48.鬼の部屋、人の部屋
蓮次は耀の後をついていく。
屋敷の中は広すぎて、歩いても歩いても同じ景色が続くように思えた。襖の奥にどれほどの空間が隠れているのか、見当もつかない。
ただ、歩くたびに鬼たちの気配が途切れず張り詰めており、まるでこの屋敷そのものが巨大な鬼の体内のようだった。
耀は一度も振り返らなかった。蓮次もまた、言葉を発さず、ただ無言でついていく。
やがて、ある部屋の前で耀が足を止めた。
「こちらです」
短くそう言って、耀は襖に手をかける。
──途端に、蓮次の喉が強く締めつけられた。
開かれた襖の奥から、圧倒的な気配が流れ出てきたからだ。
陰気とは違う。妖や異形のようなものでもない。
形のない霊魂や念とも違う。
それは── 鬼そのものだった。
蓮次は目を見開いた。
這い出してくる。
目には見えない。けれど、部屋の奥に巣食う 何か が、ずるりと蠢きながら、引きずるようにして這い寄ってくるのが分かった。
心臓が潰れそうなほどに脈打つ。
逃げなければ!!
視界が揺れ、崩れるように廊下に尻餅をついた。
冷えた空気が肌を撫でる。胸の奥に張り付くような重みが増していく。
逃げようとするほど、まるで見えない腕に捕まえられたように。呼吸さえ奪われる。
「──っ……!」
声が出ない。
喉の奥が震えている。口を開こうとしても、言葉にならなかった。
これは、ここにいた者の遺した 気 だ。
恐ろしいほどの重圧。
誰かが、長い時間をかけてここで過ごし、何かを抱え、何かに耐え、何かに押し潰されそうになりながら、じっと…… 生きていた。
──これは……!
蓮次の心臓が悲鳴を上げる。
酷い孤独の闇。
生半可なものではない。
この部屋に満ちているのは “鬼”の孤独 だ。
鬼でなければ、この部屋で生きられない。
鬼でなければ、この部屋に耐えられない。
「嫌だ……っ」
小さく震える声が、唇から零れた。
蓮次は両手で自分の腕を掴む。体が、まともに動かない。冷たい恐怖が背筋を駆け上がり、喉の奥から吐き気がこみ上げる。
「嫌だ……嫌だ!!」
この部屋には、入ってはいけない。
ここに足を踏み入れたら 自分はもう戻れなくなる。
この恐ろしい気配は──
この凍てつく孤独は──
「嫌だ……やめろ……来るな……来るな!!」
「蓮次様!」
耀の手が、蓮次の肩に触れ、体がびくりと跳ねた。
「落ち着いてください、蓮次様」
耀の声が耳に届く。けれど、蓮次の震えは止まらなかった。喉が詰まり、息が上手く吸えない。
──違う、これは違うんだ。
これはただの恐怖じゃない。
本能的な拒絶。
ここに入ったら、もう…… 戻れなくなる。
「烈炎!烈炎! いるか!?烈炎!!」
耀が慌てて叫んだ。
次の瞬間、風のような気配が廊下を駆け抜けた。
「おう……なんだ?」
烈炎は蓮次を見て、すぐに状況を把握した。
しっかりしろ、と蓮次の肩を支えて声をかける。
蓮次は咄嗟に烈炎の腕を掴んでいた。
──どうしてこんなに怖い?
──どうしてこんなに、嫌だと思う?
分からない。
分からないけれど、ここだけは駄目だ。
この部屋に入ってしまったら、自分は滅びる。
「耀」
低く響く声。全てを断ち切ったその声は──
朱炎だ。
耀が何かを言おうとするよりも早く、朱炎が言葉を紡ぐ。
「紅葉の部屋へ連れて行け」
耀は一瞬息を呑んだが、すぐに「かしこまりました」と頭を下げた。
蓮次はまだ震えている。
「おい、蓮次!立てるか?」
「蓮次様…」
呼吸は荒く、乱れたままだ。
朱炎は目を細め、静かに周囲に目を向けた。
そして、朱炎がひとつの影に視点を定める。
「黒訝」
声には、怒気が滲んでいた。
「お前は私の部屋に来い」
闇の中に潜んでいた気配がゆっくりと揺れる。
その影はすっと移動し、そのまま消えた。
朱炎は一瞬だけ門の方を見やった後、何も言わずに背を向け、去って行った。
あまりにも恐ろしい、気色の悪い体験をした。
さっきのは一体何だ。
蓮次は烈炎に支えられながら、ゆっくりと歩いていた。
足取りはおぼつかない。それでも、先ほどの圧倒的な恐怖からは少しだけ解放され、ようやく周囲の景色が目に入るようになっていた。
屋敷の廊下は長く、静かだった。
風の通り抜ける音すらなく、ただ鬼たちの住まう場所特有の澄んだ冷たさが漂っている。
やがて、耀が立ち止まり、ある襖の前に手をかけた。
「こちらです」
そう言って襖を引くと、先ほどの部屋とはまるで異なる空気が蓮次を包んだ。
温かい──。
不意に蓮次の肩から力が抜けた。
烈炎の腕から自然と離れ、吸い寄せられるように中へ踏み入る。
耀と烈炎が驚いたような声で名を呼ぶのが聞こえてきたが、蓮次は彼らの反応を気にする余裕もなく、ただ部屋の空気に意識を向けた。
部屋の中に置かれた家具に、そっと触れてみる。
──やはり、温かい。
畳の上に敷かれた敷物、木の机、調度品のひとつひとつが、どれも柔らかく、穏やかだった。
先ほどの部屋とは全く異なる気配。
包み込むような温もり。
蓮次は、静かに息を吐く。
──思い出せそうだ。
そう思った瞬間、蓮次の心の奥に、何かがかすかに触れた。
何か、ある。
いや──居る?
蓮次は無意識に、部屋の奥を見つめた。
何があるのか分からない。けれど、確かに何かを感じる。
胸の奥がざわつく。
蓮次は、まるで導かれるように、奥の襖へと向かった。
無意識に歩を進め、気づけば襖に手をかけていた。
勢いよく襖を開け放つ。
すると、部屋の奥に畳まれた布団が目に飛び込んできた。
蓮次は思わず息をのんだ。
足が、勝手に動く。
──この布団は。
恐る恐る手を伸ばし、指先でそっと触れた。
「……温かい……」
気づけばその場に座り込み、布団を抱き寄せるようにして身を預けていた。
会ったことはない。
それでも、分かる。
ここには、きっと──母がいた。




