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  作者: Yonohitomi
一章
93/165

96.白い風


 洞窟の奥。冷たい石の床に、転がった肉片。


 先ほど黒訝に無理やり喰わされそうになったそれは、裂けた断面から微かに生臭さを放っていた。

 蓮次は立ち尽くしたまま、目の前のそれに視線を落とす。


『鬼になるということは、覚悟の問題だ』


 黒訝の、冷えた声がよぎる。


「……だけど」


 震える手を伸ばし、肉片を拾い上げる。

 けれど口元へと運んだ瞬間、胃の奥が拒絶の悲鳴を上げた。


「無理だ……!」


 投げ飛ばすつもりはなかった。

 だが、手からこぼれたそれは足元でぐしゃりと音を立てる。

 蓮次は慌てて洞窟の外へ飛び出した。


 まだ雨が降っていた。


 冷たい雨粒が、掌にこびりついた血と混ざり合い、滲んでいく。

 ぬめりは消えずに残り、赤黒い液体だけがゆっくりと薄まっていった。


 蓮次はその手を見つめていた。

 雨と血と、自分の存在が混ざり合い、境目が曖昧になる。


 数歩、前へ進む。黒訝がいた。


「帰るぞ」


 その声には、失望にも似た諦めの色が混じっていた。

 蓮次はただ頷くだけ。黙って黒訝についていく。


 しかし、雨音が静かになった瞬間、蓮次はぴたりと足を止めた。


 黒訝は訝しむように振り返る。


「どうした?」


 蓮次は遠くを見つめて動かない。

 視線は焦点を結ばず、けれど何かを「見て」いる。


『耳を澄ませ。意識を絞れ』


 ——泣いている。


 人の子の、微かな声。


 遠く、山の向こう。


 蓮次の意識がざらつき始めていた。


『助けなければ……』と。


 血と記憶に染み込んだ、過去の「誰か」に浸食されて、思わず足が動く。


「……助けないと」


 その言葉とともに、蓮次は踵を返す。


「おい! 待て!」


 黒訝が叫び、蓮次の腕を掴もうと手を伸ばす。

 だが遅い。「馬鹿が……!」と吐き捨てて、蓮次の背中を睨んだ。


 しかし次の瞬間——黒訝は目を見開いた。


 まるで別人。

 蓮次の姿は、まさしく“鬼”そのものだった。


 音ひとつ立てず、風のように空気を裂いて、凄まじい速さで駆けていく。


「なんだ……あれ……」


 黒訝は思わず呟いた。だがすぐに表情を引き締め、蓮次を追う。


 

 

 森の中を、白い風が駆け抜ける。


 蓮次の集中は極限まで高まり、気配のひとつひとつが明確に輪郭を持って見えた。


 音も、匂いも、色を宿して迫ってくる。


「人の子」がいる。


 そのすぐ傍にいるのは——異形? 違う。鬼だ。


 その瞬間、蓮次の爪が伸びた。鋭く、迷いなく。殺意の象徴。だが怒りではない。使命感でもない。


 意識の底に沈んだ「行動の記憶」が、何の躊躇もなく身体を突き動かしていた。

 かつて、誰かがこうして人を守ったのだ。


 その「誰か」が、今の蓮次に重なる。


 ——前世の蓮次。


 森の奥から響く咆哮に、蓮次は歯を食いしばった。



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