第1話 噛み合わない記憶、新たな『善意』
アッシュワルド王国を出て、西の街道へ抜けるための深い森の中。
ユートとシルフィは、乗り合い馬車の停留所を目指して歩いていた。
木漏れ日が差す穏やかな道だが、ユートの足取りは重い。アッシュワルドでの連戦、特に初代国王から呪いを剥離した際の魔力消費は、想像以上に彼の身体を蝕んでいた。
「あーあ、暇ねぇ。ねぇユート、まだ着かないの?」
後ろを歩くシルフィが、退屈そうに小石を蹴る。
彼女の足取りは驚くほど軽い。アッシュワルドであれだけの極大魔法を放った後だというのに、今の彼女には疲労の色が微塵もなかった。
「……お前は元気だな」
「ん? だってここ、森じゃない。エルフにとって森は実家みたいなものよ。息をしてるだけで魔力が満ちてくるわ」
シルフィが深呼吸をすると、周囲の木々がざわめき、微弱な光の粒子が彼女に吸い込まれていく。
それに加えて、出発前に食べた特製ハンバーグの効果もあるのだろう。「美味しいご飯と森の空気」。この二つが揃ったエルフは、無尽蔵のスタミナお化けと化していた。
(……羨ましい種族だ。こっちは魔力回路が焼き切れそうだっていうのに)
ユートは心の中で毒づく。
人間である彼には、そんな自動回復機能はない。今はただ、泥のように重い体を引きずって歩くのが精一杯だった。
そんなユートの様子など露知らず、シルフィは暇を持て余し、ついにユートへの干渉を始めた。
彼女はひょいとユートの隣に並び、無邪気な瞳で覗き込む。その瞳には悪意のかけらもない。ただ純粋な好奇心だけがある。それが、今のユートには何よりの毒だった。
「ねぇ、ユートってさ、なんでこんな風に旅してるの? パーティを抜けたなら、一旦故郷に戻ればよかったじゃない」
ユートの足がピタリと止まる。
心臓が、ドクリと嫌な音を立てた。
故郷。あの毒の海に沈んだ谷底の村。
こいつは今、なんと言った?
「……戻る故郷なんて、もうない」
「え? どういうこと? だってザスター様が解決してくれたんでしょ?」
シルフィは不思議そうに首を傾げる。
彼女の記憶の中では、あの村での出来事は「英雄譚」として処理されているのだ。
「あの村、なんか厳しい『掟』があったじゃない? 『村の外へ出てはいけない』とか『儀式の間から動いてはいけない』とか。ザスター様がその古い掟を壊して、ユートを自由にしてあげたのよね?」
ユートの視界が赤く染まる。
血管の中で血が逆流するような感覚。
握りしめた拳が、ギリギリと音を立てる。
「……自由、だと?」
「そうよ。あんな暗い部屋に閉じ込められて可哀想だって、ザスター様が助け出したんじゃない。村の人たちも、ユートが旅立つことを見送ってくれたでしょ?」
違う。
あれは「監禁」ではなかった。
村を包む致死性の毒ガスから身を守るため、ユート自身の魔力を結界に供給し続けるための「座」だったのだ。
俺がそこにいることで、村は守られていた。
それを「不自由だ」「可哀想だ」と勝手に解釈し、無理やり引き剥がしたのは誰だ。
「……ふざけるな」
「えっ?」
「お前たちが……俺を連れ去ったから、村は滅んだんだッ!!」
ユートはシルフィの肩を掴み、森の静寂を切り裂くように叫んだ。
感情のダムが決壊していた。
「あの日、俺がいなくなったせいで結界への魔力供給が断たれた! 俺が戻った時には、村は毒の海に沈んでいたんだ!」
「え……ど、毒……?」
「そうだ! ザスターが壊したのは『束縛』じゃない、『結界の要石(俺)』だったんだよ! それを……解決しただと……!」
シルフィが目を見開く。
彼女の脳裏にある「感謝されて見送られた記憶」と、目の前のユートが語る「地獄の真実」が噛み合わない。
「嘘……だって、ザスター様は……村のために……」
「お前たちが見た『見送り』も、あれは感謝の手を振っていたんじゃない……助けてくれと、手を伸ばしていたんだ……!」
ユートの脳裏に、毒霧に巻かれた故郷の光景がフラッシュバックする。
あの日、村に戻った自分が見たのは、紫色の毒煙に沈む家々と、倒れ伏す人々の影だった。
中に入って助けることなどできなかった。すでに手遅れだった。
自分にできたのは、毒が外へ漏れ出さないよう、泣きながら村の四方に楔を打ち込み、永遠に封印することだけ。
「俺は……震える手で楔を打った……! 家族が死んでいる場所を、自分の手で『墓』にするしかなかったんだぞ……!」
「ユート……」
「それが『善意』だというなら、これほどの猛毒はない……!」
ユートは血を吐くように叫んだ。
瞬間、視界がぐらりと揺らぐ。
「あ……が……」
ずっと蓋をしてきた「あの日」の絶望。それを言葉にしたことで、心の防波堤が決壊し、身体の維持機能を強制的に停止させたのだ。
意識が、深い闇へと落ちていく。
「ユート!?」
崩れ落ちるユートの体を、シルフィがとっさに抱き止める。
ずしりとした重みが、彼女の細い腕にかかる。
「ねぇ、ちょっと! しっかりして!」
シルフィはユートの頬を軽く叩くが、反応はない。彼の顔色は青白く、呼吸は浅い。そして何より、その表情は苦悶に歪み、目尻には涙が滲んでいた。
それは、彼女が知る「無愛想で頼れる仲間」の顔ではなかった。
「……なんでよ」
シルフィの声が震える。
彼女の中で、信じていた世界が音を立てて崩れていく。
ザスターの笑顔。人々の歓声。そして、ユートの絶叫。
もし、ユートの言っていることが本当なら。私たちは英雄なんかじゃない。ただの……人殺し?
「ねぇ、起きてよ……。嘘だって言ってよ、ユート……!」
問いかけに答える声はない。
森の木々がざわめく中、彼女の呟きだけが虚しく響いた。
「ここじゃ、まずいわね。安全な場所まで移動しないと……」
シルフィは涙を拭い、気丈に振る舞おうとする。今は考えるのを止めよう。まずは彼を運ばなければ。
「風よ、私と彼を空へ。 ――【風精の浮揚】」
二人の体がふわりと浮き上がる。
だが、その心は鉛のように重く沈んだままだった。
◇
一方その頃。
自由都市同盟ネムレス。
巨大な市場の入り口に、人だかりができていた。その中心にいるのは、輝く鎧を纏った勇者ザスターだ。
「さあ、恐れることはない! この『勇者の名札』をつければ、どんな魔物も寄ってこない!」
彼が売りさばいているのは、安っぽい木製の名札だ。
そこには、購入者の本名が魔法で刻まれている。
本来、名を隠して生きるこの街で、本名を晒すなど自殺行為だ。だが、勇者の言葉が人々の心を揺さぶる。
「私が保証しよう! 名を名乗る勇気こそが、最強の守りとなるのだ! さあ、これを胸につけて堂々と生きろ!」
「勇者様が言うなら……」
「これでお天道様の下を歩けるんだな!」
人々は涙を流して感謝し、なけなしの金を払って「死の標的」を胸につける。
名札には微弱な魔力が付与されていた。「目立つように」という勇者の計らいだ。
だが、その魔力波長は、地底で眠る「奪名蟲」にとって、最高に食欲をそそる目印となっていた。
「へへっ、すげぇ売れ行きだぜ。ボロ儲けだな」
売り上げを数える戦士ブラウンが、下卑た笑みを浮かべる。
「フォフォフォ、これでまた高価な古代遺物が買えるわい」
その横で、賢者ゲイルも満足げに髭を撫でた。
足元のマンホールの隙間から、無数の複眼がギョロリと彼らを見上げていることにも気づかずに。




