第6話 最悪のシナリオと最狂の解法
地下室の空気は重く、黴と安煙草の匂いが充満していた。
隻眼の男――下層を取り仕切る顔役、アインは、深々と椅子に腰掛け、値踏みするようにユートを見つめている。
「……なるほどな。この街の足元に仕掛けられた『時限爆弾』を解除しに来た、か」
アインは短く鼻を鳴らした。
ユートの話を聞き終えた彼は、嘲笑することなく、ただ低い声で応じた。
「観光気分の馬鹿かと思ったが……どうやら、とんでもねぇ奴らが迷い込んだらしい」
「理解が早くて助かる。俺たちにとっても時間は惜しい」
ユートは表情を変えずに続ける。
部下たちは遠巻きに二人を囲んでいるが、先ほどのような殺気はない。
「協力してほしい。状況を正確に分析するためには、現地の情報が必要だ」
「いいだろう。俺たちにとっても死活問題だからな。……何が聞きたい?」
「『名を奪う蟲』についてだ。伝承でも実体験でも構わない。奴らの特性をすべて教えてくれ」
アインは懐から葉巻を取り出し、火を点けた。紫煙を吐き出しながら、記憶を手繰るように語り始める。
「……あの蟲は、ずっと昔からこの土地に巣食ってる『呪い』のようなもんだ。普段は名前さえ隠せばやり過ごせる。被害に遭うのは、うっかり所構わず名乗っちまった馬鹿が年に数人……そんな程度だった」
「物理的な防壁は?」
「意味がねぇ。鉄の扉で閉ざされた部屋だろうが、四方八方を兵士で囲もうが関係ねぇんだ。奴らは『影』から湧き出してくる」
「影、か」
「ああ。名乗った者の魂の匂いを嗅ぎつけて、影を伝ってどこまでも追ってくる。だが、このネムレスの土地を離れれば襲われないとも聞く。……地縛霊に近い特性だな」
アインの話を聞きながら、ユートの脳内で情報が構築されていく。
影からの出現。物理無効。土地への縛り。
そこから導き出される結論は――。
「……推測だが、奴らは音声をトリガーにしているんじゃない」
ユートは指先でテーブルを叩く。
「奴らが感知しているのは、真名を名乗った際に魂から発せられる『個体識別波長』だ」
「こたい……なんだって?」
「魂の指紋のようなものだ。自分の名を口にする時、魂は無意識に『自己』を定義する。その瞬間の魔力波長を、蟲たちはマーキングしているんだ」
ユートは冷徹に分析を続ける。
「そして九十日という期間。これは『熟成』だ。マーキングされた魂は、無意識下で死への恐怖を感じ取り、少しずつ変質していく。蟲たちは、その恐怖心が魂に完全に染み渡り、最高の味付けになるのを待っているんだろう」
隣で聞いていたシルフィが、青ざめた顔で口元を押さえる。
「なによそれ……。食べるために、わざと怯えさせてるってこと?」
「ああ。この呪いは、いかに効率よく、人間を追い詰めるかに特化しすぎている。自然発生した魔物じゃない。……おそらく、古代の術者が『復讐』のために生み出した生物兵器の成れの果てだろう」
元を断つには、その古代術式の大元――「核」を見つけ出し、解体する必要がある。だが、それには数ヶ月単位の調査が必要だ。
時間がない。
「……話はそれだけじゃねぇぞ」
アインが葉巻を灰皿に押し付け、身を乗り出した。
その隻眼に、深刻な色が宿る。
「あと一週間だ。……一週間後に、十年周期の『黒の噴出』が来る」
「ああ、それは聞いた。だが、今回は規模が違うのか?」
「桁違いだ。部下に地下の偵察をさせたが……戻ってきた奴は半狂乱だったよ。『聞いたこともないような魔物の呻き声が、地獄の底から響いてくる』とな」
アインの声が重く沈む。
「普段なら間引きをしているからガス抜きができている。だが、あの馬鹿勇者が蓋をしたせいで、十年分の『陰の気』が限界まで圧縮されちまった。……噴出が起きれば、下層はおろか、中層まで飲み込まれるだろう」
「……蓋?」
ユートは眉をひそめ、冷たく訂正した。
「違うな。奴がやったのは『蓋』じゃない。『撒き餌』だ」
「あ?」
「名札という『餌』で、本来なら散らばるはずの魔物を招き寄せ、地下の一点に集中させているだけだ。出口を塞いで抑え込んだんじゃない。奴らは餌の匂いに狂い、地下で芋洗い状態になって膨れ上がっている」
アインが絶句する。
それは、単なる放置よりもたちが悪い。
「さらに最悪なのは、その決壊予想日が……市民たちが名札をつけてから、ちょうど『九十日目』に重なってるってことだ」
一瞬、場が凍りついた。
ユートもまた、その意味を理解し、眉間の皺を深くした。
「……嘘、でしょ?」
シルフィが震える声で呟く。
黒の噴出による魔物の大量発生。
名を奪う蟲による魂の捕食。
それが、同じ日に、同時に起きる。
「……笑えるだろ? 蟲に魂を食われて、抜け殻になった人間の肉体が、あふれ出した魔物の餌になるんだ。残飯処理まで完璧なフルコースだ」
アインが自嘲気味に笑う。
俺ら下層の人間は名札を買わなかったから蟲には食われない。だが、最大規模の「黒の噴出」が起きれば、下層は物理的に壊滅する。どちらにせよ死は避けられない。
「あの馬鹿は……ッ!」
ユートはギリッと奥歯を噛み締めた。
ドサッ。
隣で、何かが崩れ落ちる音がした。
「あ、ぅ……」
シルフィが床に膝をつき、震える両手で顔を覆っていた。
「嘘よ……そんな、酷すぎる……。助けようとしてたんじゃないの……? ザスター様は、みんなを……」
彼女の信じていた「善意」が、最悪の「殺意」となってこの街に降り注ごうとしている。その事実に、彼女の心がついに限界を迎えたのだ。
ポン。
不意に、シルフィの肩に手が置かれた。
ユートだ。彼は何も言わず、ただ少しだけ強く、彼女の華奢な肩を叩いた。
それは「今は耐えろ」という、彼なりの不器用な慰めだった。
「魔除けを配ったつもりだったんだろうが……実際は魔物を招き寄せ、さらには『呪いの発動日』まで災害の日に重ねてしまったわけか」
「無能な働き者は質が悪いな」
ユートの冷たい一言に、アインも「全くだ」と同意する。
「で、どうする? 英雄気取りは高飛びしちまった。この街はもう詰みだ」
「……いや。まだ手はある」
ユートは顔を上げた。
その瞳に、絶望の色はない。あるのは、複雑なパズルを解く時のような、冷徹な計算の光だけだ。
「敵は二種類。『奪名蟲』と『黒の噴出』の魔物群だ。これらを正面から相手にするには、俺一人では手が足りない」
「だろうな。軍隊でもなけりゃ無理だ」
「だから――殺し合わせる」
「は?」
アインの声が裏返った。
「蟲の狙いは『恐怖で熟成された魂』だ。だが、上層の市民たちはどうだ? 勇者を信じ、名札をありがたがり、能天気に笑っている。……つまり、まだ『恐怖』が足りていない」
ユートは指を一本立てる。
「そこで、俺が代わりの『餌』を用意する。市民たちよりも遥かに濃厚な、極上の恐怖心に漬け込んだ『ダミーの魂』だ」
「……おい、まさか。誰かを生贄にする気じゃねぇだろうな」
「まさか。そんな効率の悪いことはしない。材料なら向こうからやってくる」
ユートは足元の地面を指差した。
「『黒の噴出』で溢れ出る魔物たちだ。こいつらが俺たちの『身代わり(ダミー)』になる」
そこでユートは言葉を切り、アインを真っ直ぐに見据えた。
「一つ確認だ。地下迷宮への入り口……魔物たちが溢れ出してくる場所に、まとまった数は入る広間のような空間はあるか?」
「広間? ……ああ、あるぜ。『奈落の這い口』って呼ばれてる巨大なドーム状の空間だ。千や二千の軍勢なら余裕で展開できる」
「上等だ。そこを『処刑場』にする」
地形は完璧だ。ユートは脳内で設計図を引きながら、空中で拳を握りしめた。
「その広場に大規模な結界陣を敷設し、溢れ出た魔物を一時的に閉じ込める。そして閉鎖空間内の『危機感』を、結界術で強制的に増幅させるんだ」
袋小路に追い詰められた鼠は恐怖する。それを魔術的に千倍、一万倍に増幅してやる。
「理性がない魔物は、本能的なパニックに抗えない。思考が焼き切れるほどの恐怖状態……それは『奪名蟲』にとって、最高に熟成された『恐怖の魂』の匂いになる」
「だが、それじゃあ片手落ちだ」
アインが鋭く指摘する。
「恐怖で蟲を呼べたとしても、相手は『影』だぞ? 物理攻撃が効かねぇ。魔物が一方的に食われて終わりじゃねぇか。それじゃあ蟲の腹を満たすだけだ」
「ああ。普通ならそうなる。だからルールを変える」
ユートは平然と言い放った。
「俺が敷く結界には、もう一つ定義を組み込む。『強制実体化』だ」
「あ?」
「結界内部において、霊体や影、不可視の存在を強制的に『物理次元』に引きずり下ろす。つまり、魔物の爪や牙が、蟲に届くようになる」
ユートは残酷な笑みを浮かべた。
「恐怖でパニックになった獣は、痛みに敏感だ。我が身を食らおうとする蟲が『実体』を持って襲ってくれば、魔物は死に物狂いで反撃するだろう」
見えない恐怖には怯えるしかないが、見える敵なら殺せる。
魔物は蟲を千切り、蟲は魔物を食らう。
完全な潰し合い(デスマッチ)。
「……正気かよ」
アインが呆れたように口を開けた。
「何千、何万という魔物と、見えねぇ蟲の群れだぞ? それをコントロールするなんざ、神業じゃきかねぇ」
「俺は神じゃない。ただの結界師だ」
ユートは淡々と言い放つ。
「だが、神が作った理不尽なルールを書き換えることくらいはできる」
部屋に沈黙が落ちた。
あまりにも無茶で、あまりにも傲慢な作戦。
だが、それ以外にこの絶望的な状況を覆す術がないことも事実だった。
「……気に入った」
アインがニヤリと笑い、立ち上がった。
「……いいぜ、乗ってやる。俺たち下層の命、アンタの『結界』に預ける」
「ああ。漏れた雑魚は個別撃破してもらうことになる。手は貸してもらうぞ」
「望むところだ!」
ユートは頷くと、視線を横に向けた。
まだ床で目を赤くしているシルフィを見下ろす。
「おい、エヴァ。いつまで落ち込んでいる」
「……トピア」
「心が折れている暇があるなら、手を動かせ。お前もこのふざけた災害を止めるために、手伝うんだ」
「……ッ!」
シルフィが顔を上げる。その瞳から、迷いは消えかけていた。
彼女は涙を乱暴に拭うと、力強く立ち上がった。
「……うん。やるわ。こんな結末、絶対に認めない!」
ユートは小さく口の端を緩め、地下の暗闇を見据えた。
あと一週間。
準備期間はギリギリだ。だが、間に合わせる。
英雄が撒き散らした「善意」という名の汚物を、綺麗さっぱり消毒するために。




