第8話 煉獄の底で輝く黄金の奇跡
【2026/01/01:前話(第7話)の修正報告】
第8話の投稿にあたり、時系列と演出を整理しました。
これに伴い、第7話のラストにあった「蟲の出現シーン」を、本話(第8話)の冒頭へ移動しています。
以前の第7話を読まれた方は、シーンの重複や変化にお気づきになるかと思いますが、脳内での補完をお願いします!
日付が変わる瞬間。ネムレスの街は、奇妙な静寂に包まれていた。
上層の豪邸。ある貴族の寝室にて。
彼は勇者から購入した「名札」を握りしめ、震えながら時計の針を見つめていた。
「大丈夫だ……勇者様の魔除けがある。何も起きない……」
カチリ。
長針と短針が重なり、深夜零時を告げる鐘が鳴り響いた。
瞬間、世界が裏返った。
貴族の足元、蝋燭の光が生み出す「影」が、まるで泥沼のように沸騰したのだ。
ぞわり、と肌が粟立つような悪寒。
影の中から、無数の「何か」が這い出してくる気配。
見えない。だが、確実にそこにいる。魂を喰らおうとする捕食者の群れが、寝台を取り囲んでいた。
「ひっ、あ、あぁぁぁ……ッ!?」
貴族は絶叫し、名札を掲げた。
だが、名札は守ってくれない。それどころか、名札こそが彼らを呼び寄せる「標的」となって光っていた。
影が鎌首をもたげ、彼の喉元に迫る。
絶体絶命。
しかし――その刃が振り下ろされることはなかった。
ズドォォォォォォォォンッ!!
窓の外、遥か遠く――下層の方角から、青白い光の柱が天を突くように噴き上がった。
強烈な魔力の波動が、夜空を焦がす。
同時に、貴族を襲おうとしていた「影」たちがピタリと動きを止めた。
――匂いだ。
目の前の痩せ細った魂など比較にならないほどの、濃厚で、熟成された「極上の恐怖」の匂いが、下から漂ってきたのだ。
ギィィィィッ!!
蟲たちは歓喜の悲鳴を上げ、貴族を捨て置いた。
そして我先にと床を抜け、壁をすり抜け、光の源――地下の底へと殺到していく。
「た、助かった……のか?」
上層で、中層で、同じ光景が無数に繰り広げられた。
彼らは知る由もない。
自分たちに向けられていた食欲が、より美味な「餌」を用意した一人の結界師によって誘導されたことを。
◇
地下迷宮への入り口、『奈落の這い口』内部。
ドォォォォォォォッ!!
これまで「撒き餌」によって堰き止められていた魔物の津波が、一気に決壊した。
解放された数万の魔物が、出口を求めてドーム内へと雪崩れ込んでくる。
「――始まったな」
ユートとシルフィは、ドームの端――強固な岩盤を背にした壁際に陣取っていた。
ここならば背後を取られる心配はない。結界の効果範囲を見渡せる特等席だ。
ユートは眼下に広がる魔物の津波を見据え、楔に触れた。
「まずは下準備だ。――対象干渉・【危機感増幅】」
ユートが魔力を流し込む。
結界内に充満させるのは『閉鎖空間へのパニック』と『濃密な死の匂い』だ。
魔物たちの本能に、強烈な「怯え」を植え付ける。それこそが、蟲を招くための最高のスパイスとなる。
グルゥァァァァッ!?
魔物たちが怯え、身を寄せ合う。
その時だった。
ザザザザザザッ……!!
天井の影から、壁の隙間から、数千という「気配」が降り注いだ。
上層から「極上の恐怖」に釣られてやってきた、飢えた蟲の群れだ。
蟲たちは、震える魔物の群れを見て狂喜乱舞し、襲いかかった。
ドサッ……。
先頭にいた巨大なオーガが、外傷もないのに糸が切れたように崩れ落ちた。
魂を啜られたのだ。
それを見た周囲の魔物が狂乱する。
ガガガガッ!!
ブンッ!!
見えない敵への恐怖と、仲間が死ぬ混乱で、魔物たちが暴れ始めた。
巨大な棍棒や斧がデタラメに振り回され、同士討ちが始まる。
『蟲』が魂を食い殺し、生き残った魔物が恐怖で互いの肉体を破壊する。地獄の連鎖。
「……えげつないわね」
シルフィが眉をひそめながらも、近寄ってくる魔物を次々と『風の矢』で射抜いていく。
一方的な虐殺。だが、数は減らない。
それどころか、狂乱した魔物の一部が、暗闇の中を手当たり次第に走り回り、偶然にも出口の方へ向かっていく。
「漏れたか……!」
ユートは結界内の反応でそれを感知した。
だが、追うことはできない。ここを離れれば陣形が崩れる。
(頼むぞ、アイン。外に出た奴らは任せた)
◇
一方、その頃。中層の冒険者ギルド前広場。
深夜にもかかわらず、多くの冒険者たちが地面の震動に怯え、集まっていた。
「おい、聞いたか? 下層でとんでもねぇ音がしてるぞ……」
「やっぱり『黒の噴出』だ! 勇者様の加護でも抑えきれなかったんだ!」
「逃げろ! ここにいたら死ぬぞ!」
パニックになりかける冒険者たち。
だが、その中の一人が叫んだ。
「待てよ! ……下層から、魔物が上がってきてないぞ?」
「あ?」
「誰かが……下で食い止めてるんじゃないか?」
その言葉に、全員が動きを止めた。
下層に残っているのは、逃げ遅れた貧民や、身寄りのないゴロツキたちだけのはずだ。
「あいつら、俺たちの代わりに命張ってるのかよ……」
「……クソッ! 俺たちは勇者様を信じて、逃げることしか考えてなかったってのか!?」
一人の戦士が、剣を地面に叩きつけた。
恥辱と、後悔。そして、戦士としての最後の矜持が彼らを突き動かす。
「……行くぞ!! 下層の連中だけに任せられるかよ!!」
「おうッ!!」
数十、数百の冒険者たちが、武器を手に地下への階段を駆け下りていった。
◇
再び、地下迷宮の入り口。
状況は新たな局面に移行していた。
「……恐怖は十分に熟成されたな」
ユートは楔の前で印を結ぶ。
蟲たちは腹を満たし、動きが鈍り始めている。今が好機だ。
「第二段階移行。――ルール追加。『強制実体化』!」
バゥンッ!!
空気が爆ぜるような音と共に、世界が色を変えた。
それまで「見えない死」だった蟲たちが、おぞましい多脚の姿を持って実体化したのだ。
ギチチチチッ!?
突然、触れられる肉体を持たされた蟲たちが困惑する。
対して、魔物たちの目は血走っていた。
見えない恐怖が見える敵に変わった瞬間、生物としての生存本能が爆発したのだ。
ガァァァァァァッ!!
反撃開始。
魔物の剛腕が蟲を叩き潰し、牙が甲殻を噛み砕く。
数千の蟲と、数万の魔物による泥沼の殺し合い。
狙い通り、数は激減していく。
だが――。
「……蟲の方が、脆いか」
物理攻撃が通るようになった蟲は、圧倒的な膂力を持つ魔物の前では分が悪かった。
蟲は全滅し、生き残ったのは――血に飢え、興奮状態にある凶暴な魔物たちだった。
「グルゥァァァァッ!!」
蟲という共通の敵を失った魔物たちが、次なる標的をユートたちへと定めた。
壁際にいる二人目掛けて、魔物の津波が押し寄せる。
「……来るわよ、トピア!」
シルフィが叫ぶと同時に、魔物の大群が肉薄する。
【深淵封鎖】は、領域内のデバフに特化したものであり、目前の物理攻撃を防ぐ盾ではない。
「――【多重防護円】、展開ッ!」
ユートは片手を前方に突き出し、二人の前方に簡易的な防御障壁を展開した。
ドォン!! ドォン!!
数千の質量が障壁に激突し、青白い光の壁が悲鳴を上げる。
ユートは歯を食いしばり、魔力を注ぎ込む。だが、広域結界の維持と実体化、さらに防御障壁への出力。
魔力は急速に底をつきかけていた。
(リリィ……聞こえるか)
ユートは念話を飛ばした。
(悪いが、想定より消耗が早い。お前はアインと共に上へ逃げろ。俺とエヴァで時間を稼ぐ)
アインたちが持ちこたえている保証もない。
せめてリリィだけでも逃がす。そう判断した時だった。
「――黙りなさい、この駄犬ッ!!」
凛とした怒声が、脳内にではなく、直接鼓膜に響いた。
直後。
カッッッ!!!!
極大の冷気が炸裂した。
ユートたちに殺到していた魔物の先頭集団が、一瞬にして巨大な氷塊へと変わる。次の瞬間、ばらばらに砕け散った。ユート達と魔物の間には、分厚い氷の壁が生成された。
粉塵とダイヤモンドダストが舞う中、カツ、カツとヒールの音が響く。
現れたのは、青い軍服ドレスを纏ったリリィだった。
彼女は銀色の髪をふわりと手でかき上げ、戦場に似つかわしくない優雅な仕草で微笑んだ。
「お前!? 待機していろと言ったはずだ!」
「聞こえないわね! 私のマスターが、こんな薄暗い場所で力尽きるなんて許さないって言ってるのよ!」
彼女はユートの胸倉を掴むと、強引に顔を引き寄せた。
「私を『保険』だと言ったのはあなたでしょう!? なら、使い潰す気で使いなさいよ!」
「……えっ?」
シルフィが呆気にとられる目の前で。
リリィは躊躇なく、ユートの唇に自身の唇を重ねた。
「んっ……!」
それは、口づけというにはあまりに乱暴で、しかし濃密な魔力譲渡だった。
リリィの体内に渦巻く高密度の魔力が、接触点を通じてユートの乾いた器へとなだれ込んでくる。
熱い。焼けるような奔流。
再起動には十分すぎる量が充填される。
「ぷはっ……!」
唇を離したリリィは、息を切らせながら、勝ち誇ったように笑った。
「……これで、文句ないでしょう? さあ、続きをやりなさい、トピア!」
「……まったく。主人の命令を聞かない『従者』もいたもんだ」
ユートは口元を拭い、ニヤリと笑った。
再び楔に手を伸ばす。
その時、ドームの入り口から新たな足音が響いてきた。
「おいおい、ここでとんでもねぇ祭りやってるって聞いたが……本当かよ!」
「魔物はどこだ! 俺たちも加勢するぞ!」
中層から駆けつけた冒険者たちだ。
さらに、血濡れの双短剣を提げたアインも姿を見せる。たまたま外に出てきた魔物を処理していたのだろう。
「よう、生きてるか! 外に出たのは全部片付けたぞ。残りは中だけだ!」
戦力は揃った。
だが、相手は強化された魔物の生き残り。冒険者たちでは犠牲が出る。
ユートは楔を強く握りしめた。
「……上等だ」
充填された魔力を、すべて四隅の楔へ叩き込む。
結界の定義を、根底から書き換える。
「定義変更! 効果反転! 対象識別、敵性以外! ――広域指定結界・【広域加護】!!」
キィィィィィン!!
ドーム内を満たしていた青白い光が、眩い黄金色へと変貌した。
それは魔物を閉じ込め、弱体化させる檻から、中にいる人間に力を与える聖域へと変わった。
「な、なんだ!? 身体が……軽い!?」
「傷が……塞がっていくぞ!?」
駆けつけた冒険者たち、そしてアインやシルフィの身体が黄金のオーラに包まれる。
全ステータス向上。自動治癒。状態異常無効。
勇者の支援魔法すら凌駕する、最上級の全体強化だ。
「うおおおおっ! 力が湧いてきやがる!!」
「これならいけるぞ!!」
ユートは叫んだ。
「このまま俺は結界を維持する! お前らは死ぬ気で武器を振るえ! 一匹たりとも残すな!!」
「「「オオオオオオオオッ!!!」」」
強化された人類側の反撃が始まった。
リリィの氷魔法が敵を凍らせ、シルフィの風の矢が急所を射抜き、アインの双短剣が踊るように魔物を切り裂く。
そして冒険者たちの刃が、怒涛の勢いで魔物を押し返していく。
◇
数刻後。
最後の魔物が倒れ、地下迷宮内に静寂が戻った。
辺りは魔物の死骸と血の海だ。
だが、人間の死体は一つもない。
怪我人は多数いるが、結界の治癒効果のおかげで、重篤化する前に傷が塞がっている。
数万の魔物と古代の呪いを相手に、一人の犠牲者も出さなかった奇跡。
「……か、勝った……のか?」
誰かが呟いた。
次の瞬間。
「うおおおおおおおおっ!!」
「勝ったぞぉぉぉぉぉ!!」
冒険者たちが武器を掲げ、歓声がドームを揺らした。
互いに抱き合い、涙を流し、生還を喜ぶ声が響き渡る。
その光景を見届け、ユートはフッと息を吐き、結界への魔力供給を断った。
「……やれやれ。残業代くらいは、請求したいもんだな……」
張り詰めていた糸が切れ、ユートの視界が暗転する。
ドサッ。
前に倒れ込む身体。
だが、冷たい地面に激突することはなかった。
「トピア!」
「ちょっと、しっかりしなさいよ!」
左右から、柔らかく温かい感触が彼を支えていた。
シルフィとリリィ。
二人の少女に抱えられながら、ユートの意識は深い安らぎへと沈んでいった。




