100.浸食
屋敷へ戻ると、いつもより静かに感じた。任務帰りの空気は重い。
屋敷の鬼たちは蓮次と黒訝を見かけては頭を下げている。それを見て蓮次は小さな苛立ちを感じていた。
小さくため息をつきながら、暗い廊下を進む。
先を歩んでいた黒訝が振り返った。
「すぐに父上のもとへ向かうぞ」
「俺は、あとで行く」
「は? 勝手なこと言うなよ。お前、何様のつもり」
黒訝が苛立ちを隠さず声を荒げた。だが、すぐに蓮次の冷たい視線に遮られた。
鋭く、深く、凍てつくような睨み。
黒訝は一瞬、息を呑む。目の前に立つのは確かに蓮次であるはずなのに、そこに立っていたのは蓮次とは思えないほどに、圧倒的な存在。
「……おい、どうしたんだ、お前……?」
黒訝の声は掠れていた。
戦場で幾度も相まみえた鬼たちよりも、今の蓮次のほうが恐ろしく感じた。
何かが違う。
蓮次はそのまま、返事もせずに踵を返した。無言で廊下を進み、自室へと向かう。
残された黒訝。
「……なんだ、あいつ……」
妙な違和感を抱きつつも、黒訝は一人、朱炎の部屋へと足を進めた。
蓮次は部屋の中央にいる。
目を閉じるでもなく、静かに座して。
そして、手のひらをじっと見つめていた。
何もついていない手のひら。しかし、爪の隙間にはまだ微かにあの鬼の血が残っている。
帰り道の近くの川で手を洗ったが、落ちきっていない。
(……気色悪い)
胸の奥でざわりと何かが蠢いた。
(どうせ生えてくる。この指、切り落とすか……)
不快な音がした。耳鳴りか、幻聴か。
身体の内側から、何かが崩壊するような音。
ここは見慣れた部屋だ。だが、今はまるで他人の部屋のように思える。襖も床も、何も変わらないが。
しかし、別人になったわけではない。
記憶は鮮明にある。帰ってきたことも、戦ったことも、黒訝に言った言葉も、全て憶えている。
ただし、弱々しく揺らぐ心は、もう今は感じられない。何かを忘れたような気分。
体の違和感は凄い。爪が、いや、指が痒い。手のひらが痒い。
視界は時折、赤黒く滲んだ。
自分の胸に手を当ててみる。刺々しく激しい感情を感じた。
この苛立ちの原因は分からない。それが、さらに苛立ちを生む。
脳の奥では何かが軋むような音が響き続けている。
ふと、蓮次は襖の方を見た。
この部屋に向かってくる者がいる。足音は小さい。少し慌てているようだ。それを感じさせるまいと押さえつけられたような気を感じる。
気配は捉えた。
(ああ、彼か。何を慌てているのか……)
脳内に響く声を、まるで他人事のように聞いていた。……ああ、慌てているのか。そうか、と、どこかで納得する。
(酷い慌てぶりだな。なんだ? あの鬼が死んだか?)
脳内の声はまるで嘲笑うかのように響いた。
それを聞いて、蓮次が驚く。まさか……と。
しかし、目も口も、自分の意思で動かせないかのように固まっている。
驚きが表現できない。
そう、無表情。
自分の顔が、“無”になっているのが分かった。表情を変えず、ただ襖を見つめている自分。
(嗚呼、滑稽だな……)




