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  作者: Yonohitomi
一章
53/177

60.届かぬ月光



 蓮次の部屋はひどく冷えていた。その冷えから身を守るように布団へ深く潜り込んでいる蓮次。だが、耀が静かに戸を開けた気配を察し、ゆっくりと身を起こす。

 額に手を当て、蓮次は僅かに肩を震わせた。


 その様子を見ながら、耀はためらいなく歩み寄り、小さな盃を差し出した。

 酒面がかすかに揺れる。冷え切った空気に甘い香りだけが溶けていき、淡い霧のように漂った。

 蓮次は受け取った盃に鼻を近づけたが、顔をゆがめた。

「……無理だ」

 短い吐息とともに盃を押し返す。

 その指先は目に見えるほどに震えていた。

「この酒……人の匂いがする」

 耀は盃を受け取ったまま、しばし動かず蓮次を見下ろした。

 俯く蓮次に向け、静かだが拒絶を許さぬ声音で告げる。

「飲んでください」

 蓮次はその言葉から逃れるように顔を背けた。


***


 あの任務以来、朱炎は蓮次に力を与えなくなった。

 初めての任務は失敗だった。

 屋敷へ戻ってからの記憶は断片的で、気づけば床に倒れていた。

 目覚めるなり朱炎の元へ向かったが、叱責も罰もなかった。

 あったのは無言の圧力のみ。

 本来ならいつものように力を分け与えられるものと思っていた。

 しかし何もなく、ただ「下がれ」と告げられただけだった。


***


 蓮次は布団の上で膝を抱え、強く拳を握る。

 寒さではない。内側から静かに広がる虚無が体温を奪っていくのだ。


 耀が口を開く。

「朱炎様は蓮次様を見捨てません。しかし……このままでは蓮次様が苦しむだけです」


 蓮次は睨むように顔を上げた。

「……お前は他人の考えが読めるのか?」


 耀は一拍の迷いもなく答える。

「いいえ」


 微動だにせず続ける。

「読んだのではなく、見ているのです。寝込む日が増え、肩で息をし、表情には不安が滲んでいる。そして朱炎様が蓮次様に力を与えておられないことも、私は知っています」

 蓮次は何も言わなかった。

 

 その静寂を裂くように、耀は声色を冷やして言った。

「無理矢理にでも、人の肉を喰わせ、人の血を飲ませることはできます。縛り付け、口に押し込むことも」


 蓮次の中で、何かが軋んだ。

「……不快だ」

 押し殺した声で吐き捨てる。

「こんなものを強いる鬼が……俺は嫌いだ」

 それは誰に向けた言葉でもなく、自分自身に刻み込むような呟きだった。


 耀は蓮次を見つめたまま、再び盃を差し出す。

 蓮次は迷い、しかしその眼差しに押されて盃を受け取った。

 だが匂いが喉元を塞ぎ、耐えきれず返す。

 耀は追及しなかった。ただ、盃を手の中に収めたまま、暗い表情をほんの刹那だけ見せた。


──かつての蓮次も、同じように拒んだのだ。

 蓮次は鬼でありながら、人の肉も血も受け付けなかった。

 辛うじて動物の血ならば食せたが、今はそれすら拒絶している。


 この程度で鬼が死ぬことはないから。


 しかし、耐え難い苦しみが長引くことも耀は知っていた。

 蓮次は布団に横たわりながら力なく告げる。

「……少し、1人にしてほしい」

「分かりました」

 耀は布団を掛け直し、蓮次の傍に静かに腰を下ろした。


 やがて、蓮次は微かな笑みを浮かべ、ぽつりと呟く。

「優しいんだな……お前は」

 耀は一瞬だけ目を伏せる。

 その気配は、過去の蓮次の面影にどこか重なっていた。


「けど……悪いけど、落ち着かない」

 蓮次は続けた。

「出ていってくれるか。……お前から、朱炎と同じ気配がする」


 耀は珍しく、わずかに表情を動かした。

 驚きと、それを隠そうとする静かな気配が揺れた。

 蓮次は、その揺らぎを見逃さなかった。


***


 夜の森。

 更けた夜は静まり返り、雲がゆっくりと流れている。

 風は当てもなく彷徨い、まるで誰かの手に捻じられたように時折渦を巻いた。

 耀は、外回りの見張りにつく烈炎の元へ足を向けた。

 蓮次の部屋を出ても、胸のざらつきは消えなかったからだ。


「なぁ、烈炎」

「……なんだ?」

「また、蓮次様に嫌われそうだ」


 烈炎は深いため息を吐く。


「なんでお前たちは、そうなるんだよ……」


 朱炎も、耀も、烈炎も──

 過去を繰り返したくはないと、誰より思っている。

 しかし、どうしても脳裏をよぎる。

──また、同じ道を歩んでしまうのではないか。


 姿が違おうと、記憶がなかろうと、「蓮次」は戻ってきた。

 皆が、それぞれの思いを胸に、暗い道の先を見失わぬよう足元を確かめながら進んでいる。

 なのに。


 夜空を流れる雲が、風に引き裂かれ、からまり、また別の形へと変わっていく。

 月はまた隠れるのだろう。

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