵が、ひどく荒い呼吸を繰り返していた。兜の隙間から見える肌は、熟れたトマトのように赤く腫れ上がり、所々に水疱が浮いている。重度の熱傷だ。
「み、ず……あつい……娘は……リズは、無事か……」
衛兵はうわ言のように呟き、自身の顔を覆っている。この南地区でさえこの暑さだ。熱源に近い中央区はどうなっているのか想像もつかない。
ユートは即座に懐から小さな護符を取り出し、衛兵の頭上に放った。
「簡易結界【光遮蔽】」
薄い影の膜が展開され、衛兵の周囲だけ光量が落ちる。さらに腰の水筒の水を、乾いた唇に含ませる。
「……あ……楽に、なった……?」
「喋らなくていい」
今の気温はこの国の人間の適応限界を超えている。それに、この紫外線量は毒だ。
ユートは彼を抱え上げ、より深い物陰――分厚い外壁の内側の窪みへと移動させる。ここなら、少なくとも直射日光は防げるはずだ。
「あんた……旅人か……? すまない、頼みが……」
「喋るなと言ったはずだ」
「大聖堂だ……中央区の、大聖堂に……娘の、リズがいるはずなんだ……あの子が無事かだけでも……」
衛兵はユートの袖を掴み、懇願するような目で訴えてくる。
ユートは小さく息を吐き、その手を振りほどくことなく、短く頷いた。
「……ついでだ。見てきてやる」
「ありがとう……恩に、着る……」
衛兵は安堵したように脱力し、意識を失った。死んではいない。休息が必要なだけだ。
ユートは衛兵に背を向け、街の中へと足を踏み入れる。
南地区は、平民や冒険者が住む居住区だ。
だが、人の気配がない。路地には逃げ遅れた人々の遺体が転がり、腐臭と、肉が焼ける臭いが混じり合って漂っている。建物の中からは、時折、力のない呻き声が聞こえるだけだ。多くの住民は、家の中でじっと死を待っているのだろう。
ユートはさらに北へ、熱気が強まる方角へと進む。
中央区。この街の心臓部であり、大聖堂や広場がある交流の場。そこは、この世の地獄だった。
「う、うあぁぁぁ……! 悪魔だ! 赤い悪魔が!」
広場の手前で、男が一人、ふらふらと這い出してきた。両手で目を押さえているが、その指の隙間から血が流れている。自ら目を潰したのだ。あまりに強烈な「赤」の刺激に脳が耐えきれず、視神経からの情報を物理的に遮断するために。
「やめろ! こっちに来るな! 赤いの、消えろぉぉ!」
男はパニック状態で、目の前に立つユートすらも認識できず、見えない敵に向かって腕を振り回している。ユートは男の首筋に手刀を打ち込み、意識を刈り取る。そのまま男の身体を抱え、近くの店舗の廃墟へと運び込んだ。
「……商人の言っていた通りだ」
ユートは広場に出る。目の前に広がった光景に、彼は息を飲んだ。
中央広場の大噴水。本来なら市民の憩いの場であるはずの水辺は、干上がりかけていた。だが、それ以上に異様なのは、その周囲だ。
薔薇だ。
それも、品種改良によって赤色を極限まで濃くしたような、血濡れたごとき深紅の薔薇。
噴水をぐるりと取り囲むように、幾重にも植えられた薔薇の壁。まるで、聖なる泉を守る棘の要塞のように、水を求める人々を拒絶している。
広場全体を埋め尽くす数万本の薔薇が、上空の鐘楼から降り注ぐ強烈な光を反射している。
そして、その中心、噴水の前に、誇らしげな立て看板が掲げられていた。
『灰色の世界に住む、ちょっと寂しげな君たちへ!
暗い霧は晴らしておいたよ! ついでに愛と情熱の「赤」をプレゼントだ!
お城の王様からも、この輝く街がよーく見えるはずだ!
王様もきっと涙を流して喜んでくれる!
さあ、太陽の下で、薔薇のように情熱的に笑い合おう!
――勇者パーティ〈スターダスト〉リーダー、ザスターより愛を込めて』
「……『涙を流して』、か。ああ、そうだろうな」
ユートは看板に近づき、そのふざけた文面を拳で殴りつけた。メキ、と乾いた音が響き、あいつの爽やかな笑顔が描かれた板がへし折れる。
「網膜が焼ければ、誰だって涙くらい流す。それを感動と履き違えるな、愚か者が」
鐘楼で燦燦と輝く光源。そしてこの広場を埋め尽くす異常な薔薇。すべては「善意」という名の災害だ。
「……ザスター、お前の撒き散らしたゴミを、徹底的に掃除してやる」
黒衣の結界師の瞳に、冷徹な光が宿る。
南門で助けた衛兵との約束も、路地で倒れていた男も、この広場の惨状も。全てを背負い、彼は掃除の準備を始めた。




