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19. 寄る辺なき少女

 カーン、カーンという朝の鐘の音で少女は目を覚ました。


 目を開けるとまだ自分が生きていることを実感できる。かじかんだ手足を擦り合わせて熱を起こし、立ちあがると、それまで隣で寝ていた別の少女が足元に倒れた。


 触ってみるととても冷たくなっていた。ああ、死んだんだと少女は理解した。


 ストーリャ・クラッシュは菌が入って膿んだ両手を擦りながら、その少女の衣服に手を伸ばした。掴むと同時に衣服を剥ぎ取り、素っ裸になったその痩せた体を蹴り飛ばした。


 剥ぎ取った衣服はそもそもがボロボロで、ほつれもひどかった。それをビリビリと破き、ストーリャは服の隙間に丸めてぎゅうぎゅうと詰めた。朝のつゆでぐっしょりと濡れたそれは、しかし体を温めることはなく、むしろ体から熱を奪っていった。


 すぐに寒くなってストーリャは丸めた布切れを服の隙間から出し、バサバサと仰いで広げた。しかし、乾かすために広げたはいいが、周りは湿っていて日当たりも悪かった。


 1時間は経っただろうか。いまだに端が濡れた布切れを再び丸め、ストーリャは立ち上がった。そしておもむろに彼女は路地から通りの方へ向かって歩き出した。


 道すがら、路傍に倒れている少女を回収している白衣の男たちとすれ違った。周りの子達は彼らを「回収屋」と呼んでいた。


 「あいつらはしんだ子たちを荷車につんでどっかにもってくのよ」


 ストーリャに回収屋のことを話した少女はそう紹介した。


 死体なんてどうするんだろう、と最初は疑問に思っていたが、そんな疑問はすぐ心の奥底に沈殿した。自分のことばかりで疑問とか抱いている暇なんてなくなったからだ。


 通りに出たストーリャは路傍に背中を丸めて座り込んだ。そしておもむろに彼女は歯がいくつか折れたボロボロの櫛で短髪をとかし始めた。


 頭皮から滲んだ汗と老廃物のせいで、櫛は思うように通らない。にちょねちゃと脂が頭皮と毛根の間で震え、櫛でとかそうとすればむしろ、頭皮を傷つけていた。


 ストーリャの1日は通りの路傍に座り込むことだ。座り込んで物乞いをしたり、時には男に言い寄ったりもする。


 しかしどちらも実りはない。物乞いをしても硬貨や紙幣を落とす人間はなく、痩せて肌のところどころがむくんだ少女を買おうという物好きもいない。


 「どうか、どうか。お恵みを、お恵みをください」


 霞んだ声でストーリャは割れたガラスの小瓶をゆすった。中身はコイン一枚だけだ。それも1ガットに満たない、10コル硬貨だ。一枚ではパンも買えない。10枚集めてもパンを買えない。


 お願いします、と連呼する彼女を街行く人々は一瞥もしない。路傍の石ころに注目する人間がいないように、この20番街ではいわゆるストリートチルドレンは珍しくもないからだ。


 20番街は広大なマウト市にあって、もっとも犯罪率の高い街区だ。暴力、恐喝、殺人は言うに及ばず、麻薬や違法建築、闇金融といった犯罪の坩堝だ。


 街中を歩けばどの通りも怪しげな店舗が営業している。一見すると普通のパン屋であっても、実態は違法営業の店であることなどもザラだ。


 ストーリャのようなストリートチルドレンも大勢いる。一家離散、人身売買、捨て子、理由は様々だ。


 境遇も環境も決して恵まれない彼らの学力は言うまでもなく劣等だ。文字の読み書きはおろか、ちゃんとした言葉を知っているかもあやしい。


 そういったストリートチルドレンが時折、怪しげな風体の大人に騙され連れていかれるのもまた、日常茶飯事だ。騙されることも、利用されることも、子供だからと言って容赦はなく、使い潰されて、そして回収屋に回収されていく。


 ストーリャは二週間前にそれを知った。正確にはストリートチルドレンになって数日経ってからだが、彼女が20番街の苦難を知ったのは、その時だ。


 夜になって、ストーリャは立ち上がって、その日の稼ぎを持って自分の寝床へ向かった。夜と言っても夕暮れ時のことだ。


 ストーリャの寝床は橋の下だ。雨が降っても体が濡れることはない。やや肌寒いが安心して暮らせる場所だ。


 その寝床に近づいた時、ストーリャは目を見張った。自分の寝床が壊されていたからだ。


 なんで、とかすれた声でストーリャはこぼす。見れば周りの子供達が10ガット紙幣を持っていた。


 10ガット紙幣はストリートチルドレンにとって大金だ。小学生が初めて千円札を握っているようなものだ。


 慌ててストーリャは自分の寝床があった場所に向かい、直後周りの子供達を睨みつけた。


 彼女の寝床に隠してあったお金が全部なくなっていたからだ。今、周りの子供達が握っているのは自分の金だと理解した。


 取り返そうとストーリャは子供達に向かって手を伸ばした。しかし多勢に無勢。ストーリャは取り押さえられ、地面に叩きつけられた。


 叩きつけられたストーリャの鼻から鼻血が出た。じんじんと痛む鼻を抑えるストーリャを他所に子供達はストーリャの小瓶をひったくると、それを逆さにして中の硬貨を奪い始めた。いや、硬貨の奪い合いを始めた。


 さっきまで協力したのに、たかが数十コルの稼ぎのために彼らは殴り合いを始めた。その殴り合いを見て、それまで傍観していた他の子供達が寄ってきた。おこぼれに預かろうとしたのだ。


 「返して!!あたしのお金!!」


 その乱闘にストーリャは加わろうとするが、すぐに弾かれ仰向けになって倒れ込んだ。


 痛いなぁ、と思って立ちあがろうとするが、うまく立ち上がれない。代わりにひどい痛みが左足から伝わってきた。夕暮れのわずかな灯りを頼りにして見てみると、彼女の白い足からだらだらと生暖かい血が流れていた。


 倒れた時か、叩きつけられた時に切ったのだろうことがすぐにわかった。急いで乾いた布でストーリャは傷口を縛った。そして震える足で再び立ち上がると、また暴れている子供達の中へと足を踏み出した。


 「返して、返してよぉ」


 ストーリャの金は彼女が髪や前歯、そして爪を売って稼いだ金だ。髪は言うに及ばず、前歯や爪にも価格をつけつ好事家がいて、そんな彼らにストーリャは生活のため、綺麗な前歯、整えられた爪を売った。


 売ったということは前歯を抜いた、爪を剥がしたということだ。


 以前の彼女の美しい面影はそこにはない。


 歯を抜いたことで、声は前よりも出しにくくなり、前歯周りの歯肉は化膿して醜く歪んだ。ものの一週間と少しで顎が歪んで口をへの字にしないと閉まらなくなった。


 爪は傷口は化膿したことはもちろん、感覚がなくなって、以前のように自由に動かせなくなった。赤黒く濁った傷口にばい菌が入ったせいか、ちょっとでも手に力を入れると、指先が充血してかゆくてかゆくて仕方なかった。


 その傷ついた手でストーリャは群がる子供達を引き剥がそうとした。けれど、それは無理だ。相手が子供とはいえ、ストーリャはか弱い女の子で、ろくに食べていないせいで力なんて出ない。


 再び弾き飛ばされ、ただただ行き場のない怒りと恨みだけが込み上げてきた。


 何度も何度も立ち向かって、跳ね飛ばされ、弾き飛ばされ、あるいは踏みつけられ、その都度恨みはたまっていった。


 「なんであたしがこんな目に」


 そう思わない日はなかった。日々の忙しさでいくら押し殺しても、沈めてもやはり浮上してくる怨嗟の言葉だ。


 目の前で馬鹿騒ぎをしている子供達、本来なら関わりあうような人間でないのにこうして自分と場所で会話しているなんて。


 こんな場所で物乞いをして、お金を奪われて、それを見ているなんて。


 とてもとても許せないことだったのだ、ストーリャにとっては。


 「返せ!!!」


 ボロボロになってまた立ち上がってストーリャは子供達目掛けて突進した。


 そして彼女は弾き飛ばされ、頭を打って気絶した。


 次に彼女が目を覚ますと、真夜中の月が頭上に浮かんでいた。しかしその月に恍惚する間もなく、ストーリャは肌寒さに体を震わせた。


 気がつけば自分が体をくるんでいた布はなく、いつものボロボロのドレスしかなかった。ボロボロの汗臭いドレスだけ。靴も取り上げられていた。


 足がかじかみ、体中の熱が徐々に徐々に抜けていくのを感じたストーリャはすぐに体を抱え、熱を逃さないように体を震わせた。しかしぐちょぐちょに濡れた体はいくら体を擦らせても温まることはなかった。


 橋の下は湿気が溜まりやすい。雨風はしのげても朝に目を覚ますころには身体中が濡れていることもザラにある。体を冷やせば最後、朝には立派な凍死体の出来上がりだ。


 6月の初め、この時期はまだ寒い。マウト市はメタ・スドラの北極部分に位置しているから、余計に寒くなる。マウト市が位置している場所が、地上換算20,000メートル付近と考えれば、むしろこの程度で済んでいるのはマシなのかもしれない。


 寒いと思いストーリャは立ち上がった。橋の下のみずたまりから逃げるようにして彼女は橋の、比較的乾いた場所に向かって歩き出そうとした。


 「あ」


 唐突にストーリャは転んだ。水で足を滑らせたのだ。


 受け身も取れず、強く肩と肘を石の地面に打ち、激しい痛みが身体中に走った。


 ゴロリという音がその時聞こえた。


 皮肉にも痛む体がじわりじわりと温かく感じた。泣きながらストーリャはそのかすかな、か細い、そして短いあ高さはすがった。


 ——それを続けていると、いつしかまどろみに落ちた。


 朝の鐘が鳴って、ストーリャは目を覚ました。その鐘を合図に周りの子供達もまた起き上がった。その時の彼らの目をストーリャは嫌悪した。


 血だらけのストーリャを見て彼らは忌避の眼差しで見つめた。少しでも夜の寒さから逃れようと、体をこすり、痛みを得て、それで暖をとった、おろかな彼女を嘲笑い、気味悪がり、そして気持ち悪がった。


 それは、お前のせいだろ。


 その忌避の眼差しをストーリャは嫌悪した。こんな世界が悪いのだろう、と憎悪した。


 「——死んでしまえ」


 ストーリャは吼える。か細く、はっきりとしない声で、彼女は死ね、と明言する。


 刹那、真黒な何かが地面から湧き上がった。それは子供達にまとわりつき、抵抗を許さず、絶叫と共に彼らを坩堝へと飲み込んでいった。


 引き摺り込まれたのは子供達だけではなかった。周りの橋も、建物も、大地すらも黒い何かがまとわりつき、下へ下へと引き摺り込んでいった。それはいっそ都市すらも。


 すべてを闇の中へと引き摺り込んだ後ぽつんとストーリャだけが残った。


 その光景を見て、ストーリャはほくそ笑んだ。


 ざまぁみろ、と。


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