90.見惚れるな
開け放たれた障子の向こう、一人の男がいた。
耀だった。
手に持つ扇子を軽やかに翻しながら、彼は静かに舞っていた。
一瞬だった。しかし、蓮次の目を奪うには十分すぎるほど美しい動きだった。
呼吸すら忘れたかのように、蓮次はその姿に見入っていた。
背後には若い女鬼が二人。どうやら耀が彼女たちに舞を教えているらしい。
(また、見れるだろうか)
もう一度、舞ってほしい。
期待するように、蓮次は目を凝らす。
そんな彼の耳元で、老婆の静かな声が響いた。
「耀様は、舞踊の心得がございます。若い鬼たちに舞を教え、鬼が営む隠れ宿などで披露できるようにしているのです」
蓮次は、ちらりと老婆の方を見る。しかしすぐに耀へと目線を戻した。
扇子が穏やかに空気を切り、はらりと翻る。
耀が再び舞の手本を見せたのだ。
先ほどと同じように、美しい動きだった。
「綺麗だ……」
蓮次は、思わず呟いた。
すると老婆は穏やかな口調で続けた。
「耀様の踊りは、朱炎様の前でしか披露されませんよ」
少しばかり笑みを含んだような声色で。
その後、老婆の姿はすっと消えた。
蓮次は、耀の姿に釘付けのまま。
(もう一度……)
耀の動きの余韻が目の奥に焼き付いている。
今はもう手本を終えているが、もう一度、舞ってくれ、と、心の中で唱え続ける蓮次。
だが、耀はその後、舞う事はなく、女鬼たちと向かい合って座った。
それぞれが深々と頭を下げている。どうやら稽古が終わったらしい。
しばらくすると耀がこちらに向かって歩いてきた。
「耀」
蓮次は、迷いなく声をかけた。
「綺麗だった。また見せてくれ」
耀は何かを答えようとしたが、次の瞬間。
ゴンッ!
鈍い衝撃が蓮次の頭に響いた。
「……は?」
後ろから殴られた。蓮次が振り向くと、そこには黒訝が立っていた。
「またお前! なんで殴るんだ!」
「お前、話聞いてたか?」
黒訝は明らかに苛立っている。
「耀は父上の前でしか踊らねぇんだよ、馬鹿か!」
そう言い放つと、さらにもう一発。
「っ……!」
今度は避ける事ができたが……。
蓮次は舌打ちし、黒訝を睨みつける。
「お前は殴る事しか出来ないのか!」
「うるさい! お前が父上みたいな事を言うからだろうが!」
「なんの話だ!」
「絶対許さねぇ!」
互いに睨み合い、結局、二人は取っ組み合いになった。
「お前が一緒に来いって言ったから来たんだろう! 俺、来た意味なかったよな!? それに、耀に話しかけるくらい自由だろ!」
「お前が急にいなくなるからだろうが!」
「だから何だよ!」
「黙れ、クソが!」
言葉の応酬とともに、再び拳が飛び交った。互いの腕が絡み、膝がぶつかる。
蓮次と黒訝の取っ組み合いに、近くを通りがかった鬼たちは少しばかり距離を取り、見なかった事にして去っていく。
「全部お前が悪い!」
「知るか!」
「そこまでにしましょうか」
静かで穏やかな声が響いた。
先ほどまで殺気立っていた空気が、一瞬で鎮まる。
二人の熱を冷ますような静かな声は、耀のものだった。
蓮次が息を整えながら耀を見上げる。同時に、黒訝の姿はふっと影になり掻き消えた。
「……!」
蓮次は拳を握りしめたまま、ふと我に返る。
黒訝はもう、どこにもいなかった。何も言わず、去ってしまった。
残された静寂の中で、胸の奥に渦巻くのは収まりきらない苛立ち。
そして、言葉に出来ない、何か。
蓮次は大きく息を吐き出すと、乱れた髪を整える。
蓮次の表情は曇ってしまった。
「…………」
「蓮次様、戻りましょうか」
相変わらず穏やかな声が響いた。
仕方なく、耀とともに屋敷へ戻る。
この日、結局、黒訝から鬼のことを詳しく聞くこともなく、ただ苛立ちが残っただけで一日が終わった。
森の中は、闇に沈んでいた。すっかり日が落ちていた。
昼間とは別の世界のよう。
木々の影が濃く、風の音すら吸い込まれる。
蓮次は足を止め、ふと見上げた。
月は雲で隠れていた。
蓮次はまた大きくため息をつく。
歩きながら考えるのは、黒訝のことばかりだった。




