50.捩れた輪廻
気配が揺らいでいる。
朱炎は静かに目を閉じた。屋敷全体に意識を巡らせ、風の流れ、空気の淀み、鬼たちの気配を探る。
強者の波動、弱者の鼓動。
どれも馴染んだものばかりだ。
しかし、一つだけ異質な気配がある。
紅葉の部屋だ。そこにいるのは蓮次。
――泣いているのか。
朱炎の眉がわずかに動いた。
蓮次は紅葉と会ったこともなく、母の顔さえ知らずに育った。それなのに、紅葉の部屋に入り、その気配を敏感に感じ取り、涙を流している。
紅葉のことを「母」と認識しているのだろう。
蓮次の魂は紅葉を知っている。
間違いない。魂そのものは、蓮次なのだ。
朱炎の脳裏に、かつての光景が浮かび上がる。
***
――蓮次を失ってからというもの、朱炎は時折、あの場所へ足を運んでいた。
蓮次の最期の地。血に濡れた磔木。
静まり返った空間に、蓮次の気配は確かに残っていた。
その場に立つたび、朱炎は思った。蓮次の魂は、まだここに眠っているのだと。
だが、ある日。
唐突にその気配が消えた。
朱炎は目を細め、磔台の端へ視線を向ける。
そこに、小さく萎れた花があった。
数日前に置かれたものと分かった。
誰かが蓮次のために花を供えたのか?
疑問が浮かぶと同時に、朱炎の中に奇妙な胸騒ぎが生まれた。
そして再び、朱炎は訪れる。
その日は雨が降っていた。
風が湿り気を帯び、重い空気が漂う中、人間の気配があったのだ。
それは、長らく遠ざかっていたが、決して忘れたことのない気配だった。
朱炎はゆっくりと足を進める。
視界の先、木の下で雨宿りをする女がいた。
朱炎の足が止まる。
一瞬、時が止まったように思えた。
紅葉。
そう思った。しかし、違う。
目の前にいるのは、紅葉ではない。けれど、その姿は過去の紅葉と瓜二つだった。
朱炎は言葉を失った。
彼女は朱炎を見るなり、表情を強張らせた。鬼だと悟ったのだろう。
刹那、女は怯えて腰を抜かし、涙を浮かべて懇願した。
「せめて、お腹の子だけでも……お助けください……」
震える声だった。
朱炎の目がわずかに細まる。
女の腹はわずかに膨らんでいた。
朱炎はただ、じっと彼女を見つめていた。
雨の中、木の下で怯える彼女は、鬼に喰われると思っているのだろう。
朱炎はゆっくりと膝を折り、目線の高さを彼女に合わせた。
「お前を襲うつもりはない」
驚いたように女の肩が揺れる。
「答えてほしい。ここで何をしている?」
静かに問いかけると、女はしばらく迷うように視線を揺らし、やがてぽつりと呟いた。
「……家を追い出されました」
「追い出された?」
話を聞けば、身に覚えのないまま身ごもり、不浄の者と罵られ家を追われたのだという。
衝撃が走った。
己の思考が先走るのを押し殺しながら、朱炎はさらに問いを重ねる。
「あの場所に花を添えたのはお前か?」
女は少し目を丸くし、そして小さく頷いた。
「……はい。偶然通りかかったのです。あの場所は、とても悲しい空気が漂っていました。だから、花を……」
朱炎は彼女の言葉を聞きながら、全てを繋ぎ合わせていった。
蓮次の魂の気配が、ある日を境に忽然と消えたこと。
この女の顔が、かつての紅葉と瓜二つであること。
そして、身に覚えがないのに宿ったという子。
朱炎の胸に、ひとつの可能性が形を成した。
――蓮次の魂が、宿ったのではないか。この女の胎内の子に。
朱炎は静かに口を開く。
「名を聞いてもいいか?」
女はしばらくためらい、そして答えた。
「……美幸、です」
その名を聞いた瞬間、朱炎の心が揺らいだ。
美幸――忘れるはずがない。
かつての紅葉がまだ人間だった頃に名乗っていた名だ。
朱炎の視線が鋭くなる。
「行く当てはないのだろう?」
美幸は黙ったままだ。
朱炎はゆっくりと続ける。
「私の屋敷に来ないか?」
美幸の肩が微かに震えた。
「……私が、鬼の屋敷に……?」
「人の世界で生きにくいならば、鬼になればいい」
朱炎の言葉に美幸の表情が曇る。
「……」
「人を捨て、新しい人生を歩めばいい」
その瞬間、美幸ははっきりとした声で言った。
「鬼にはなりません」
まるで、ずっと前から決めていたように。
朱炎は驚かなかった。予想していた答えだった。
だが、彼女がどう答えようと朱炎には関係なかった。
「屋敷に来い。人のままで構わない」
「……」
「ここよりは安全なはずだ。鬼の屋敷だが、身の安全は保証しよう」
美幸はただ、朱炎を見つめていた。
朱炎は淡々と言葉を紡ぐ。
「衣食住すべて整え、守り役もつける」
「……」
「お腹の子が安全に生まれるように、すべて手配する」
その言葉に、美幸の表情が僅かに揺れた。
だが、朱炎は最後に一つだけ条件を出した。
「ただし……お前の名前は美幸ではなく、紅葉と呼ばせてほしい」
美幸の瞳がわずかに見開かれた。戸惑いと、微かな迷いがその奥に滲んでいた。
沈黙が流れる。
美幸はゆっくりと目を閉じ、静かに頷いた。
「……分かりました」
こうして女は、朱炎の屋敷に身を寄せることを受け入れた。
***
朱炎はゆっくりと目を開ける。
視線を向けると、中庭が広がっている。静かにしとしとと雨が降っていた。
細かな水の粒が石畳を濡らし、葉の上に落ちた雨粒が丸みを帯び、重みに耐えかねたようにぽたりと落ちる。
蓮次の気配は揺れたままだ。
もう叶わぬことだが紅葉と会わせてやりたいとも思う。
生きている間にたった一度でも、母と子として共に過ごす時間があったなら、何か違う未来があったのだろうか。
生きて欲しい、強く。長く。
だが、あまりにも弱い。
今の蓮次は精神的にも、肉体的にも弱すぎる。
もしこのままであれば、生きていく事自体が難しい。
紅葉の願いを知っていながら、結局鬼に変えてしまった。
ならば――鬼にした以上、必ず強く育てる。
鬼として強く、長く生きられるように鍛え上げる。
それが朱炎の、蓮次と紅葉への贖罪。
蓮次が人として生きられなかったのなら、せめて鬼として生きられるように。
それが、せめてもの救いとなるように。
そして、あわよくば――
と、朱炎は密かに期待している。
力ある者として、その力を示し、「最強の鬼」として蘇ることを。




