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  作者: Yonohitomi
一章
98/177

105.黒雲


 空は重く曇り、昼とは思えぬほど陰っていた。

 山上の屋敷の奥、朱炎の部屋には不穏な空気が漂っている。


「それでも、あのまま放っておくのですか!」


 黒訝の声が壁を打つように鋭く響いた。

 苛立ちが滲む口調で座している朱炎に向け、詰め寄る。


 すぐ近くで様子を見守っている耀がいる。しかし彼は頭の片隅でもう一つの気になる存在を思い浮かべていた。


 蓮次の異変。


(やはり、様子を見に行かねば……)


 そう思い、部屋を出るつもりで朱炎に声をかけようとしたその瞬間――


 しん、と。


 張り詰める空気。


 凄まじい緊張感。


 朱炎の眼差しが、ぴたりと一点に固定される。

 空間そのものが凍りついたかのように、重苦しい沈黙が訪れた。


「……父上?」


 黒訝の声が不安げに転がる。父の顔を見つめた。

 耀も少しばかり目を細めるように警戒し、朱炎の表情を探る。


 朱炎は黙ったまま、障子の向こうを見据えていた。

 蓮次の部屋――。


「……消えた」


 朱炎の声に黒訝が驚き、蓮次の異変を感じ取っていた耀が、表情に陰を落とす。

 朱炎はすぐに立ち上がり、部屋を出た。黒訝と耀がそれに続く。


 山上にある屋敷の廊下からは、遥か彼方まで空が望めた。


 南の空。


 風は止まり、雲の流れが見えない。空の一部が、まるで墨汁を垂らしたかのように黒く染まっていた。

 何か、負の気配そのものが空を蝕んでいる。


 朱炎は廊下の端に立ち、じっとその異変を睨みつけていた。

 後から来た二人も並び立ち、その異様な空を見つめる。


「……これは……」


 耀のつぶやきに、朱炎は己の無意識の揺らぎを自覚した。冷静さを仰ぐように耀に問う。


「耀。蓮次の気配が途絶えた。この状況、どう見る?」


「……あの方角には、かつての屋敷があります。おそらく、蓮次様はそこへ」


朱炎が静かに耀へ向き直る。眼差しには鋭さが宿っていた。


「だが、蓮次があの距離を瞬時に移動できるとは思えん」


「はい……本来なら。ですが、先ほど、蓮次様の様子に明らかな異変が見られました」


 朱炎の目が細まり、耀はすぐに頭を垂れる。少し早口で続きを述べる。


「報告が遅れました。申し訳ございません。すぐに伝えるべきでしたが私が判断を見誤り……」


 朱炎は手を挙げて遮った。


「もうよい」


 その声に怒気はなく、何かを呑み込んだような重みがあった。


「……蓮次の力が、目覚めた、か」


 低く呟いた朱炎の言葉に、黒訝が反応する。


「父上、何を……」


 黒訝は朱炎と耀を交互に見て、焦りと混乱に声を震わせている。


「蓮次が……そんな危うい力を持っていると分かっていて黙っていたのですか」


 朱炎は応えず、すぐさま耀へ言葉を向けた。


「耀。この屋敷の指揮はお前に任せる」


「承知しました」


 耀は改めて頭を下げた。

 続いて、朱炎は黒訝に向き直った。


「黒訝」


 朱炎の声音がわずかに低くなる。


「お前は、ここを離れるな」


「いいえ、父上。俺も行きます」


 黒訝の声が強く響く。だが、朱炎は理解している。黒訝がまだ未熟な事を。


「駄目だ」


 揺るがぬ拒絶。

 黒訝は唇を噛みしめ、拳を固く握った。


 朱炎はそんな黒訝に構うことなく、再び空を見上げた。

 次の瞬間には、朱炎の姿はもう無かった。


「待ってください!」


 黒訝の叫びが虚しく響く。


「……っくそ」


 黒訝は舌打ちし、衝動に駆られて朱炎の後を追いかける。事態を理解出来ていない者の行動だった。


 二人の後ろ姿を静かに見つめる耀。

 以上な空気のひりつきに、瞬時に気を切り替える。


 いつも表情の変わらぬ耀が、眉間に皺を寄せた。

 屋根の上から別の声が響く。


「おいおい……あれはちょっと、まずいんじゃねぇか?」


 耀が顔を上げると、向かいの屋根の上に烈炎が立っていた。乱れた赤髪を風に揺らし、南の空を見つめている。


「耀、気をつけろ」


 烈炎の声はいつになく真剣だった。

 耀はうなずく。


「ああ、わかっている……この気配なら、低級から崩れるだろう。おそらく、悪鬼に堕ちる者が出る……」


 二人の間で視線が交わされた。

 朱炎が向かった先に何があるのか、何がいるのか、二人は知っている。


「朱炎様も……本気だな」


 烈炎がぽつりと呟いた。


 空の裂け目。不吉な黒雲。


 烈炎は屋根の上から、高速で移動する朱炎の姿を見つけていた。瞬間移動を繰り返しながら進む様は、風のよう。

 光の速さで点となる。

 後ろを追いかける黒訝の様子も見て取れた。


「全く、馬鹿親子が……」


 少し呆れたような声で烈炎が呟くと、地上から刺すような視線が飛んでくる。耀が睨んでいた。


烈炎は片眉を上げ、「へいへい、そう怒んなって。けどよ……」と言いながら、耀の元に飛び降りる。


「お前も呆れて黙ってたんだろ」


 軽い口調は空気のひりつきを一瞬だけ和ませるが、耀の纏う気配に変化はない。

 耀はひとつ瞬きをして「一緒にするな」と答えた。


 だが、二人は同時に背を合わせる。

 一瞬にして、負の気配を拾ったからだ。


 屋敷の奥で悲鳴が上がった。続いて、地を這う獣のような呻きが聞こえる。


「ォ……ォ゛……アアア……」


 予期した悪夢が現実となる。 


「おいおい、早すぎるだろ」


 言葉尻にはもう既に戦いの気を交えていた。烈炎が向かう。

 耀もすぐに、屋敷の中へと駆け込んだ。


「蓮次様の力が……強すぎるということだ」


「強すぎるのも考えものだな!」


 悪鬼の気配を捉えたと同時に瞬間的に敵の元に移動した。烈炎は、すでに腰にあった大太刀を振り上げて、醜い姿となった者に制裁を加える。


「情けねぇな!」


 大太刀が悪鬼化した鬼を一閃に絶った。

 すぐ後ろには追い詰められていた母鬼と子鬼がいた。耀が二人に寄る。

 恐怖で悪鬼に堕ちぬようにと、耀は二人に声をかけた。


(だが、これで終わるはずかない……)


 鬼の親子を落ち着かせた後、耀は静かに中庭に出る。

 暗黒色の雲は広がっていた。


(このままでは悪鬼が続出する……)


「朱炎様……急いでください」



 

 一方その頃。

 南へ向かう朱炎は、風を裂くように移動を繰り返していた。


 目に浮かぶのは――幻影のような蓮次の姿。

 近づくにつれ、気配が読める。


 これは前世の蓮次……いや、それに近い何かが、覚醒したと分かる。


 気配の色に“白”はない。あの雲と同じ闇の色。

 力の質に優しさはない。あの時と同じ危うい強さ。


 だが今回は、あまりにも歪。


「……堕ちたか」


 呟いた声は、風に消えた。


 かつて最強の鬼と称された我が子。

 再び現れたその姿は果たして“蓮次”と呼べるのだろうか。


 朱炎の胸中に、迷いと、消せぬ焦燥が灯っていた。



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