規律の令嬢 ― 婚約破棄は王都崩壊の序曲
思った以上に高評価をいただけたので(ありがとうございます)、この短編の続きを書きました。
気になった方は作者マイページからのぞいていただけると嬉しいです。
昼の食堂。
焼きたてのパンの香りと、煮込まれたスープの湯気が漂い、生徒たちの談笑と食器の音が入り混じっていた。
窓辺では陽光を浴びながら菓子を頬張る者、角の席では真剣に本を開く者、あちらこちらで椅子の軋む音が重なる。
学院の日常をそのまま切り取ったような光景。
そのざわめきのただ中で、クラウディア=フォン=シュトラールは姿勢を正し、ゆるやかに口を開いた。
彼女の声は決して大きくはなかった。
しかし、言葉の調子は冷徹で、聞き流そうとした者の耳にも妙に引っかかる響きを持っていた。
「殿下。昨日の提出書類に、確認もせず署名なさいましたね。――王族の一筆は国の行方を定める重みを持ちます。軽率な署名は、やがて秩序の崩壊を招くのです」
「国民の模範であるべき王子が、規律を欠いた行為を繰り返すなど許されません。殿下、貴方はその責任を――」
しかし、その正面に座る王子の眉間には深い皺が刻まれていた。
彼は銀のスプーンをテーブルに叩きつける。
「――もう耐えられんッ!!」
食堂が静まり返る。
「規律だ秩序だと……毎日のように説教じみた言葉を浴びせられて、我慢の限界だ! ここで宣言する――お前との婚約は破棄だ!」
誰もが息を呑む中、クラウディアは微動だにせず王子を見据えていた。
その瞳には怒りも動揺もなく、ただ冷徹な光だけが宿っている。
「……なるほど。国の未来より、耳障りな忠言を拒むことを選ばれたか」
クラウディア=フォン=シュトラールの声は冷ややかだった。
「殿下よ。この場でわたくしを排除することが適切だと信じるのならば、好きにすればいい。――しかし、わたくしを失った後、この学院の規律は誰が守る?」
王子は椅子を蹴って立ち上がり、叫んだ。
「シュトラール家の助けなどなくとも、私はやっていける!」
クラウディアの瞳が鋭く細められる。
「……ほう。貴族の理も知らず、治世もまともに行えぬ無能の息子が吠えるか」
食堂にざわめきが走る。
彼女は一歩前に出て、冷徹に言葉を畳みかけた。
「この腐敗した学園に規律を設け、弱者に学ぶ自由を与えたのは誰だ? 私だ。
この王都を守るべき兵が利益を貪り、民から搾取するのを止めたのは誰だ? ――私が率いた領兵だ。
そして、王宮に蔓延する汚職を削いでいるのは誰か? ――私の優秀な領民が監査を行っているからだ」
食堂の空気が凍り付いた。
その一言は、王子の矜持を粉々に打ち砕くほどの重みを持って響いた。
クラウディアは静かに吐き捨てる。
「そんなことも知らずに未来を語るとは……滑稽だな」
王子の顔は羞恥と怒りに赤く染まり、言葉を失っていた。
「今は亡き祖父と先代の王たっての願いで婚約は承諾した。だが――ここまでだ。馬鹿に付ける薬はないとはこういうことかと、身にしみて理解したよ」
クラウディアは視線を巡らせ、声を張るでもなく命じた。
「――マイルズ、キミトフ、来い」
呼ばれた二人の従者が、即座に食堂の奥から姿を現す。
その動きに無駄はなく、あらかじめ待機していたかのように整然としていた。
クラウディアは迷いなく指示を下す。
「マイルズ。お前は王宮に行け。殿下より婚約破棄を受け、わたくしが承諾した旨を報告するのだ。同時に――王宮から監査に携わっていた領民をすべて引き上げろ」
「はっ」
マイルズが深く一礼する。
「キミトフ。お前は館と、駐屯中の我が領兵に伝えよ。全員ただちに領地へ帰還する準備を進めろ」
「御意」
キミトフもまた力強く応じ、足早に食堂を去っていく。
残されたクラウディアは、改めて王子を真っ直ぐに見据えた。
その瞳には怒りも悔しさもなく、ただ冷徹な確信だけが宿っている。
「……忘れるな。ここから先の混乱はすべて、お前自身が選択した結果だ」
そう告げると、彼女は一切の迷いなく踵を返した。
食堂の静寂は、嵐の後のように重くのしかかっていた。
クラウディアが学院を去った翌日から、王都は目に見えて変貌を遂げていった。
まず、王宮からシュトラール家の監査役が一斉に姿を消した。
彼らは王侯貴族の帳簿を精査し、不正を摘発し続けてきた存在である。
その仕事が止まった途端、王宮の役人たちは恐る恐る顔を上げ、再び袖の下が飛び交う気配が広まった。
市場にも余波は及んだ。
これまで不正な徴収を抑え込んでいた監査がなくなったことで、税吏が露骨に値を吊り上げ、弱き商人からの搾取が再び始まった。
「シュトラール家の人々がいなくなってから、秤の目盛りが狂い出した」――庶民たちの間でそんな噂が囁かれた。
さらに、王都の治安も悪化する。
駐屯していたシュトラール家の兵が撤退したことで、街道を抑えていた規律は失われ、再び私兵団やならず者が顔を出し始めた。
「昨日までは夜道を歩けたのに、今はもう無理だ」と人々は怯え、戸を固く閉ざす。
こうした変化は、王家の権威を確実に削っていった。
「殿下はシュトラール家を遠ざけたせいで、このざまだ」――皮肉混じりの言葉が、酒場や市井で交わされるようになった。
表立って口にする者は少ないが、誰もが心の中で同じ思いを抱いていた。
やがて王都全体が気づく。
規律と秩序を保っていたのは王家の権威ではなく、クラウディアと彼女が率いる領兵、そして優秀な領民たちの力であった、と。
王都からの帰還直後。
クラウディアは机上に並ぶ報告書に目を通していた。
静まり返った室内に、側近の声が響く。
「クラウディア様……いっそ、このまま王都を掌握してはどうでしょうか?」
ペンを走らせていた手が一瞬止まる。
クラウディアは視線だけを上げ、冷徹に答えた。
「愚か者を相手にするだけ、時間の無駄だ」
側近が口を開きかけたが、彼女は淡々と続けた。
「王宮を乗っ取ればどうなる? 反発した貴族どもを抑えるために、無駄に兵を費やし、結局は私の領民を危険に晒すことになる。そんな愚行に何の価値がある」
沈黙が落ちる。
しかし別の側近が恐る恐る言葉を投げかけた。
「ですが……王都の無辜の民が被害を受けているのも事実です。あの人々を救うためには……」
クラウディアは瞼を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
「私は全知全能の神ではない。ただの一人の人間だ」
その声は冷徹でありながらも、どこか深い諦念を含んでいた。
「手の届く範囲であれば守ってやりたい――そう思う気持ちはある。だが、それでも限界はあるのだ。無理に手を広げれば、結局は誰も救えぬ」
彼女は机上の書類に再び視線を落とす。
そこには領内の税収、兵站、民の嘆願が整然と並んでいた。
「……私が背負うのは、この領の民だ。彼らを守り抜くことこそが、私の責務」
淡々と告げるその背に、側近たちは畏怖と敬意を抱かずにはいられなかった。
しばし沈黙が落ちた後――彼女は手にしていたペンを置き、椅子の背にもたれかかった。
「……ふう」
低く、誰に聞かせるでもない吐息。
「……少し、休むとしよう」
天井を仰ぎ、目を閉じる。
わずかな間の静けさの後、クラウディアはゆっくりと瞼を開いた。
机上の書類に視線を戻し、再びペンを手に取る。
「……続けるぞ」
その声音には、もはや迷いも弱さもなかった。
執務室には再び、冷徹な筆の音だけが響き始めた。
読んでくださりありがとうございます!
リアクションを残してくださった方も、本当に本当にありがとうございます!
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今回は多分好き嫌いがあるだろうタイプの令嬢もの第三作目です。
他にも10分で読める舞台派、食いしん坊な過激派令嬢の短編もあります。
楽しんでいただけたのならそちらもぜひ!