89.特別な着物
黒訝が女鬼たちと楽しげにしているのを横目に、蓮次は無言でその場を離れた。わざとらしく横切るようにして。
黒訝の態度が妙に苛立たしかった。
普段は睨みつけて圧をかけてくるくせに、女鬼どもにはあんなにも素直に甘えたような顔をするのか。
(……馬鹿みたいだ)
蓮次は鼻を鳴らし、そのまま奥へ進もうとする。
「おい」
背後から怒声が飛んできた。足を止める。
「お前の用事じゃなくて、俺の用事だろ。付き合えよ」
黒訝の苛立ちを背中越しに感じたが、振り返ることなく、蓮次はそのまま歩き出そうとした。
だが、黒訝はそれを許さない。
「おい!」
強引に腕を掴まれ、力任せに引き戻される。蓮次が顔をしかめる間もなく、そのまま女鬼たちが案内する部屋へと連れて行かれた。
黒訝はよく着物を傷つける。
戦いのたびに破るのか、それとも単に粗雑なだけなのか。とにかく、彼がこの店を訪れることは多かった。
朱炎の息子という立場ゆえの特権で、常に新しい着物を仕立ててもらえる。
「これはいかがです?」
「こちらもお似合いかと」
鬼女たちはいつも通り楽しげに着物を選び、次々と黒訝へ差し出す。
黒訝は満更でもなさそうに袖を通した。
姿見として傍らに掛けられた影布を手で撫でる。すると、一瞬だけその表面に自身の姿が映し出された。
黒訝はそれを確認すると、満足げに口角を上げ、次の着物に手を伸ばした。
「黒訝様、とっても素敵ですわ!」
「黒訝様、こちらを向いてくださいませ」
女鬼たちは甘ったるい声で惜しみなく賛辞を浴びせている。
黒訝といえば蓮次を気にする素振りもなく、影布に映る自分の姿を確かめ、楽しげに次の着物を選んでいた。
部屋の端に座し、その様子を眺めている蓮次。
腕を組みながら胡乱げな視線を向ける。
(……なに、あいつ)
普段は不機嫌そうな顔しかしないくせに。
自分にはやたらと棘を向けてくるくせに。
何がそんなに楽しいのか。
女鬼たちの前ではああも態度を変えるのか。
蓮次の胸の内には、妙な不快感が渦巻いていた。
ふと、黒訝と目が合う。
蓮次はぷいと顔を背け、そのまま瞬間移動で部屋を出た。
外の空気は澄んでいて、屋敷の奥へと続く廊下にも、ひんやりとした静けさが満ちていた。
蓮次は足を進める。
曇り空の合間からわずかに光が差し込んでいる。
庭に伸びた木々の影が揺れ、床にもまだらな模様を落としていた。
喧騒から離れたこの場所は、妙に静かで、冷えた空気が肌を撫でる。
先ほどまでの苛立ちは、知らぬ間に薄れていた。
さらに奥へと足を運ぶ。
外の光が届かない廊下を曲がると、壁に沿うように行灯が並んでいるのが目に入った。
それはぼんやりと光を灯し、薄暗い屋敷の奥へと誘う。
ふと奥の方から、何か強い気配を感じた。
ある襖の前で足を止める。
奥から、何かがこちらを見ているような錯覚を覚えた。
「……なんだ」
そのとき、不意に背後に気配が立つ。
振り向くと、老人のような女鬼が立っていた。
白髪を丁寧に結い上げ、質の良い着物を身につけている。
姿勢も良く、厳かな気配を醸し出す老婆鬼。蓮次を見つめ、細い目をさらに細めながら、静かに口を開く。
「あちらには、生きた着物がございます」
「生きた着物?」
「朱炎様の血を織り込んだ特別なお品。選ばれ者しか手にできないお品物となっております。蓮次様のそちらも……」
蓮次は眉をひそめ、自分の着物に視線を落とした。
(……なるほどな)
黒訝が地獄の谷で「俺はそんなの貰えなかった」と言っていたのは、これの事だったのか、と、蓮次は無言で着物の裾を指でなぞった。
「蓮次様」
低く静かな声が、そっと名を呼んだ。
老人の女鬼はゆっくりと歩を進め、「別のお部屋へご案内いたします」と言う。
それはつまり、これ以上、奥へ進むな、ということだろう。
蓮次は大人しく老婆に従った。
来た道を引き返す。光の届かない廊下を抜けて再び中庭へ出た。
奥の重い空気とは異なり、外の空気はいくぶん軽やかだった。
「さぁさぁ」
老婆鬼が穏やかな声音で促し、黒訝のいる部屋とは反対の方角へ歩みを進める。
蓮次もそれに続いた。
だが、ふと足を止める。
中庭を挟んだ向こうの部屋。
開け放たれた障子の向こう、一人の男の姿があった。
それは——。




