54.追憶
黒訝を部屋から下がらせた後、朱炎は静かに目を閉じた。
黒訝の反応は予想通りだった。
あれほどまでに蓮次の存在を拒絶するのも無理はない。何も知らずに育ったのだ。突然現れた者を「兄」と呼べと言われても納得できるはずがない。
朱炎はふと、あの夜の記憶に引き戻された。
紅葉が、鬼の屋敷ではなく、人間の住む場所で蓮次を育てたいと言い出した時のこと。
「お前はそれでいいのか」
そう問いかけた時、紅葉は強く頷いていた。
「……私の願いです」
頑なな声音だった。
紅葉は蓮次を鬼として育てることを拒んだ。
彼女は前世の記憶を持たなかったが、魂の奥深くに刻まれていたのだろう。
もう、過酷な運命を背負わせたくない、と。
かつて最強の鬼であり、無惨な最期を迎えた蓮次。その魂を宿す子を、鬼にはしたくないのだろうと、朱炎は考えた。
納得できなかった。蓮次は鬼になるべきだ。
それでも、紅葉の願いを否定することはできなかった。彼女が前世で最後に遺した言葉が、胸に重く響いていたからだ。
『鬼である必要はありますか?』
紅葉は人の世界を望んだ。前世でも、今世でも。
だからこそ、朱炎はそれを叶えようとした。
人の世界で生きられるよう、人里の近くに住居を用意させ、信頼できる者に託し、あらゆる手を尽くした。
だが、思わぬ誤算があった。赤子が生まれた日。
蓮次が生まれたこの日、襲撃を受けたのだ。
他所の鬼たちが襲ってきた。
襲撃を予期していなかったわけではない。烈炎や耀をはじめ、多くの鬼を配置していた。
だが、その夜は鬼だけではなく「人間」も動いた。
鬼を退治することを生業とする術者たち。人間たちは、式神を放ち、結界を張り、鬼封じの術を施した。
朱炎の配下ですら、その襲撃のすべてを防ぎきれなかった。
朱炎はすぐに紅葉のもとへ駆けつけた。
彼女は瀕死の状態だった。
蓮次を守ろうとしたのか、それとも、襲撃の混乱に巻き込まれたのか。
彼女の傷は深く、このままでは命が危うかった。
そして、この混乱の中、生まれたばかりの赤子、蓮次が消えた。
朱炎は、耀に蓮次の捜索を任せ、自らは紅葉を抱きかかえてその場を離れた。紅葉の命を救うことが、まずは最優先だった。
耀ならば、蓮次の気配を追えるはずだと信じた。
だが——蓮次はどこにもいなかった。
朱炎の配下の誰もが、耀ですら、その行方を辿れなかった。
朱炎は紅葉の回復を待ちながら、同時に蓮次の行方を追っていた。
翌日、ようやく蓮次の存在を感じ取った。だが、そこは人間の屋敷だった。
蓮次は「保護されている」と言ってよかった。決して鬼の手には渡らず、人間として生かされていた。
朱炎はその事実を紅葉に伝えた。
紅葉はしばらく沈黙し、そして、こう言った。
「……それが、この子の運命なのかもしれません」
「紅葉」
「鬼にしないでください。人として、あの子を人として生かしてください」
紅葉の声は震えていたが、迷いはなかった。
蓮次が人間の屋敷で暮らしているのを、朱炎はずっと見守っていた。
もし、鬼としての力が覚醒すれば、すぐに連れ戻すつもりだった。だが蓮次は人として生き続けた。
あの夜——人間に殺されかけるまでは。
結局、紅葉の願いを叶えられず、今はもう蓮次を鬼に変えてしまった。
朱炎は目を開けた。
もし今、紅葉が生きていたら、どんな顔をしただろうか。
朱炎は、もう答えを知ることはできない。




