53.拒絶
黒訝は、遠くから影に紛れて蓮次の部屋の様子を窺っていた。
胸の奥には黒い感情が渦巻いている。
蓮次の部屋で何が行われているのか、気になって仕方ない
しかし、あまり近づけば、朱炎や耀に気づかれてしまう。それだけは避けたかった。
つい先ほど、朱炎に叱責されたばかりだったのだ。
──蓮次に敵対心を向けるのは愚かだ、と。
そのとき、朱炎は言った。
「蓮次は、お前の兄だ」
「……は?」
黒訝は耳を疑った。
冗談ではない。いきなり現れた「人間」を、兄だと認めろというのか。そんな話、今まで一度たりとも聞いたことがなかった。
だが、ひとつだけ思い当たることがある。
朱炎にはかつて、ひとりの子がいた。その者は最強の鬼と呼ばれていたらしい。
──だが、その鬼は、とうの昔に人間に殺されたはずだ。
その話を詳しく聞きたくて、何人かに尋ねたことがある。だが、誰も話してはくれなかった。まるで、それが禁忌であるかのように。
──まさか。
その者が今、「戻ってきた」というのか?
……いや、違う。
あれは人間だ。朱炎が無理やり鬼に変えただけの存在。
鬼として生まれた者ではない。
鬼に変えられたのかもしれないが、あいつからは完全な鬼の匂いがしない。
それに、朱炎は、父は、弱い者を嫌うはず。
なのに、あの「人間」を特別扱いしている。
先ほども朱炎は蓮次に力を与えていた。鬼の力を流し込んだのだ。
だが、それは以前のような拷問ではなかった。ただの強化でもない。
まるで──大切な者に、分け与えるように。
黒訝の胸に、言いようのない苛立ちが募る。
その感情を抱えたまま、黒訝は朱炎との会話を思い出していた。
──「父上、意味が分かりません。なぜ、人間が自分の兄となるのですか?」
鋭く問いかけた黒訝に、朱炎は静かに答える。
「蓮次は、お前と同じ母親の血を引く者だ」
その瞬間、黒訝の全身に冷たいものが駆け巡った。
「母上は屋敷にいたはずです。それなのに、なぜ蓮次は人間のところに?」
朱炎は短く答えた。
「……見失ったのだ」
ありえない。意味が分からない。
朱炎が、父が、
己の子を「見失った」だと?
朱炎は話を続けた。
「お前の母は、人間の地で蓮次を育てたいと望んだ。だからこの鬼の屋敷ではなく、別の場所で過ごし、そこで産んだ。だが、蓮次が生まれた日に鬼の襲撃があった」
黒訝の胸に怒りがこみ上げる。
「なぜ! 見張りはつけなかったのですか! なぜ父上は母上を放置したのですか!」
叫ぶように問い詰める黒訝に、朱炎は静かに言った。
「……私のせいだ」
その言葉が、妙に重く響いた。
どうやら、烈炎や耀をはじめ、大勢の鬼たちが見張りとしてついていたらしい。だが、その日は人間も動いたのだという。鬼を殺す力を持つ、特殊な人間たちが。
鬼と人間の双方の襲撃による混乱の中で、蓮次は行方知れずとなった。そして気配すら追えなくなったのだと。
黒訝には理解できなかった。
朱炎に問い詰めても、それ以上の答えは得られなかった。
だが、どうしても聞かずにはいられないことがあった。
「最後に、ひとつだけ聞かせてください」
黒訝は低い声で問いかけた。
「なぜ、その後、母を鬼に変えなかったのですか」
朱炎は淡々と答えた。
「お前の母は、鬼として生きることを拒んだ」
その言葉が、黒訝の中で何かを裂くように響いた。
──もし、母上が鬼になっていたら。
自分は半鬼ではなく、完全な鬼として生まれることができたのに。
父を理解できない。母を許せない。
そして蓮次は……排除しなければならない。
黒訝の心の闇は、かつてないほどに深く、広く、濃くなっていった。
 ̄ ̄ ̄
黒訝は影に紛れ、蓮次の部屋の様子を窺っている。
先ほど朱炎は耀と短く言葉を交わし、その後、耀だけが部屋へ入っていった。
中で何が行われているのかは分からない。
やがて、耀が壺のようなものを抱えて蓮次の部屋から出てきた。
慎重に。
蓮次に関する何かだ。耀は朱炎の命令で動いている。
何かある。
その答えを得るため、黒訝は耀のあとを密かに追った。




