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  作者: Yonohitomi
一章
43/177

50.捩れた輪廻



 気配が揺らいでいる。


 朱炎は静かに目を閉じた。屋敷全体に意識を巡らせ、風の流れ、空気の淀み、鬼たちの気配を探る。


 強者の波動、弱者の鼓動。

 どれも馴染んだものばかりだ。

 しかし、一つだけ異質な気配がある。


 紅葉の部屋だ。そこにいるのは蓮次。


 ――泣いているのか。


 朱炎の眉がわずかに動いた。


 蓮次は紅葉と会ったこともなく、母の顔さえ知らずに育った。それなのに、紅葉の部屋に入り、その気配を敏感に感じ取り、涙を流している。


 紅葉のことを「母」と認識しているのだろう。

 蓮次の魂は紅葉を知っている。

 間違いない。魂そのものは、蓮次なのだ。


 朱炎の脳裏に、かつての光景が浮かび上がる。



***



 ――蓮次を失ってからというもの、朱炎は時折、あの場所へ足を運んでいた。


 蓮次の最期の地。血に濡れた磔木。 

 静まり返った空間に、蓮次の気配は確かに残っていた。

 その場に立つたび、朱炎は思った。蓮次の魂は、まだここに眠っているのだと。


 だが、ある日。

 唐突にその気配が消えた。


 朱炎は目を細め、磔台の端へ視線を向ける。

 そこに、小さく萎れた花があった。

 数日前に置かれたものと分かった。


 誰かが蓮次のために花を供えたのか?


 疑問が浮かぶと同時に、朱炎の中に奇妙な胸騒ぎが生まれた。


 そして再び、朱炎は訪れる。

 その日は雨が降っていた。


 風が湿り気を帯び、重い空気が漂う中、人間の気配があったのだ。

 それは、長らく遠ざかっていたが、決して忘れたことのない気配だった。


 朱炎はゆっくりと足を進める。

 視界の先、木の下で雨宿りをする女がいた。


 朱炎の足が止まる。

 一瞬、時が止まったように思えた。


 紅葉。


 そう思った。しかし、違う。

目の前にいるのは、紅葉ではない。けれど、その姿は過去の紅葉と瓜二つだった。


 朱炎は言葉を失った。


 彼女は朱炎を見るなり、表情を強張らせた。鬼だと悟ったのだろう。


 刹那、女は怯えて腰を抜かし、涙を浮かべて懇願した。


「せめて、お腹の子だけでも……お助けください……」


 震える声だった。


 朱炎の目がわずかに細まる。

 女の腹はわずかに膨らんでいた。

 朱炎はただ、じっと彼女を見つめていた。


 雨の中、木の下で怯える彼女は、鬼に喰われると思っているのだろう。


 朱炎はゆっくりと膝を折り、目線の高さを彼女に合わせた。


「お前を襲うつもりはない」


 驚いたように女の肩が揺れる。


「答えてほしい。ここで何をしている?」


 静かに問いかけると、女はしばらく迷うように視線を揺らし、やがてぽつりと呟いた。


「……家を追い出されました」


「追い出された?」


 話を聞けば、身に覚えのないまま身ごもり、不浄の者と罵られ家を追われたのだという。


 衝撃が走った。

 己の思考が先走るのを押し殺しながら、朱炎はさらに問いを重ねる。


「あの場所に花を添えたのはお前か?」


 女は少し目を丸くし、そして小さく頷いた。


「……はい。偶然通りかかったのです。あの場所は、とても悲しい空気が漂っていました。だから、花を……」


 朱炎は彼女の言葉を聞きながら、全てを繋ぎ合わせていった。


 蓮次の魂の気配が、ある日を境に忽然と消えたこと。

 この女の顔が、かつての紅葉と瓜二つであること。

 そして、身に覚えがないのに宿ったという子。


 朱炎の胸に、ひとつの可能性が形を成した。


 ――蓮次の魂が、宿ったのではないか。この女の胎内の子に。


 朱炎は静かに口を開く。


「名を聞いてもいいか?」


 女はしばらくためらい、そして答えた。


「……美幸、です」


 その名を聞いた瞬間、朱炎の心が揺らいだ。


 美幸――忘れるはずがない。

 かつての紅葉がまだ人間だった頃に名乗っていた名だ。


 朱炎の視線が鋭くなる。


「行く当てはないのだろう?」


 美幸は黙ったままだ。

 朱炎はゆっくりと続ける。


「私の屋敷に来ないか?」


 美幸の肩が微かに震えた。


「……私が、鬼の屋敷に……?」


「人の世界で生きにくいならば、鬼になればいい」


 朱炎の言葉に美幸の表情が曇る。


「……」


「人を捨て、新しい人生を歩めばいい」


 その瞬間、美幸ははっきりとした声で言った。


「鬼にはなりません」


 まるで、ずっと前から決めていたように。

 朱炎は驚かなかった。予想していた答えだった。


 だが、彼女がどう答えようと朱炎には関係なかった。


「屋敷に来い。人のままで構わない」


「……」


「ここよりは安全なはずだ。鬼の屋敷だが、身の安全は保証しよう」


 美幸はただ、朱炎を見つめていた。

 朱炎は淡々と言葉を紡ぐ。


「衣食住すべて整え、守り役もつける」


「……」


「お腹の子が安全に生まれるように、すべて手配する」


 その言葉に、美幸の表情が僅かに揺れた。

 だが、朱炎は最後に一つだけ条件を出した。


「ただし……お前の名前は美幸ではなく、紅葉と呼ばせてほしい」


 美幸の瞳がわずかに見開かれた。戸惑いと、微かな迷いがその奥に滲んでいた。

 

 沈黙が流れる。

 美幸はゆっくりと目を閉じ、静かに頷いた。


「……分かりました」


 こうして女は、朱炎の屋敷に身を寄せることを受け入れた。



***



 朱炎はゆっくりと目を開ける。

 視線を向けると、中庭が広がっている。静かにしとしとと雨が降っていた。


 細かな水の粒が石畳を濡らし、葉の上に落ちた雨粒が丸みを帯び、重みに耐えかねたようにぽたりと落ちる。


 蓮次の気配は揺れたままだ。

 もう叶わぬことだが紅葉と会わせてやりたいとも思う。

 生きている間にたった一度でも、母と子として共に過ごす時間があったなら、何か違う未来があったのだろうか。


 生きて欲しい、強く。長く。

 だが、あまりにも弱い。

 今の蓮次は精神的にも、肉体的にも弱すぎる。


 もしこのままであれば、生きていく事自体が難しい。

 紅葉の願いを知っていながら、結局鬼に変えてしまった。


 ならば――鬼にした以上、必ず強く育てる。

 鬼として強く、長く生きられるように鍛え上げる。

 それが朱炎の、蓮次と紅葉への贖罪。


 蓮次が人として生きられなかったのなら、せめて鬼として生きられるように。

 それが、せめてもの救いとなるように。


 そして、あわよくば――

 と、朱炎は密かに期待している。


 力ある者として、その力を示し、「最強の鬼」として蘇ることを。



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