56.影も残らず
「よく見ておけ」
朱炎の声は低く、冷たく響いた。
黒訝はこの異様な光景に動揺し、気配を乱してしまっていた。
当たり前に、見抜かれていた。
「こんなことで動揺するな、馬鹿者。これでは半端者のままだ」
突き放すような声。
冷たい視線が刺さる。
耀も烈炎もこちらを見ていた。彼らの目は鋭く、無慈悲だった。
鬼の目だ。
黒訝は歯を噛み締めるしかなかった。
自分がこんなことで動揺するのは、半鬼だからか。
けれど、そんなこと以前に、そもそも、これは!
目の前ではまたひとり、中級の鬼が朱炎に跪き、深々と頭を下げていた。
女鬼だ。震える声で謝っていた。
「異形を産んでしまい、申し訳ございません」
横には男鬼がいた。おそらく彼女の伴侶なのだろう。彼もまた、女鬼を支えるようにしながら頭を垂れる。
朱炎は膝をつき、二人の目線に合わせた。
「お前たちの働きには感謝している」
低く、落ち着いた声だった。
耀が盃を差し出す。女鬼はそれを受け取り、躊躇いもなく飲み干した。
次の瞬間、彼女の体が痙攣し、変異していく。
喉の奥から苦鳴が漏れ、指が不格好に歪み、目が異形のように。
女鬼は、悪鬼に堕ちたのだ。
だが烈炎は彼女を殺さなかった。
暴れる彼女を、男鬼が必死に押さえつけている。その様子を黒訝はじっと見つめていた。
きっと彼らは、後で山の裏にある地獄谷に向かう。あの場所で、共に燃え尽きるのだろう。
朱炎はその後も、一人ひとりに声をかけ、言葉を交わしていた。そして、耀が盃を静かに渡す。
低級も中級も、皆が朱炎に頭を下げている。
悪鬼に堕ちて殺される者も、何も起こらずに終わる者も。
等しく朱炎に敬意を払い、感謝を伝えている。
こんな最期を迎えるというのに。
黒訝は呆然と立ち尽くしていた。
朱炎の言葉が脳裏に焼きついている。
「よく見ておけ」
これは、つまり——。
これが、跡を継ぐ者の役割なのか?
黒訝は唇を噛む。
こんなことを、当然のようにこなせるはずがない。
こんなことを、受け入れられるはずがない。
誰かが異形を産んだと謝罪する。
それを許し、盃を渡し、堕ちた者を処分し、それでも敬意を向けられ、感謝される。
そんな役割を、自分は果たせるのか?
無理だ。
彼らが敬意を表すほどの風格。一族を率いる者としての風格が。
自分にはない。
何もない。
その時だった。
朱炎の立つその姿に、ふと別の姿が重なった。
蓮次だ。
錯覚かもしれない。
朱炎の立ち姿に蓮次の輪郭が見える気がした。
試しに、朱炎の位置に蓮次を置き換えてみる。
——何の違和感もなかった。
蓮次なら、朱炎の場所に立つことができる。朱炎と並ぶような風格を、蓮次は持っている。
黒訝には想像できてしまった。
蓮次の前に跪き、感謝を伝える鬼たちの姿が。
蓮次が、朱炎のようにそこに立ち、鬼たちが従う光景が。
胸が締めつけられた。
——許せない。
こんな光景も。
これを受け入れられない自分自身も。
自分には出来ないとわかってしまったことも。
そして、蓮次ならばそれを成せるのだろうと思ってしまったことも。
全てが許せなかった。
いや、許せないだけではない。
黒訝は、静かに絶望した。




