60.届かぬ月光
蓮次の部屋はひどく冷えていた。その冷えから身を守るように布団へ深く潜り込んでいる蓮次。だが、耀が静かに戸を開けた気配を察し、ゆっくりと身を起こす。
額に手を当て、蓮次は僅かに肩を震わせた。
その様子を見ながら、耀はためらいなく歩み寄り、小さな盃を差し出した。
酒面がかすかに揺れる。冷え切った空気に甘い香りだけが溶けていき、淡い霧のように漂った。
蓮次は受け取った盃に鼻を近づけたが、顔をゆがめた。
「……無理だ」
短い吐息とともに盃を押し返す。
その指先は目に見えるほどに震えていた。
「この酒……人の匂いがする」
耀は盃を受け取ったまま、しばし動かず蓮次を見下ろした。
俯く蓮次に向け、静かだが拒絶を許さぬ声音で告げる。
「飲んでください」
蓮次はその言葉から逃れるように顔を背けた。
***
あの任務以来、朱炎は蓮次に力を与えなくなった。
初めての任務は失敗だった。
屋敷へ戻ってからの記憶は断片的で、気づけば床に倒れていた。
目覚めるなり朱炎の元へ向かったが、叱責も罰もなかった。
あったのは無言の圧力のみ。
本来ならいつものように力を分け与えられるものと思っていた。
しかし何もなく、ただ「下がれ」と告げられただけだった。
***
蓮次は布団の上で膝を抱え、強く拳を握る。
寒さではない。内側から静かに広がる虚無が体温を奪っていくのだ。
耀が口を開く。
「朱炎様は蓮次様を見捨てません。しかし……このままでは蓮次様が苦しむだけです」
蓮次は睨むように顔を上げた。
「……お前は他人の考えが読めるのか?」
耀は一拍の迷いもなく答える。
「いいえ」
微動だにせず続ける。
「読んだのではなく、見ているのです。寝込む日が増え、肩で息をし、表情には不安が滲んでいる。そして朱炎様が蓮次様に力を与えておられないことも、私は知っています」
蓮次は何も言わなかった。
その静寂を裂くように、耀は声色を冷やして言った。
「無理矢理にでも、人の肉を喰わせ、人の血を飲ませることはできます。縛り付け、口に押し込むことも」
蓮次の中で、何かが軋んだ。
「……不快だ」
押し殺した声で吐き捨てる。
「こんなものを強いる鬼が……俺は嫌いだ」
それは誰に向けた言葉でもなく、自分自身に刻み込むような呟きだった。
耀は蓮次を見つめたまま、再び盃を差し出す。
蓮次は迷い、しかしその眼差しに押されて盃を受け取った。
だが匂いが喉元を塞ぎ、耐えきれず返す。
耀は追及しなかった。ただ、盃を手の中に収めたまま、暗い表情をほんの刹那だけ見せた。
──かつての蓮次も、同じように拒んだのだ。
蓮次は鬼でありながら、人の肉も血も受け付けなかった。
辛うじて動物の血ならば食せたが、今はそれすら拒絶している。
この程度で鬼が死ぬことはないから。
しかし、耐え難い苦しみが長引くことも耀は知っていた。
蓮次は布団に横たわりながら力なく告げる。
「……少し、1人にしてほしい」
「分かりました」
耀は布団を掛け直し、蓮次の傍に静かに腰を下ろした。
やがて、蓮次は微かな笑みを浮かべ、ぽつりと呟く。
「優しいんだな……お前は」
耀は一瞬だけ目を伏せる。
その気配は、過去の蓮次の面影にどこか重なっていた。
「けど……悪いけど、落ち着かない」
蓮次は続けた。
「出ていってくれるか。……お前から、朱炎と同じ気配がする」
耀は珍しく、わずかに表情を動かした。
驚きと、それを隠そうとする静かな気配が揺れた。
蓮次は、その揺らぎを見逃さなかった。
***
夜の森。
更けた夜は静まり返り、雲がゆっくりと流れている。
風は当てもなく彷徨い、まるで誰かの手に捻じられたように時折渦を巻いた。
耀は、外回りの見張りにつく烈炎の元へ足を向けた。
蓮次の部屋を出ても、胸のざらつきは消えなかったからだ。
「なぁ、烈炎」
「……なんだ?」
「また、蓮次様に嫌われそうだ」
烈炎は深いため息を吐く。
「なんでお前たちは、そうなるんだよ……」
朱炎も、耀も、烈炎も──
過去を繰り返したくはないと、誰より思っている。
しかし、どうしても脳裏をよぎる。
──また、同じ道を歩んでしまうのではないか。
姿が違おうと、記憶がなかろうと、「蓮次」は戻ってきた。
皆が、それぞれの思いを胸に、暗い道の先を見失わぬよう足元を確かめながら進んでいる。
なのに。
夜空を流れる雲が、風に引き裂かれ、からまり、また別の形へと変わっていく。
月はまた隠れるのだろう。




