10. LDK クリーニング
「まずはキッチン、それからリビングの掃除をしていくけど、それでいいよな?」
「リビング?キッチン?異世界語、俺わかんないんだけど」
「台所と、えーっと応接間だっけか。うわつ、こういう時日本語で答えんの新鮮だな」
「ああ、うん。いや、俺はニホンゴってのが何かは知らないけどさ」
汚く臭いリビングを見つめながら、脱衣所に座り込んでハルヒサとキスタは話し合う。未だに息を吸おうとすれば鼻腔の奥をつく腐臭が漂ってはいることは否めないが、窓を開け、玄関の扉を全開にしたおかげでいくらかその匂いはマシになっていた。
匂いの原因と言えるのは主に三つある。リビングの中央に置かれた机の上に積み重ねられた汚皿の山、キッチンの流しを満たしている汚水、そしてリビングの至る所に散乱している生ゴミなのかどうかもわからない汚物の数々だ。そのすべてを一度に対処することは不可能なので、ハルヒサは優先順位をつけることにした。
「とりあえずはキッチンを片付ける。机の上の汚皿をどうにかするためにも流し場は綺麗にしなくちゃいけないからな」
そいうわけで、とハルヒサはキスタの両肩をつかみ、彼に掃除用具の場所を聞いた。これだけ大きな物件だ。まさか掃除要具がないということはないだろう。実際、昨日の事務所の掃除の時には箒はちゃんと存在していた。
「いやー雑巾とか箒でやるのー?」
「掃除用具が他にあるならそれでもいいぞ」
自動で走る車や、惑星全体を覆うような円盤都市がある世界だ。自動掃除機なんてものもあるかもしれない。そんな期待に胸を膨らませるハルヒサをしかし、キスタはばっさりと裏切った。
「お兄さん、がんばれ!」
そう言って脱衣所の一角に置いてあった小物入れの中から紙製の入れ物で包装されたなにかをキスタは取り出した。破って開いてみると、そこには真新しい新品の雑巾が二枚セットになって入っていた。
まだまだあるよ、と同じ小物入れをキスタは持ち上げ、ハルヒサの前に突き出してくる。怒りよりも先に失望が先行し、がくりと肩を落とすハルヒサをキスタはにはは、と笑った。
「笑ってる場合じゃないだろ、お前もやるんだぞ」
「えー。ごめん、無理」
「はぁ?」
怪訝そうにハルヒサは眉を顰めた。家主が掃除に参加しないなんて、そんな昭和のおとんじゃあるまいし、と睨むハルヒサにキスタは申し訳なさそうに愛想笑いを浮かべた。
「俺も俺でなんていうか、そう。色々と忙しくてさ。昨日、ここに戻ってきたのも溜まってた仕事を片付けるためだったんだ」
「それにしちゃ俺にけっこう、いいようにされてたっぽいけど?」
「それはお兄さんの気迫に圧倒されちゃって。俺が女の子だったら今頃メロメロだったよ」
「やかましいわ」
「まぁとにかくやることが色々あって手伝えないってのは実際、ほんとなんだって。今は、えーっと」
キョロキョロと首を回し、キスタはリビングの片隅に立っている大きな時計を見る。由緒正しいホテルのエントランスにでも飾ってありそうな大きな振り子時計だ。それはハルヒサが知っている時計とよく似ていたが、唯一、文字盤の中を動く針の数だけが違った。
文字盤に書かれている数字は読めないが、理解はできる。1から12までの各数字に対応しているのだろうということが。しかし、その間を時針と秒針に加えてもう一つ、金色の針がずっと12に当たる場所から動かないままだった。
「ああ。今は9時過ぎか。じゃぁ汽車の発車には間に合うかな」
起き上がったキスタは壁に貼り付けられた時刻表らしきものを見ながら独りごちる。なんだか、田舎の祖父母みたいだな、とほんわかしながら、ハルヒサも起き上がり、キスタから渡された雑巾をぎゅっと握りしめた。
「手袋とかそういうのはないの?」
「てぶくろー?そんなのしてどうするのさ。布なんて水の中に突っ込んだら濡れちゃうよ?」
「ビニールとかないわけ?」
「なにそれ。異世界のお酒か何か?」
「ビールじゃねーよ。まぁいいや。ああーいやだなぁ」
黄緑色の流し台に手を突っ込み、ハルヒサは目を伏せる。指先に伝うのは蛆虫が腕を伝って登ってくるような気味の悪い感触だ。ゾワゾワとする悪寒にさらされながら手探りで流し台の栓はないか、と彼は探す。
少しして、それらしいものを探り当て、引き抜いてみると、ゴトンという音を立ててそれまでバランスを保っていた汚皿の山がくずれ、次の瞬間には流し台の上でバシャンと飛沫をあげた。
異物が放り込まれたことで流し台から水が溢れ、それは波となって床に流れ落ちる。当然と言えば当然だが、流し台の正面に立っていたハルヒサの股間部分にも水はかかり、ひんやりとした液体の感触にハルヒサはたまらず眉をひそめた。
「あはははは。お漏らししたみたい」
身支度を済ませたキスタはそんなハルヒサを笑う。乾いた雑巾で股間部分を拭くハルヒサが笑うキスタを忌々しげに睨むと、彼は「おお怖い怖い」と嘯き、玄関から外へと出ていった。
「——あ、そうそう」
玄関から出る直前、思い出したかのようにキスタは振り返り、付け加えるように言った。
「掃除をするのは勝手だけど、ほどほどにね?」
それだけを言い残してキスタは階下へと降りていった。
キスタが消えたことを確認し終え、ハルヒサはさてと、と流し台に向き直り、とりあえず流し台の水嵩を下げようとその中に溜まっていた食器を拾い上げ、机の上に置いた。元々、汚い机だ。今更汚皿の一つや二つが増えたってどうということはない。
多分食い物の残り滓とかが詰まってるんだろうな、と思いながらハルヒサは皿がどけられて差し込んだ手を遮るものがなくなった流し台の中をさらう。そして流し台の排水溝の上に設けられていた水栓カゴを見つけると、その取手を持ち上げた。
直後、ぎゅおっという音と共に溜まっていた水が勢いよく排水溝目掛けて流れ始め、それまでずっと黄緑色の水に埋もれていた流し台の中身が露わになった。
「おぇえええ。ひっどいなこれ」
露わになった流し台にはくすんで白色化した残飯が表面にこびりついていた。肉片とか魚の骨とかはもちろん、ブロッコリーの茎に似た野菜の食べ残しや、トマトやにんじんのへた、そしてくしゃくしゃになった灰色の正体不明の塊が水カゴの中で固まってダマのようになっていた。
水カゴから漂ってくる異臭は峠の便器を思わせるひどいもので、水で流しても容易にその匂いは取り払えない。排水溝に目を向ければ、その円筒状の内部に水カゴに入っていた灰色の塊と同じものが溜まっていて、水を流してもそれはすぐに排水溝をつまらせて、ハルヒサにため息をつかせた。
「クソ、詰まりを直さないとはじまらねーぞこれ」
舌打ちをこぼしたハルヒサは手近にあった棒を拾い、それの周りに雑巾を巻きつけて、即席のほじくり棒を作り出す。それを排水溝に突き立てると、ギュッポギュッポと音を立てて、その中の詰まりをほじくり返した。
トイレのラバーカップで溜まっているトイレットペーパーをほじくり返すのと同じようなやり方で、ひとたび押し込んだほじくり棒を手前に引き戻すと、茶色い液体がブワッと爆発し、これまで匂っていた異臭を数十倍になるまで煮詰めた異臭が共にあふれた。たまらずキッチンの窓を開けるハルヒサはなおも、その作業を続け、しばらくすると排水溝の詰まりは取れたのか、溢れ出す汚水も収まり代わりに排水溝の奥底に溜まっていた灰色の塊が流し台に溢れていた。
嫌だな、と思いながらもハルヒサは我慢して、その塊をゴミ袋へ入れていく。
ゴミ袋と言っても現代日本でありふれたビニール袋ではなく、麻袋だ。小麦が入っていた袋を再利用している、と昨日の事務所の掃除の際にキスタは言っていた。濡れていないものを入れる分にはいいが、濡れたものを入れると、底からしめってしまうんだよね、と他人事のように彼は言い、なるほどな、とその言葉を噛み締めながら、ハルヒサはほじくり棒を用いて、流し台の表面にこびりついた残飯やゴミクズを掬い取って、その中へと放り込んで行った。
体感で一時間くらいだろうか。チラッと時計をみると、確かに一時間近くが経っていることがわかる。そして相変わらず金色の針が動く気配はなかった。
「ほんとなんなんだろ、あれ」
色々とわからないことだらけだ。異世界転生なり異世界転移なりなら、こういう時は便利なガイド役がいてしかるべきだ。古の作品なら妖精なり特別なアミュレットなりが解説役になってくれただろうに、と頬を膨らませるハルヒサはさて、と再び流し台の方へと向き直り洗うか、と汚れた皿に手を伸ばした。
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