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  作者: Yonohitomi
一章
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94.鬼になれば


 黒訝との任務は、意外なほど静かに始まった。


 月は薄雲に覆われ、霞んだ光が森をぼんやりと照らしている。その下を、二つの影が黙々と歩いていた。


 蓮次は黒訝の少し後ろを、間を空けてついていく。

 沈黙の中、ぽつりと黒訝が話し始めた。


「暗殺の任務が多い。俺は影になるのが得意だから」


 彼の声は淡々としていた。今夜もまた、その任務のひとつらしい。気配を殺し、見張りをすり抜け、城へと潜入するという。


「忍びのようなもんだと思えばいい。ただし、鬼は忍びよりずっと自由が利く。影に紛れ、姿を変え、術も使える」


 その語り口は、どこか兄が弟に仕事を教えているよう。

 黒訝は木々の間を音もなく進みながら、さらに話を続けた。


 潜入だけでなく、人間社会に溶け込む長期任務もあるという。黒訝自身は経験がないが、今も他の鬼がそれに就いているらしい。


「『不死の兵』って知ってるか?」


「いや……」


 蓮次は小さく首を振った。

 黒訝は静かに続ける。


「人間に混じって戦う、死なない鬼の兵だ」


「……人間と一緒に?」


「ああ。何年も人間に紛れて暮らしてる」


「……戻ってこないのか?」


 蓮次が尋ねると、黒訝は一瞬だけ視線を向け、また前を見た。


「戻るさ。任務が終われば」


「……そうか」


 人の中で生きる鬼。


 ――孤独を感じることはないのだろうか。


 ふと、そんな疑問が頭をよぎる。


「その鬼は……強いんだな」


「は?」


 黒訝が怪訝な表情で振り返った。


「強いかどうかは知らない。でも、人の振りしてうまくやってんだろ……」


 その淡々とした語りは、蓮次の胸の奥にざらついた痛みを残した。

 じっと黙っていると、黒訝の気配が少しだけ鋭くなる。


「自分だけが特別だと思うな」


 その一言に、蓮次の中で何かが崩れた。

 ずっと、自分だけが特別な異物のように思っていた。

 人から鬼になった。鬼の中でまともに歩めず、拒み、苦しみ、浮いている。そう思っていた。


 けれど、その鬼たちは人間に混じって生きている。人の振りをして生活し、孤独を感じることも無く、己の役割を果たしている。


 あれほど憎らしく低俗だと思っていた鬼のほうが、自分より遥かに強く、優れているのではないかと思える。


「なぁ、黒訝……」


「甘えるな」


 冷たく遮る言葉。蓮次はそれ以上、何も言えなかった。


 黒訝が足を止めた。


「俺はお前が嫌いだ。……許せない」


 蓮次の目が見開かれる。足が自然と止まっていた。前に進む力が失われたようだった。


 (……そう……だよな)

 

 心のどこかで、黒訝に寄りかかっていた。安心していたのかもしれなかった。心の底から、嫌気が差す。


 自分の弱さを思い知らされる。


 (……鬼に……なれば……)


 気づけば、黒訝は先へ進んでいた。また振り返り、少し苛立ったように叫ぶ。


「おい、早く行くぞ!」


 蓮次は小さく息を呑み、歩き出した。足が重い。けれど立ち止まっていても何も変わらない。


 やがて黒訝に追いつくと「ここで待て。すぐ戻る」と言われ、黒訝の姿は溶けるように消えた。


 蓮次は静かにその場に座り、耳を澄ます。


 風が木々を揺らしていた。湿った森の香りが運ばれる。とても静かだった。


 静かすぎて、さっきの言葉が、何度も頭の中で反響する。


――自分だけが特別だと思うな。


(別に特別だと思っているわけじゃない。ただ……馴染めない。役割も無い。何も無い。それは俺が、弱いからで……)


 やがて、雨がぽつぽつと降り出した頃、黒訝が戻ってきた。


「終わった」


 それだけ言い、蓮次が口を開く前に歩き出す。


「なぜ一人で……?」


 蓮次が問いかけると、黒訝は背を向けた。


「お前には無理だ」


「…………」


 蓮次は唇を噛み、その背を追う。

 黒訝の言う通りだった。


 命を奪うこと。その意味を、蓮次はまだ受け止めきれていない。


 雨は冷たく、森を濡らしていく。


「急いで戻る手もあるが……雨の中は面倒だな」


 黒訝はぽつりとつぶやき、近くの岩陰に目をやった。洞窟を見つけ、蓮次を促して中へ入る。


 湿った空気と冷たい岩肌。ぽたりと落ちる水滴の音。


 蓮次は奥に座り込み、身体を丸めて深く息を吐いた。まぶたは自然と落ちてしまう。


「……寝るのかよ」


 黒訝の呆れた声が届く前に、蓮次は眠りに落ちていた。静かな寝息が洞窟に広がる。


 黒訝はその姿を見下ろし、小さく鼻を鳴らした。


 鬼が眠るのは、酒に酔い潰れた時か、致命の傷を負い力尽きた時くらい。そもそも眠らずとも生きられるのが鬼というもの。

 それが、この程度で眠り込むとは……。


 黒訝はため息をついた。


 父がこの半端者を特別視していることを思い出し、黒訝の胸に苛立ちが滲む。


「……なんなんだ、お前は」


 外はまだ雨が降っていたが、黒訝は森へと姿を消した。


 湿った空気が重苦しい。濡れた地面の匂いが纏わりつく。空は気分を落ち込ませる灰色だ。


 蓮次が目を覚ました時、黒訝の姿は、どこにもなかった。

 洞窟の奥で、ひとり静かに呼吸を整える。


 また、ひとり。

 心の奥に、ぽつんと穴が開いたような感覚が残る。


――黒訝は、どこへ行ったのだろう。



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