第5話 試される覚悟
自由都市ネムレス、下層。
頭上遥か彼方に広がる中層の床板が空を遮り、万年、薄暗い影が落ちる場所。湿った冷気が肌にまとわりつき、視界は乳白色の霧で閉ざされていた。
本来なら貧しい者たちの生活臭や、煮炊きの煙が漂うはずの場所だ。だが、今はそれすらない。まるで住民が蒸発してしまったかのような、不気味な無臭が広がっている。
「……静かすぎるわね」
シルフィが不安げに身を寄せてくる。
彼女の言う通りだ。中層のような活気もなければ、スラム特有の喧騒や怒号もない。ただ、押し黙ったような静寂だけが支配している。
だが、無人ではない。
(……見られているな)
ユートはフードの下で目を細めた。
気配はある。崩れかけた廃屋の窓、積み上げられた木箱の隙間。
無数の視線が、霧の奥からこちらの様子を窺っている。それは獲物を狙う獣の目というより、異物を値踏みする監視者の目だった。
どうやら、歓迎はされていないらしい。
「足元に気をつけろ。かなり視界が悪い」
「う、うん。分かったわ、トピア」
二人は霧の中を慎重に進む。
しばらく歩くと、少し開けた場所に出た。かつては市場か広場だったのだろうか、朽ちた噴水の跡がある。
その時だった。
ヒュンッ! ザシュッ!!
鋭い風切り音と共に、ユートの爪先ギリギリ――石畳の目地に、一本の短剣が深々と突き刺さった。
風化して詰め物が剥がれ落ちた、わずかな隙間の土を正確に射抜く、恐るべきコントロールだ。
「ひっ!?」
シルフィが短く悲鳴を上げる。
だが、それはただの合図に過ぎなかった。
彼女が反応するよりも速く、背後の霧が揺らぎ、複数の影が音もなく二人の背後を取っていたのだ。
「動くな」
低く、冷徹な声。
同時に、ユートの喉元に冷たい金属の感触が押し当てられる。
完璧な手際だった。殺気すら漏らさず、死角から忍び寄るプロの動き。足元の短剣は、注意を下に向けるための囮だ。
(……なるほど。統率が取れている)
ユートは抵抗しなかった。
結界を展開して弾き飛ばすことは造作もない。だが、ここで暴れれば「対話」の道は閉ざされる。この街の裏側を知る者たちと接触するには、あえて捕まるのも一つの手だ。
「抵抗するなよ、エヴァ」
「えっ? で、でも……トピア!」
ユートは短く視線を送った。『騒ぎを起こすな。俺に任せろ』という無言の合図だ。
シルフィは瞬時にそれを理解し、詠唱しかけた唇を噛んで押し黙った。
「話が早くて助かるぜ」
背後の男が短く笑う。
男たちは無言で二人に近寄り、手際よく後ろ手に拘束し、視界を奪うための目隠しと、詠唱封じの猿轡を噛ませた。
「少し眠ってもらう」
トン、と首筋に手刀が落とされる。
ユートはあえて意識を手放すふりをして、その衝撃に身を委ねた。
◇
目が覚めた時、鼻をついたのは黴と鉄錆の匂いだった。
どうやら地下室に運ばれたらしい。湿度は高く、空気は淀んでいる。
ユートは乱暴に椅子に座らされ、背もたれごと荒縄で縛り上げられていた。
「おい、起きろ」
頭から冷水を浴びせられる。
ユートが小さく身じろぎすると、目隠しと猿轡が荒々しく剥ぎ取られた。
眩しさに目を細める。
薄暗いランプの光の中に、一人の男が座っていた。
年齢は四十代半ば。鍛え上げられた巨躯に、歴戦の冒険者を思わせる傷だらけの革鎧を纏っている。
特徴的なのはその顔だ。左半分に大きな火傷の爛れがある。それは炎によるものではなく、何か強力な酸で皮膚を溶かされたかのような、生々しい古傷だった。その隻眼が鋭い眼光で二人を射抜いていた。
周囲には武装した男たちが五、六人。全員が隙のない構えでこちらを囲んでいる。
「……っ、ぷはっ! な、なによここ!」
隣でシルフィも水をかけられ、目を覚ましたようだ。状況を理解できず、キョロキョロと周囲を見回している。
「静かにしろ」
隻眼の男が低い声を発しただけで、場の空気がピリリと張り詰めた。
男はゆっくりと身体を前傾させ、ユートを睨みつける。
「お前たちは何者だ」
問いかけに、ユートは無言で視線を返す。
男は鼻を鳴らした。
「この時期に下層に来る奴は、二種類しかいねぇ」
男が指を二本立てる。
「一つ。勇者が街を救ったと信じ込み、観光気分で迷い込んだ考えなしの馬鹿」
「……」
「二つ。この街の異常な静けさを嗅ぎつけ、何かを探りに来た鼻の利く野郎だ」
隻眼の男が顎をしゃくる。
すると、部下の一人がユートの身体調査を始めた。ポケットを探り、所持品をチェックしていく。
「親方、こいつら冒険者ギルドの許可証を持ってます」
部下が取り出したのは、今朝ギルドで発行してもらったばかりの羊皮紙だった。
ユートが無造作にズボンのポケットに突っ込んでいたため、くしゃくしゃに丸まっている。
「ほう?」
「……目的は『勇者様の聖地巡礼』だとよ」
部下が呆れたような声で読み上げる。
ギルドの受付嬢が、魔物が出ない下層への『調査』名目での発行を渋り、代わりに『巡礼』扱いで処理した書類だ。
「聖地巡礼だと? ケッ、笑わせやがる。最近多いんだよ、勇者が戦った場所を見たいとかぬかす平和ボケした観光客がな」
その瞬間、周囲の男たちの間に失笑と、明らかな侮蔑の空気が広がった。
彼らは勇者を嫌っている。そして、その威光に群がる者たちを心底軽蔑しているようだ。
「なんだ、ただの信者かよ」
「勇者の残り香でも嗅ぎに来たか? めでたい頭してやがる」
部下は屑を見るような目で、くしゃくしゃになった許可証をユートの足元に放り投げた。
ユートは何も答えない。ただ冷めた目でそれを見つめるだけだ。
隻眼の男が、深く溜息をついた。
「……なんだ、ガッカリさせてくれるじゃねぇか」
男はゆっくりと立ち上がり、腰のベルトから湾曲した短剣を引き抜いた。
ギラリ、と鈍い光が刃渡りを走る。
その切っ先には、歴戦の戦士だけが持つ濃密な殺気が宿っていた。
「ひっ……!」
シルフィが息を呑む。
男はユートの目の前まで歩み寄る。
「俺たちは忙しいんだ。考えなしの馬鹿の相手をしてる暇はねぇ」
男の隻眼が、氷のように冷たく光る。
「考えなしの馬鹿なら、今死んでも問題ないよな」
殺気。
男の腕が閃いた。
躊躇のない、首を刈り取るための一撃がユートに振り下ろされる。
「いやぁぁぁぁぁっ!!」
シルフィが絶叫し、ギュッと目を閉じる。
だが、ユートは瞬きひとつしなかった。
身体を引くことも、目を逸らすこともしない。ただ真っ直ぐに、男の隻眼の奥にある感情を見据えていた。
――ザシュッ。
乾いた音が響き、何かが床に落ちる。
それはユートの首ではなかった。
彼の上半身を椅子ごと縛り上げていた、太い荒縄だった。
「……親方?」
部下が驚いて声を上げる。
隻眼の男は短剣を収めると、椅子に深々と座り直した。
「こいつらは信者じゃねぇよ」
男は足元に落ちた許可証を指差した。
「わからねぇのか。本当に勇者様万歳という頭の湧いた奴なら、勇者の名前が入った許可証を、あんなくしゃくしゃにしてポケットに入れたりしねぇよ」
「……そうだな。信者なら額に入れて飾るだろうな」
ユートは短く同意し、足元の許可証を冷めた目で見下ろした。
「俺にとってそれは、ただの通行手形だ。それ以上の価値はない」
部下たちがハッとして、くしゃくしゃになった許可証を見る。
「それに、今の刃筋を見ても眉一つ動かさなかった。……肝が据わってるのか、俺の狙いが見えていたのか」
ユートは自由になった手で手首をさすりながら、静かに口を開いた。
「最初から首は狙っていなかっただろう。その角度なら、縄しか切れない」
ユートには見えていた。
男の殺気は本物だったが、その切っ先の軌道は、喉元の数センチ横、正確に縄の結び目だけを狙っていた。これはただの処刑ではない。度胸と、本質を見抜く「選別」だ。
「……ふん。口だけじゃねぇようだな」
隻眼の男の顔に、初めて薄い笑みが浮かんだ。それは敵意ではなく、対等な交渉相手に対する品定めのような笑みだった。
「楽にしてやれ。馬鹿じゃねぇなら、客として扱ってやる」
親方の指示を受け、部下たちが慌ててシルフィの拘束を解きにかかる。
シルフィが「し、死ぬかと思った……」と涙目でへたり込む横で、ユートは手首をさすりながら立ち上がった。
「それで、あんたは? ただのチンピラの頭領じゃないだろう」
ユートが問いかけると、隻眼の男はニヤリと口角を上げた。
「アインだ」
「アイン?」
「このネムレスの裏社会を牛耳る『暗殺者ギルド』のギルドマスター。……そして、組織における『No.1(アイン)』という意味だ」
男――アインは、自身の隻眼を指差した。
その言葉には、称号以上の重みがあった。死線を潜り抜けた者だけが持つ、圧倒的な自負。
ユートは軽く頷いた。交渉相手としては申し分ない。
「分かった。俺はトピア。こっちはエヴァだ」
「偽名だな。ま、いいさ。この街じゃ名前なんて呪いでしかねぇ」
アインは椅子に深く座り直し、組んだ足を机に乗せた。
「では、話を聞こうか? この時期に、わざわざ死に場所へ降りてきた理由を」
「死に場所を探しに来たんじゃない」
ユートは静かに、しかし力強く告げた。
「この街の足元に仕掛けられた『時限爆弾』を解除する術を探しに来たんだ」




