第2話 森の晩餐と光る名札の狂気
意識が浮上する。
パチパチという木が爆ぜる音と、温かな熱を感じた。頭の下にある感触は、硬い地面ではなく、絶妙に柔らかい。そしていい匂いがする。
「……っ、はっ!」
ユートは弾かれたように目を開けた。
視界に入ってきたのは、揺らめく焚き火の明かりと、心配そうにこちらを覗き込むエルフの少女の顔だった。
「あ、起きた」
「……俺は……」
「いきなり倒れるんだもん。とりあえず風で運んで、安全な場所まで移動したわよ」
シルフィが安堵の息をつく。
周囲を見渡せば、街道から少し離れた開けた場所に、風のドームが展開されていた。【風精のゆりかご】だ。
普段よりも密度が濃く、温かい空気が循環している。森という環境が、エルフである彼女の精霊魔法を増幅させているのだろう。
「すまない……。焚き火の準備まで、お前が?」
ユートが上体を起こそうとすると、その額に細い指が押し当てられた。
「まだ、だーめ」
軽い力だが、今の消耗した体には抗えない優しさがあった。
「ユートには遠く及ばないけど、私でも簡易結界くらいは使えるから。大人しく寝てなさい」
彼女はそう言い、再びユートの頭を膝に乗せた。
ユートは天井――揺らめく風の結界を見つめながら、ポツリと漏らす。
「……こんなことをされても、俺は、お前たちを許す気にはならないぞ」
「うん。……それでもいいよ」
いつもの軽口は返ってこなかった。
シルフィは静かに、ユートの髪を指で弄ぶ。
「たぶん、アッシュワルドでも、そうだったのよね……」
「……」
「私、今までのこと、これからのこと、ちゃんと考える。ユートが見ている世界を、私もちゃんと見なきゃいけない気がするの」
ユートは言葉に詰まった。
許しはしない。だが、彼女が現実から目を逸らさずにいようとしているなら、それを無下にすることもできない。
重苦しい、けれど冷たくはない沈黙が流れた。
その時。
ぐぅぅぅぅぅ~~ッ。
森の静寂を切り裂く、雷のような音が鳴り響いた。
シルフィのお腹だ。
「……あ」
シルフィの顔がカァッと赤くなる。
シリアスな空気は、盛大な空腹の音と共に霧散した。
「……考えるには、エネルギーが必要だからね! その、あはは……」
バツが悪そうに笑うシルフィを見て、ユートは大きくため息をついた。
張り詰めていた糸が、少しだけ緩むのを感じた。
「……どけ。飯にする」
「えっ、でも体調は……」
「腹の音がうるさくて休まらん」
ユートは体を起こし、何もない空間に手をかざした。
「展開・【収納結界】」。
空間に四角い亀裂が走り、亜空間倉庫が開く。そこから鍋と水、干し肉、乾燥野菜、そして数種類のスパイスを取り出し、手際よく焚き火に鍋をかけて調理を始める。
「わぁ……! ユートのご飯!」
シルフィが瞳を輝かせる。
ユートは無言でスープを煮込む。本来なら自分一人の旅だ、固いパンをかじるだけで済ませるはずだった。だが、甲斐甲斐しく(腹を鳴らしながら)待つ少女のために、温かい食事を用意している自分がいる。
「……ほら、食え」
「いただきまーす!」
差し出されたスープを、シルフィはハフハフと言いながら頬張る。
「おいしい!」と破顔したその幸せそうな顔を見ていると、先ほどまでの激情が嘘のように凪いでいくのを感じた。
◇
食後、就寝の準備をする段になって、ユートは地面に置いた「楔」を拾い上げようとした。
ズシリ、と重みがかかる。まだ魔力も体力も戻りきっていない今の体には、ミスリル合金の塊は鉛のように感じられた。一見するとただの無骨な鉄塊に見えるが、中身は魔力伝導率を極限まで高めた特注の合金だ。
(……チッ。指先が震えるな)
舌打ちしそうになった時、横からシルフィの手が伸びてきた。
彼女は楔の束にそっと触れる。ふわり、と緑色の微風が金属を包み込んだ。
「……何をした」
「【風の加護・小】よ。……森の中だと精霊の機嫌がいいし、ちょっとだけ軽くしておいたわ」
シルフィはそっぽを向いて言う。
「アンタがまた倒れたら、運ぶ私の身にもなってよね。……重かったんだから」
「……」
手に取ると、驚くほど軽い。まるで羽のように手になじむ。
これなら、消耗した状態でも精密な投擲が可能だ。
「……余計な世話だ」
ユートは短く言い捨てたが、その魔力を解除することはしなかった。
拒絶はしない。それが、今の二人における精一杯の妥協点だった。
「さて、寝るぞ。夜の森を抜けるなど自殺行為だ」
ユートは立ち上がり、軽くなった楔を四方へと投擲した。
ヒュンッ!
風の加護を受けた楔は、普段よりも鋭い軌道を描き、吸い込まれるように地面へと突き刺さった。
「展開・【野営天蓋】」
ユートはシルフィのサポートの効果を無言で認めつつ、術式を起動する。
四本の楔を基点に、透明なドームが形成された。シルフィの簡易結界とは強度が違う、害獣や魔物の接近を感知し、温度と湿度を最適に保つプロ仕様の安全地帯だ。
「おやすみ。見張りはいらない、結界がやる」
「……うん。おやすみなさい」
二人は焚き火を囲み、それぞれの毛布にくるまる。
完全な静寂の中で、ユートは深く息を吐き、泥のように眠りに落ちた。
◇
翌朝。
鳥のさえずりと共に目を覚ました二人は、身支度を整えて森を出発した。
街道へ出るまでの道すがら、ユートは自身の体調を確認する。魔力は三割……いや、四割といったところか。
昨夜の食事と安眠で最低限の活動レベルには戻ったが、焼き切れかけた魔力回路がまだ疼く。万全には程遠い。
それに比べて、隣のエルフは肌艶もよく、無駄に元気だ。森環境の恩恵はずるい、とユートは内心で舌打ちする。
街道沿いの乗合所に着くと、そこには既に数人の旅人が馬車を待っていた。
本来、自由都市同盟ネムレスへ向かう乗合馬車といえば、祖国を追われた犯罪者や、名を捨てて一攫千金を狙う商人が、重苦しい覚悟を決めて乗り込むものだ。
だが、今日の乗客たちは様子が違った。家族連れや身なりの良い若者が多く、まるで観光旅行のような浮かれた顔で談笑しているのだ。
「おい、聞いたか? ネムレスが『安全な街』になったって話」
「ああ! 勇者様が『魔除けのお守り』を配ってるらしいぞ。名前を書くだけで魔物が寄ってこなくなるんだってな!」
馬車に乗り込むと、車内はそんな噂話で持ちきりだった。
「ねぇユート……。聞いた? ザスター様の話」
シルフィが小声で耳打ちしてくる。
その表情は、以前のような手放しの称賛ではない。期待と、不安。自分の信じてきた英雄が、本当に「善い行い」をしているのかどうか、確かめたいと願うような複雑な瞳だった。
「……『そうだといい』と思ってるのか」
「……うん。だって、今度こそは……みんな笑ってるし」
ユートは「……だといいがな」とだけ返し、腕組みをして目を閉じた。
魔除けのお守り。名前を書くだけ。きな臭い。結界師の直感が警鐘を鳴らしている。「名前」という個人情報をトリガーにする術式は、大抵ろくなものではない。
馬車に揺られること数時間。
森を抜け、視界が開けると、その巨大な都市が姿を現した。
自由都市同盟ネムレス。
巨大な断崖絶壁にへばりつくように建設された、三層構造の階層都市だ。
下層は、薄暗く、治安が悪いスラム街。
中腹には、無数の商店、冒険者ギルドと住居がひしめき合う一般居住区。
そして頂上付近には、陽光を浴びて輝く富裕層と商人ギルドが鎮座する上層区。
欲望と貧困、栄光と没落が階段一つで繋がった、混沌と自由の都。
だが、近づくにつれて異様な光景が目に入ってきた。
都市全体が、不自然にキラキラと点滅しているのだ。
馬車が検問を抜ける。ここは「自由都市」だ。入るだけなら誰でも入れる。だが、その先で生きていけるかは別問題だ。本来なら、ここをくぐる者は悲壮な決意を顔に浮かべるはずだが……。
大通りを行き交う人々は、胸に木製の名札をつけていた。
そこには魔法で大きく名前が刻まれ、誘蛾灯のように微弱な光を放っている。
「俺はトムだ! 勇者様公認だぞ!」
「私はマリーよ! 見て、この名札!」
かつて名を隠し、息を潜めて生きていたアウトローたちが、まるで自己紹介パーティのように名前を晒して歩いている。
異常だ。集団催眠にでもかかったかのような、底抜けに明るい狂気。
「うわぁ……みんなキラキラしてる。……でも、なんか変じゃない?」
シルフィも違和感を覚えたようだ。明るすぎる笑顔が、逆に不気味に映る。
ユートは目を細め、名札から発せられる光を凝視する。
(……なんだ、あの光は)
一見するとただの照明魔法に見える。だが、何かが引っかかる。
微弱だが、独特の魔力配列が組まれている気配がする。魔物を遠ざける「忌避」の結界ではない。もっと別の、何らかの意図を持った術式だ。
「……確かめる必要があるな」
遠目からでは解析しきれない。
馬車は、巨大な縦穴の縁に沿って作られた大通り――中層の広場で停止した。
ユートは馬車を降り、光る名札をぶら下げた人だかりの方へと視線を巡らせる。
まずは現物の確保だ。
その一歩を踏み出した瞬間。
ドクリ、と。
足元の石畳の遥か下から、何かおぞましいものが蠢く振動が伝わってきた気がした。




