5.「父」の影
蓮次はいつもと変わらぬ足取りで、屋敷の見回りへと出た。
今宵の同行者は父ではなく、家臣の一人だった。
父は別の用向きで手が離せぬらしい。
見回りは蓮次に課された義務であり、誰と歩こうとも果たすべき役目に変わりはない。
二人は屋敷の外周を巡り、建物の隅々にまで鋭い視線を走らせる。
夜風は冷たく、肌を切るようだった。
その中で、唐突に胸の奥に激しい痛みが突き刺さった。
呼吸を呑むほどの衝撃に、蓮次は足を止め、壁に手をつく。
胸を貫いた苦痛はじわじわと全身へ広がり、芯から焼けるような感覚に変わっていく。
堪えようとするも、膝が震え、地に踏ん張る力さえ抜けていく。
前を歩く家臣は、蓮次の異変に気づかず進み続けていた。
蓮次は人目を避け、建物の陰へ身を寄せる。
奥歯を噛み締め、顔を歪めながら、ただ痛みが過ぎ去るのを待つしかなかった。
しばらくして、苦しみはようやく薄れて身体に感覚が戻ってくる。
蓮次は家臣に追いつき、何事もなかったような顔で歩を合わせた。
屋敷に戻る頃は、遠くの空に月が白く輝き、星の雫が流れたりする。
部屋へ辿り着くと、蓮次の体は糸の切れた人形のように畳の上へ崩れ落ちた。
うつ伏せになり、目を閉じる。
胸の奥には、痛みの残響が燻っていた。
息をするたびに、それはかすかな呻きとなって蘇る。
やがて、静かな足音が近づいてきた。
気配を感じる。
それは、父の歩みだった。
障子の向こうに立つ影は、灯りのない室内に曖昧な輪郭を浮かび上がらせている。
蓮次は顔を上げた。
しかし、父はただ黙って立ち尽くし、視線を落としているだけだった。
その無言の気配に、不思議と心が和らいだ。
もしかして、心配してくれたのだろうか——
期待が胸に湧きかけたその刹那、父はひと言も発さず背を向けて立ち去った。
静かに消える影を見送る。
今度はなぜか、蓮次の胸に嫌な予感が忍び込んだ。
再び、冷えた畳の感触に身を沈める。
胸の奥が軋んだ。
突き刺すような痛み。
焼け爛れるような苦しみ。
現実と夢の輪郭がぼやけていく。
この痛み——
あの悪夢の中で感じたものと、同じではなかろうか。
***
一方その頃。
家長は廊下を進みながら考え込む。
(蓮次。あの子はどこか異質だ……)
記憶の底にある、ある日の情景。
雨の降りしきる闇の中だった。
彼は、赤子を拾った。
白髪に、紫の瞳。
異様なまでに白い肌。
この世の理から逸脱した姿に、思わず足を止めたのだ。
「……奇妙な子だ」
低く呟いた声は、風に紛れて消えた。
拾うつもりなどなかった。ただ、目が離せなかった。
この子は何だ?
人か、あるいは——
けれど、そんな疑念を抱いている間にも、赤子の体は冷えていく。
このままでは死ぬ。そう思った瞬間、自らの内を省みることもなく、彼はその小さな命を抱き上げていた。
屋敷の離れへ運ばせ、世間から遠ざけて育てる。
隠すように、いつでも手放せるようにと。
養母をつけ、静かに育てさせた。
蓮次は何も知らない。
自分が拾われた子であることも、父にとって不要であれば捨てられる存在であることも。
蓮次はただ「父」の言葉を絶対と信じた。
見回りも、夕暮れからの稽古も、すべて父の意思と信じている。
父の思いを何も知らぬまま、蓮次は今も剣を握り続けている。