66.赤い瞳
夜の森は、ひんやりと湿った空気に包まれている。
葉の隙間から零れる月の光が、幻想的な輝きを放っていた。
枝葉がわずかに揺れ、虫たちの声が重なりながら響いている。
蓮次は、気の向くままに森を歩いていた。
頭の片隅には、ぼんやりとした景色。
それを探し求めるように。
──滝のある場所。
見たことがあるような、ないような。
滝が流れ落ち、湖が広がり、その水面には月が映る。
水飛沫は繊細で、月光に照らされるたびに七色の光を帯びる。
それは、なぜか心の奥深くにこびりつき、離れないもの。
懐かしい──けれど、胸をざわつかせる景色だ。
体調はすっかり良くなっている。
黒訝が力を与えてくれた。朱炎の代わりに。
蓮次はそう思っていた。
昨夜の事だ。
蓮次は黒訝と共に任務に向かっていた。
しかし、事は起こってしまった。
黒訝との戦い。
戦うつもりなど無かったが……。
黒訝の攻撃は容赦がなかった。
蓮次は体力を削られるばかり。
もともと万全ではなかった身体に、それは大きく響いた。
苦しかった。けれど。
最終的に、黒訝は蓮次を助けてくれた。
だから、次に会ったら、礼を言おう。
蓮次はそう考えていた。
今、森は静かだ。
先ほど、小さな館の前を通りかかったときのこと。
館の扉が勢いよく開き、鬼たちが姿を現すと、一斉に蓮次へ頭を下げた。
その光景に、ひどく落ち着かない気分になった。
彼らが見ているのは、自分ではない。
蓮次の知らない「蓮次」に、何かを期待している。
そう思えてならなかった。
胸の奥にじわりと広がる違和感を払うように、蓮次は静かな場所を求めて歩き出した。
鬼の気配がない方へ。
そして今、深い森の中にいる。
空気は澄み、夜の森の香りがわずかに鼻をくすぐった。
風に揺れる葉の微かな音も、とても繊細だ。
ここが鬼の棲む山の一部だとは、とても思えない。
この山は、広大だった。
まだ知らない場所ばかりだ。
蓮次は体調が良くなった事もあり、気づけばずいぶんと森の奥まで来ていた。
心も体も、とても軽い。
──しかし。
いつの間にか、木々の密度が増していた。
浮かれていたのかもしれない。
気づけば、月の光すら届かないほどの暗闇が広がっていた。
蓮次はふと後ろを振り返った。だが、そこにはもう。
(……道が……ない……!?)
来た道は、もう分からなくなっていた。
(……おかしい)
蓮次は眉を寄せる。人間だった頃から遠くの気配を探る事ができた。なのに、今、自身の感覚が鈍っている。
鬼の力を宿しているのに、まさか迷うとは思わなかった。
そのとき、ふと微かに匂う。
人の──
血の匂い。
全身の毛が逆立った。
(ここは……危険だ)
直感がそう告げていた。
引き返そうと、振り向いた。そのとき──
ザッ!!
襟首を乱暴に掴まれた。
強引に引き倒されるような衝撃に視界が揺らぐ。
「何してる!!」
鋭い声が頭のすぐ近くで響いた。蓮次は息を呑み、顔を見るまでもなく相手を察する。
黒訝だった。
黒訝は怒りを露わにしながら、蓮次の着物の襟を乱暴に掴んでいた。
蓮次は容赦なく引っ張られ、足をもつれさせながら地を踏むしかない。
抗う間もなく、闇の中を引き摺られるようにして進んでいた。
やがて視界が開け、再び月の光が降り注ぐ場所に出た。
黒訝の手によって、闇の奥から引き戻されたのだ。
「助かった」
だが、蓮次が言葉を発した途端、黒訝は乱暴に手を放った。
「っ……!」
蓮次はよろけ、転げそうになる。しかし、すぐに体勢を整えた。
改めて黒訝を見る。
「ありがとう、助けてくれて」
「助けたわけじゃない!!」
低く、怒気を帯びた声。
「お前は余計なことをするな! あの場所には近づくな!!」
蓮次はその言葉をしっかりと受け止めた。
「分かった。気をつける」
黒訝の表情は、苛立ちと焦燥に満ちていた。
本当に危険な場所なのだろう──蓮次はそう理解した。
「……」
「……」
不機嫌そうに沈黙を貫く黒訝。
何も言わずに立ち去ろうとする。
「待ってくれ」
黒訝の足が、一瞬止まる。
「お前のおかげで元気になったんだ」
蓮次は黒訝の背に向かって、真剣に言葉を投げかけ続ける。
「ずっと話したいと思ってた。あの時は気分が悪くて……」
だが、蓮次が言い終わるか終わらないかのうちに、黒訝が勢いよく振り向いた。
鋭い瞳が、蓮次を真っ直ぐ射抜く。
「俺はずっと気分が悪い」
低く静かな怒気が、夜の空気を震わせた。
「お前のせいでな!!」
蓮次は息を呑む。
激しい怒り、苛立ち──それ以上の、凄まじい何かを感じ取った。だが、それでも蓮次は続ける。
「お前が力を分けてくれたんだろ?」
黒訝は朱炎の息子。強い鬼。
「すごく楽になったんだ。お前のおかげで……だから」
その瞬間──
黒訝が動いた。
蓮次に向かって、鋭い拳が突き出される。
蓮次は反射的に身を引いた。しかし、遅かった。
空気を裂く轟音が響く。
ドンッ!!
強烈な一撃が、蓮次の胸を貫いた。鋭く、重い。
蓮次は勢いよく後方へと吹き飛ばされた。
しかし、すぐに身を翻し、受け身を取って着地する。
「……っ……」
今まで一番の衝撃を喰らった。
胸の痛みに、眉を寄せる。
顔を上げると、真っ赤に燃える瞳が蓮次を見ていた。
まるで、炎のような
血の赤のような。
真紅の瞳が、朱炎の──
あの赤い瞳と重なった。




