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  作者: Yonohitomi
一章
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101.乖離


 耀が蓮次の部屋の前で立ち止まった。


(これは……)


 扉の向こうから滲み出る気配。どこか異質だった。確かに蓮次の気配なのだが、微かに違う。


 過去に感じたことのある気配。今の蓮次のものではない。そう、以前の蓮次――。


 耀の表情に珍しく迷いが浮かんでいた。襖に手をかけるのをしばし躊躇っている。すると、部屋の中から声がした。


「入れ」


 少し低い声だった。落ち着き払った、どこか艶のある冷たい響き。


 襖が静かに滑り、開いた。


「失礼いたします」


 部屋の奥では蓮次が正面を向いて座っている。


 耀は僅かな変化も見逃すまいと、密かに目を凝らした。


 体調に変化はなさそうだった。顔色も悪くない。蓮次自身に呪いは発動していないように思えた。しかし、瞳の奥に、隠しきれない深い影がちらつく。


「蓮次様」


 耀は穏やかに声をかけながら観察を続けていた。


 呼吸は落ち着いている。問題ない。だが、視線の動きや表情の揺らぎが、あまりに淡白。均一すぎる。


「蓮次様。体調に、おかしなところはございませんか? 違和感などは……」


「問題ない」


 短い返事で耀の言葉は遮られた。その声音には抑制された静けさを孕んで、どこか不自然だった。


 耀は一度、目を伏せたあと、言葉を選ぶように慎重に問いかける。


「……あの、申し上げにくいのですが……“蓮次様”で、いらっしゃいますか?」


 慎重に問うた。


 だが蓮次は、耀の問いには答えず、代わりにうっすらと目を細めて、口の端を少し吊り上げた。


「それより……他を見に行ったらどうだ? “呪い”が発動したのか、気になって仕方ないのだろう?」


 心が読まれたかのような言葉だった。耀は動揺するまいと、小さく息を吐く。


「……それは、黒訝様から聞いたのですか?」


 蓮次を刺激しないように穏やかに問う。だが、返ってきたのは拍子抜けするような曖昧な返答。


「あ、いや……なんか、口が勝手に……というか、なんとなく……」


 その途端、耀の手が動いた。素早く、迷いなく、蓮次の腕を掴み、そのまま布団へと導く。


「蓮次様、おそらくお疲れなのです。少し、お休みになりましょう」


 この布団は、蓮次の母――紅葉が使っていたもの。耀はそれを知っていた。

 そして、今の蓮次に必要なのは、圧ではなく、温もりだと。

 声の調子が戻ったこの瞬間なら、まだ問題ない、と判断した。


 蓮次を布団に沈め、膝をついて丁寧に語りかける。


「この布団から、出ないでください。……少し、落ち着くまでは。いいですね?」


 布団へと押し込められた蓮次。耀を見上げ、そして、小さく頷いた。


「では、屋敷を廻ったら、すぐに戻ります」


 耀はそう伝えると静かに立ち上がり、部屋を出た。






 ――だが。


 部屋に静寂が戻って数刻後のこと。


 蓮次はすっと起き上がり、自身の爪の間を見つめた。


 赤黒く染まった、落としきれなかった鬼の血だ。意思を持って付きまとっているかのようにこびりついている。


「……穢らわしい」


 冷ややかに、言い捨てた。


 蓮次はスッと爪を伸ばすと、目を細める。これで指を切り落とすつもりだ。


「だが、その前に……」


 ふっと息を吐き、薄く笑う。


「……ふん。相変わらず、気配を読まれているのか」


 目元が、冷たく歪んでいた。


「面倒だ」


 部屋の空気が、わずかに揺らぐ。


 蓮次は皮を剥ぐように布団を剥がし、ゆっくりと這い出ていく。忍び寄る闇を体現しているかの如く。

 静かに立ち上がったその背には、冷え切った陰の気を纏っていた。


「……誰も、関わってくれるな」


 低く落とされた声に、拒絶と、呪いのような“念”が宿る。

 言葉と同時に、結界にも似た拒絶の波が部屋を満たした。


「そう……嘘だ……」


 ぽつりと吐かれたその言葉とともに、部屋の空気が僅かに揺れる。


 ゆっくりと、染み出す。

 あの弱々しく、脆く、不安定だった頃の蓮次の気配。人にも鬼にもなりきれなかった、頼りなさと哀しみを湛えた優しい者の――


 偽りの気配。


 それを、意図的に、創り出したのだ。


 蓮次は知っていた。この屋敷の中で朱炎が誰よりも鋭く気配を読めることを。

 耀との会話を朱炎が感じ取っていたことも分かっていた。


 だからこそ、朱炎に「問題ない」「蓮次はまだ脆いままだ」と思わせるために、偽りの揺らぎを演出した。


「これでいい」


 ザシュッ――


 響いたのは鈍く重い音。

 切り落とされた指が畳を転がった。じわりと赤黒く滲んだかと思うと、それらはすぐに灰になり煙を立てて消えていく。


 蓮次は切り落とした指の断面をじっと見ていた。

 指が再生するのに、少しばかり時間がかかっているようだ。


「まったく、人間の体は脆すぎる」


 だが、指が元通りになり始めると蓮次は目を丸くした。


「えっ?……あ、そう……指が……生えて……。本当に、鬼の体って便利だな」


 驚きながらも落ち着いていた。


 入れ替わり、入れ替わる。


 蓮次はもう、自分が何者かを考えている余裕はなかった。




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