95.喰え
雨はまだ降っていた。もうずいぶん長く。
地面の冷たさが肌を伝って、心の奥にまで染み込んでくる。
蓮次は洞窟の奥で静かに膝を抱えていた。濡れた空気と、雨音の反響に身を寄せて。
やがて、入り口の影が揺れた。
蓮次が顔を上げると、雨に濡れた黒訝が戻ってきていた。
手に何かをぶら下げている。
赤い。
濡れたような光沢。
――血?
黒訝は無言でそれを蓮次の前に差し出した。生々しい何かの肉。まだ温かい。皮も骨もついたままの野生の何か。
「……これは」
蓮次の声はかすれていた。
黒訝はただ一言返す。
「喰え」
目の前に差し出され、身体がひくりと反応した。
「無理だ。……そんなの、俺は……」
背けようとした顔を、強く掴まれる。
「食えって言ってんだろ」
そのまま強引に押し倒され、蓮次の背が冷たい岩肌に打ちつけられた。
反射的に身体をよじるが、黒訝の力は強い。肉を掴んだ手が、蓮次の口元へと。
「や、やめろ、やめろっ……!」
もがいて、蹴って、肉を弾き飛ばすようにして逃れた。
赤い肉塊が宙を舞い、岩壁に当たって転がる。
洞窟に、荒い呼吸が響く。
「甘えるなよ」
黒訝は苛立ったように立ち上がり、蓮次を見下ろして吐き捨てるように言った。
「いつまで、そんな中途半端でいるつもりなんだよ」
蓮次は、動けなかった。
「誰かに守ってもらって、力だけもらって、それで満足かよ。お前、何なんだ。肉も食えねぇ、血も浴びれねぇ、鬼の力を持ってるのに、いつまでも“人間でいたい”だぁ? そんな中途半端、通じると思ってんのか!」
湿った空気の中で辺りを刺すように響いている。
黒訝は蓮次を睨みつけた。
「……俺だって、半端者なんだよ」
その言葉に、蓮次の心臓が大きく跳ねる。
「お前……」
「俺は、“半鬼”だ。人間と鬼の間に生まれた」
黒訝の眼差しには、怒りとも諦めともつかない色が浮かんでいた。
「母上は、人間だった。目が見えなくて、足も片方、なかった。……余所の鬼に襲われたんだ。俺が生まれる前の話だ」
蓮次は、言葉を失った。黒訝の声は低く、静かだった。
「それでも、父上の隣に立っていた。誰にも怯えず、堂々としてた。人間なのに、鬼の中で、自分を貫いて生きてたんだよ!」
洞窟の奥が、一瞬だけ静かになった。
蓮次の中で、何かがざわめいた。遠い記憶の底で、濁った水がかき回されるような感覚。
「なのに! お前はどうだよ。力もあって、守られて、何だって持ってるのに、ただうずくまって、何も受け入れようとしない。お前がどんな生まれか知らねぇけど、いい加減にしろ!」
黒訝は声を荒げた。
「“鬼になる”ってのは、覚悟の問題なんだよ! ――俺は、もう決めた。お前はどうなんだ、蓮次!」
叩きつけられるように耳に響いた。蓮次の胸が、締めつけられたように痛む。
黒訝はもう何も言わず、睨みつけるだけだった。
そして、背を向けると、雨の降り続く洞窟の外へと足を向けた。
黒訝の背を目で追う。雨の気配が風とともに吹きこんでくる。
蓮次は、動けなかった。
冷たい地面に、まだ倒れたままの姿勢で、ただじっとして。
視線の先には、投げ飛ばされたままの肉。
赤い、濡れた、まだ温かさの残るそれ。
蓮次は静かに見つめていた。
手のひらが、泥に汚れている。この泥が血に変わる日が近いと予言するように、爪の先には少量の血が付いていた。
――あの肉の血だろうか。拒絶したのは、なぜなのか。
自分でも分からない。
だが、本能的に拒んだ。
――鬼になりたくないから?
あれを喰うという事は、つまり、鬼になるという事。それが、黒訝が言った、覚悟の問題だと。
蓮次は動かず、考えていた。
――喰うべきなのか?それとも。




