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プロローグ:勇者の「善意」は、猛毒の風

2026/1/18 ラスト部分を修正

 その村は、大陸の辺境、険しい山岳地帯の奥深き谷底にあった。四方を切り立った岩山に囲まれ、空からは常に薄紫色の靄が降り注ぐ、閉ざされた地だ。

 日照時間は短く、土地は痩せている。それでも、かつてそこには確かな人々の営みがあった。慎ましくも、互いに手を取り合い、過酷な自然と共生する穏やかな故郷が。

 数年ぶりに故郷の土を踏んだ青年、ユートの喉から、掠れた音が漏れた。


「……嘘、だろ」


 否定しようとして吸い込んだ息が、喉を焼いた。


「が、……っ!?」


 むせ返るような刺激臭。肺を内側から腐らせるような、甘く重たい死の腐臭。それは、目の前の光景が「悪夢」でも「幻覚」でもないことを、暴力的な痛みと共に脳髄へ叩き込んできた。

 親父や一族たちが命懸けで守ってきた土地。今や太古の毒素が我が物顔で居住区を埋め尽くしている。

 家々は強酸性のガスによって腐食し、半ば溶け落ちている。放牧されていた山羊たちは白い骨となり、地面には逃げ遅れたであろう人々の影が、どろりとタールのようにへばりついていた。

 静寂。完全なる死の世界。風の音さえも、毒の重みに耐えかねて止まっていた。

 ユートの脳裏に、数週間前の王都での出来事が、暴力的なほどの鮮明さでフラッシュバックする。


                ◇


『ユート、君をパーティから外すことにしたよ!』


 ドリマール大陸中央に位置する繁栄の都、聖王国ソラリス。その冒険者ギルドの個室にて、世界を救う希望の星、勇者パーティ〈スターダスト〉のリーダー・ザスターは、満面の笑みでそう告げた。まるで、友人に最高のプレゼントを渡すかのような、一点の曇りもない笑顔で。


『外す……? 俺を結界係から解雇するということか? 待ってくれ、俺にはまだ――』

『解雇だなんて人聞きが悪いな! 卒業だよ! おめでとう!』


 ザスターはジョッキを掲げ、周囲の仲間に同意を求めるように声を張り上げた。


『いやぁ、苦労したよ。あのカビ臭い穴蔵から、泣き叫ぶ君を引きずり出したときはどうなることかと思ったけどね!』


 ザスターは大げさに肩をすくめて見せた。


『「俺がいなきゃ皆が死ぬ」だっけ? 傑作だったなぁ。狭い村で英雄ごっこに浸ってた君を、僕が広い世界へ連れ出してあげた。感謝してほしいぐらいだ』


 数年前、ザスターはこの村にやってきた。そして、村全体を覆う「毒ガス中和」の結界を維持し続けていたユートを、「こんな才能ある若者が、こんな田舎で腐っているのは損失だ」という一方的な理屈で、無理やり引きずり出したのだ。

 ユートの必死の抵抗も、説明も、すべて「広い世界に出るのが怖いだけの、引きこもりの言い訳」として処理された。


『君は十分に世界を知った。もう大丈夫だろ?』


 ザスターはユートの肩をバンと叩いた。その手には、確信に満ちた熱がこもっていた。


『対人恐怖症も治ったはずだ。だから、もう村に帰っていいぞ! きっと村の人たちも、立派になった君を見て驚くはずさ! 「あの陰気なユートが、こんなに明るくなって帰ってきた!」って、涙を流して喜ぶに決まってる!』


 聖女ルミナが手を合わせ、うっとりと呟く。


『ザスター様、なんてお優しい……。引きこもりの少年の自立を支援するために、あえて旅に連れ出すなんて。究極の愛そのものですわ』

『俺も我慢した甲斐があったぜ。正直、お前の地味な防御結界より、もっと派手な攻撃魔法の使い手が欲しかったからな。せいぜい親孝行しろよ?』


 戦士ブラウンがニヤニヤと笑いながら、追加の酒を注文した。

 ユートは反論しようとした。だが、彼らは聞く耳を持たなかった。彼らにとってユートは「勇者に救われた哀れな弱者」であった。

 村の事情は「外に出たくないための妄想」であり、今の追放劇は「感動的な自立の物語」でなければならなかったからだ。

 席を立つユートに、ザスターは爽やかに言った。


『ああ、そうだ。ギルドカードの設定はそのままにしておくよ。君をパーティから除名なんてしない。形の上では、僕たちはいつまでも仲間だ!』

『……は?』

『離れていても、カードを見れば僕たちが今どこで活躍しているか分かるだろう? 故郷でそれを見て、「僕の友達は世界を救っているんだ」って励みにするといい。それが僕からの餞別さ!』


                ◇


「……『励みにするといい』、だと?」


 現実いま、ユートの目の前にあるのは、猛毒に侵され、驚くことすらできずに、喉を掻きむしって死に絶えた故郷の残骸だ。ユートが村にいた頃は、他の結界師たちと共に結界を維持していた。その中でもユートは、魔力がずば抜けており、結界の要だった。

 ザスターが「善意」でユートを連れ出したあの日から、結界への魔力供給は徐々に失われていった。命尽きるまで結界師たちが維持していたが、限界を迎えたのだろう。


「母さん……父さん……」


 実家があった場所には、変色した瓦礫しかない。涙すら枯れ果てていた。悲しみよりも先に、どす黒い感情が腹の底から、マグマのように湧き上がってくる。

 ザスターは言った。「君のためだ」と。ザスターは笑った。「村のみんなも喜ぶ」と。その結果が、この大量虐殺か。


「……ふざけるな」


 ユートは懐から、旅の間ずっと削り続けていた「ウェッジ」を取り出した。遅すぎる。もう、誰も生き返らない。せめてこの毒が他の地域へ流れないように、そして死者たちがこれ以上野ざらしにされないように。


「――展開。『毒素遮断トキシン・シュペレ』」


 自身周辺に結界を貼り、村の四方に楔を打ち込んだ。


「……構築」


 声が震える。だが、指先は冷徹に、複雑怪奇な術式を編み上げていく。湿った土を食い破る鈍い音が響き、波紋のような青白い光が走った。


「汚染された大地よ、ここを聖域とする――『永久墓標エーヴィゲス・グラープマール』」


 ドォォォォン……!


 重苦しい地響きと共に、谷全体を覆う巨大なドーム状の結界が展開される。漏れ出していた太古の毒が、不可視の壁に阻まれ、谷底へと押し戻されていく。

 腐敗を止め、この悲劇を永遠に保存する、絶対不可侵の墓所。ユートが故郷に返せる唯一のものだった。


「……あいつらは、まだ旅を続けているんだったな」


 ユートは懐からギルドカードを取り出す。本来なら除名処理と共に消えるはずの光点が、地図上に輝いている。ザスターが「励みになるように」と残した、お節介な繋がり。


 光点は、北東――『灰色の国』の方角を指して点滅している。


「放っておけば、次はあそこがこうなる」


 ユートは黒衣の裾を翻す。故郷を救えなかった悔恨。家族を殺された怨嗟。自分自身の無力さへの怒り。それらを全て原動力に変えて、彼は一歩を踏み出した。


「待っていろ、ザスター。お前が『善意』で壊して回る世界を、俺が全部、あるべき姿に戻してやる」


 眼光が鋭く光る。それはもう、かつての気弱な雑用係の目ではなかった。


「そしていつか、お前のその薄っぺらい正義を、完膚なきまでに叩き潰してやる」


 復讐の旅が始まる。

 これは、表舞台で語られる英雄譚ではない。英雄という名の災害が撒き散らす絶望を、陰から救い、壊された世界を再構築する――誰よりも優しい最強の結界師の物語だ。

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