97.妙な鬼
蓮次が辿り着いた先。
そこには、まだ幼い少女が怯えて蹲っていた。
艶やかな黒髪は泥にまみれ、おさげの先には赤い紐。薄い花柄の着物は破れ、袖口は濡れ落ちた葉に汚れている。
逃げ惑ったのだろう。
瞳は見開かれ、今にも泣き出しそうだった。
その眼の前に、鬼が立ちふさがっている。
(これは……鬼か……)
人の形は保っているが、顔は歪み、虚ろな目が宙を泳いでいる。異様な気配が辺りを濁していた。
異形のような鬼だ。
蓮次の身体は、思考よりも先に動いていた。
伸びた爪が、空気を裂く。
研ぎ澄まされた意識が、鬼の輪郭に焦点を合わせた。
少女の前に躍り出て、鬼を斬る。
一撃。
そして、もう一撃。
爪が鬼の肉を裂き、悲鳴とも咆哮ともつかぬ声が森に響く。
蓮次の手は止まらない。
守らなければ。
——人間を。
『いや、弱き者を』
体は勝手に動いていた。いや、動かされていた。
力を抜けば抜くほど、鋭く、迷いなく。
軽やかに、風のように、蓮次は戦った。
(とどめを!!)
その瞬間——
「やめろ! 蓮次!!」
怒声が叩きつけるように響いた。
同時に、蓮次の体が吹き飛ばされる。地を転がり、木の根に背を打ちつけた。視界が白く弾ける。
「何やってんだ馬鹿ッ!」
黒訝だ。
怒りをあらわに、目を見開いている。
「鬼を殺すな!」
その剣幕には、怒り以上のものがあった。
焦り、恐れ。
蓮次は混乱した。
なぜ止められたのか、理解できない。
目の前の鬼は人の子を襲おうとしていた。間違いなく。
ふと気づけば、鬼が吠える。
蓮次は再び立ち上がり、黒訝を押しのけて少女へと向かおうとする。
だが——
視線を感じた。
鬼の目が、こちらを捉えていた。
「……ッ!」
足がすくむ。
凍りつくような恐怖が、背骨を伝って駆け上がる。
同時に、蓮次の中の過去の影が消え去った。
さっきまでの“蓮次”はもう居ない。
蓮次はただの蓮次に戻ってしまった。喰われる者、鬼の餌食に。
――狙われている。
そう理解した途端、足元が崩れて尻もちをついた。
異形の鬼が、蓮次に向き直る。
その隙に、少女は逃げていった。
鬼はそれから一歩も動かず、蓮次を凝視し続けている。
「ちっ、もういい、行くぞ!」
黒訝が蓮次の腕を掴み、強引に立ち上がらせた。
引き揚げられて冷静になれた。
慌てて地面を蹴り、一目散に森を駆ける。
「ダメなんだよ、鬼を殺すのは!」
黒訝の声が、風を切って飛んでくる。
「しかも、あいつ……妙だった。負けてたら、お前もう喰われてる!」
蓮次は、走りながらも鬼の顔を思い出す。
異形のような鬼でありながら、不思議なほどに重い気配を纏っていた。気味が悪い。
やがて、森を抜けた先で立ち止まり、近くの岩影に座り込んだ二人。
雨は止んでいた。空は鈍く曇っている。
蓮次は息を整えると、ぽつりと漏らす。
「……あの子、無事だったかな」
掠れた声で。
それを聞いて、黒訝は苛立ったように頭を掻きながら言った。
「人の子の心配より、自分の心配しろよ。お前、狙われたんだぞ。しかも、普通の鬼じゃねぇ」
たしかに。
あの鬼は、異形とは異なる“何か”だった。
形は歪んでいるが、漂う気配は上位の鬼に近い。どこか、混じりもののような違和感。
黒訝は言葉を慎重に選びながら、口を開いた。
「俺たち朱炎の一族には、掟がある。鬼を殺すことは、禁忌だ。異形は構わない。でも鬼は……ダメだ」
蓮次は、黙って聞いていた。
「殺したら呪いが発動する。本人だけじゃ済まない。
関係ない奴らまで、命を落とすことになる。……洒落にならねえだろ」
しばらくの沈黙。蓮次は問う。
「でも……異形と、低級の鬼って、見分けがつかない。さっきの鬼も変だった」
黒訝は、静かに答えた。
「異形は空っぽ。鬼は……生きてる。気を張ってりゃ違いくらい分かるさ」
少し間を置いて、付け加える。
「……低級の鬼なら、呪いが発動しない場合もある。けど、それを期待して殺しにいくもんじゃない。分かったな」
その声には、警告と共に、どこか悲哀が滲んでいた。
蓮次は、ただ頷いた。
遠く、木々の間に、気配を殺して佇む影がある。
耀だ。
彼は、冷静な目で、蓮次と黒訝が消えていった方角を見つめていた。
元々、二人を密かに尾行していた。
まだまだ不安定な蓮次なのだ。何かあったとき、放ってはおけない。
二人の影が見えなくなると、耀は背筋を伸ばし、踵を返す。
向かう先は、先ほどの“異形の鬼”の背後にいる一族の長。
次の災いを、未然に防ぐために。
 




