第3話 輝く『餌』と黄金の口止め
中層の広場は、異常な熱気に包まれていた。
かつてのネムレスにあった「混沌とした自由」ではない。どこか張り付いたような、強迫的な明るさがそこにはあった。
「さあ買った買った! 勇者様直筆の『勇気の名札』だ! これさえありゃあ、地下の蟲も怖くねぇ!」
広場の露店では、木製の名札が飛ぶように売れている。
ユートは人波をかき分け、露店の一つに近づいた。
「おや、兄ちゃん達は旅人かい? 名札を持ってないなんて命知らずだな! 今なら特別価格、銀貨五枚だ!」
店主が愛想よく声をかけてくる。その胸にも、自身の本名『バロス』と刻まれた名札が光っている。
ユートは無言で銀貨を弾き、名札を二つ購入した。
「名前はどうする? 魔法で刻むが」
「……『トピア』。連れは『エヴァ』だ」
「あいよ!」
店主が魔道具のペンを走らせると、木札に名前が浮かび上がり、ボウッと淡い光を放ち始めた。
◇
名札を受け取った二人は、人目を避けるように湿った路地裏へと足を踏み入れた。
表通りの喧騒が嘘のように遠ざかり、ゴミとカビの臭いが鼻をつく。
「ねぇ、これつけるの?」
「まさか。……まずは実験だ」
ユートは自分の名札『トピア』を手に持ち、壁の亀裂――湿気が溜まり、小さな羽虫やダンゴムシが蠢いている隙間へと近づけた。
すると、数匹の羽虫がふらふらと名札に近寄ってきた。
一見すると、ただ光に誘われただけのようにも見える。だが、ユートの眼は逃さない。
「よく見てみろ」
「う……虫? 光に集まってるだけじゃない?」
「違う。顎を使ってる」
ユートが指差す先。名札に止まった虫たちは、名札の表面に食い込む勢いで顎を突き立て、ガジガジと木を齧っていた。それは走光性による誘引ではなく、明確な「捕食行動」あるいは「攻撃衝動」だった。
「こいつらはまだ小さいから、木を傷つける程度で済んでいる。一般人は『光に虫が寄ってきた』程度にしか思わないだろうな」
「で、でも……もし、もっと大きいのが来たら?」
「……人間ごと齧りつくだろうな」
ユートは名札を【収納結界】にしまい込んだ。途端に、光を遮断された虫たちは興味を失い、散り散りになっていく。
「これは『魔除け』じゃない。『誘導標識』だ」
「ビーコン?」
「微弱な魔力パルスが出ている。地中深くに住む生物の神経節を刺激し、強烈な食欲と攻撃性を誘発する信号だ」
つまり、これは「魔物が寄ってこないお守り」ではなく、「魔物に『ここに極上の餌があるぞ』と知らせる呼び鈴」ということだ。
「な……っ! じゃあ、あの人たちは自分から『私を食べて』って言ってるようなものじゃない! なんてことするのよ、ザスター様……」
シルフィは青ざめ、自身の古巣のリーダーの名を口にする。
ユートはため息をつき、冷めた目で彼女を見下ろした。
「おい、料理大好きポンコツエルフ」
「えっ? はぁ!? なに急に、喧嘩売ってんの?」
唐突な暴言に、シルフィが眉を吊り上げる。
ユートは淡々と続けた。
「声がでかい。……いいか、この街の風習に従え。俺たちは偽名で通す」
「それは分かってるけど……」
「分かってない。蟲の特性が完全に割れてない以上、不用意に『真名』を口にするな。音声に反応する可能性だってゼロじゃないんだ。現に今、お前はあいつの名前を叫んだだろう」
指摘され、シルフィがハッとして口を押さえる。
「あ……! い、言っちゃった……どうしよう、今の聞かれてザスター様が襲われたら……!」
「気にするな。あいつのことだ、名前を呼ばれて蟲が湧いたところで、どうとでもなる」
ユートはつまらなそうに鼻を鳴らした。
「あの男は無駄に頑丈だし、馬鹿みたいな実力だけはある。この程度の蟲に食い殺されるようなタマじゃない」
「そ、そうよね……勇者様だもんね」
「まあ、万が一それで死ぬなら、それまでの男だったというだけだ」
「むぅ……言い方」
シルフィが唇を尖らせるが、その表情には安堵の色が戻っていた。
ユートは話題を切り替える。
「問題なのは俺たちだ。お前は嘘をつくのが絶望的に下手だからな。ボロを出して面倒ごとに巻き込まれる未来しか見えない」
「うっ……否定はできないけど」
「だから強制的に書き換える。動くな」
ユートは指先で空中に複雑な紋様を描く。
「定義変更。――対象、音声認識。置換名『トピア』『エヴァ』。構築・【偽声領域】」
淡い光が二人を包み込み、すぐに肌に吸い込まれて消えた。
「これで俺たちの会話を聞く第三者の脳には、俺の名前は『トピア』、お前の名前は『エヴァ』と変換されて認識される。俺たち自身の耳にもだ」
「へぇ……。じゃあ、トピア?」
シルフィが目を丸くする。今、彼女は確かに「ユート」と呼んだつもりだったが、口から出た音、そして耳に入った音は「トピア」だった。
「すごい……! 違和感ないわね、トピア」
「ああ。これでボロは出ない。行くぞ、エヴァ」
その時。
表の通りから、怒鳴り声と何かが砕ける音が響いた。
「おいおいおい! 今月の『監査料』が足りねぇじゃねえか!」
ユートたちが路地の入り口から様子を窺うと、先ほどの露店で騒ぎが起きていた。
恰幅の良い男が、店主の胸倉を掴み上げている。上質な絹の服を着ており、胸には商人ギルドの紋章。背後には武装した護衛を二人従えていた。
「や、役人様! 勘弁してください! 名札の仕入れ値が上がって、利益なんてほとんど……!」
「あぁん? 勇者様の聖なる事業にケチをつける気か? この街の治安を守ってるのは誰だと思ってんだ」
役人はニタニタと笑いながら、店主の売り上げ箱を勝手に漁り、銀貨をごっそりと懐に入れた。
「これは罰金として預かっておく。……それとも何か? お前、下層の空気が吸いたいのか?」
「ッ……! そ、それだけは……!」
「分かればいいんだよ。次は『裏』の品物も用意しとけよ? 最近、上層の旦那衆は活きのいい『商品』をお求めだからな」
役人は店主を突き飛ばし、鼻を鳴らした。
シルフィが嫌悪感に顔を歪める。
「……最低。勇者様の名前を使って、あんな……」
その時だった。
ふと路地の方を振り向いた役人と、目が合った。
「ん……? おや、そこにいるのは……」
役人の視線が、路地の影に立つエルフを捉えた。
その目が、ネチャリと粘りつくような欲望の色に染まる。
「ほう……。これはまた、上玉のエルフじゃないか」
役人は護衛を引き連れ、ズカズカと路地の方へ近づいてきた。
逃げ場のない狭い路地。シルフィが一歩下がる。
「なんだ、この街の人間じゃないな? 見ない顔だ」
「……旅の者ですけど、何か?」
「おっと、怖い顔をしないでくれよ。私は商人ギルドの監査官だ。この街の『安全』を守る義務があるんでね」
役人は下卑た笑みを浮かべ、シルフィとの距離を詰める。
その視線は、彼女の顔ではなく、豊かな胸元へと注がれていた。さきほど口にした『裏の商品』としての値踏みをする目だ。
「君、名札をつけていないね? それは重大な違反だ。……ん? いや、服の下につけているのかな? どれ、私が直接確認してあげよう」
役人の太い手が、あからさまにシルフィの胸へと伸びる。
「名札の確認」という大義名分を盾にしたセクハラ。いや、抵抗すれば公務執行妨害で捕らえ、そのまま『商品』として売り飛ばすつもりだろう。
「やめっ……!」
シルフィが精霊魔法を使おうと身構える。
だが、街中で役人に魔法を使えば、正当防衛だろうと犯罪者扱いだ。彼女の中で「怒り」と「保身」がせめぎ合う。
その手が彼女に触れる寸前。
パシッ。
横から伸びた手が、役人の手首を掴んだ。
強くはない。だが、万力のように正確にツボを押さえた掴み方だ。
「痛っ!? な、なんだ貴様!」
「連れが失礼しました、お役人様」
そこにいたのは、フードを目深に被ったユートだった。
声色は平坦で、感情が見えない。
「田舎者でしてね。都会のルールに疎いんです。名札ならここにありますよ」
ユートは役人の手首を離すと同時に、懐から一枚の金貨を取り出し、役人の胸ポケットに素早くねじ込んだ。
「これで『名札代』と『指導料』、両方賄えませんか?」
役人が目を丸くする。銀貨ではない、金貨だ。
男の表情が、怒りから卑しい歓喜へと一瞬で切り替わる。
「ほ、ほう……。話の分かる奴じゃないか」
「ええ。我々はただの旅行者です。トラブルは好みません」
ユートは一歩前に出る。
フードの下から、鋭い眼光だけが役人を射抜いた。
言葉には出さない。だが、その全身から放たれる「これ以上踏み込むなら、タダじゃおかない」という、熟練の冒険者だけが放てる静かな殺気が、役人の肌を粟立たせた。
「……ッ」
役人は本能的に後ずさった。金は欲しいが、命の危険を冒すほどの度胸はない小悪党だ。
「ふ、ふん。まあいいだろう。今回は見逃してやる。……だが、次はないぞ!」
役人は捨て台詞を吐き、そそくさとその場を去っていった。
周囲の市民たちは、見て見ぬふりをして足早に通り過ぎていく。誰も助けようとしない。
この街には王も法もない。あるのは「金」と、それを牛耳る「商人ギルド」の絶対的な支配だけなのだろう。
嵐が過ぎ去り、シルフィが深い溜息をつく。
「……最悪」
彼女は自分の体を抱きしめるようにして震えた。
「あいつら、勇者様の名前を使って……あんな汚いことを……」
「どこにでもいる手合いだ。勇者が光なら、そこに群がる影も濃くなる」
「でも……勇者様は、こんなこと望んでないはずよ!」
シルフィの声には、悲痛な響きがあった。
勇者の善意が悪用されている。その事実は、彼女にとって「勇者が間違っていた」と認めること以上に辛いことなのかもしれない。
「……あと、ありがとね。トピア」
シルフィが俯きながら、ぽつりと呟く。
「その……守ってくれて。ちょっとだけ、嬉しかった」
「勘違いするな」
ユートは素っ気なく返す。
「あそこで魔法をぶっ放されたら、俺まで指名手配だ。金で済むなら安いもんだろ」
「……ふふ。素直じゃないんだから」
シルフィが小さく笑う。少しだけ、いつもの調子が戻ったようだ。
「行くぞ、エヴァ。目立ちすぎた」
「……うん。分かったわ、トピア」
暴力で解決するのは簡単だ。だが、それでは根本的な解決にはならない。
この街にはびこる腐敗と、地下からの脅威。その両方を断つための準備が必要だ。
二人は冒険者ギルドの看板を目指し、雑踏の中へと消えていった。
第2話のラストシーンの描写を少し修正しました(ストーリーの大筋に変更はありません)。




