46.東雲、帰山
山の麓に立ち、蓮次は見上げた。
深い闇が森を覆っているが、東の空がほんのわずかに青みを帯びはじめ、闇と光の境界が曖昧になっている。
木々は黒い影のように立ち並んでいる。
冷たい風が吹き抜けると、枝が不吉な音を立てて揺れた。
重々しく、踏み入る者を選ぶ場所だ。
ここは朱炎一族の住む山。
戻ってきてしまった。
心の中で呟いた言葉が、体の奥底に沈んでいく。
人の世界では異質すぎて馴染めず、鬼にはなりたくないと抗いながら、結局、鬼の領域に踏み込んでいる。
人間ではいられない。かといって、鬼として生きることも拒んできた。
けれど――
「俺は……」
何者なのか。どこへ向かえばよかったのか。
「蓮次、ここに来て揺らぐな」
隣から、圧を含む低い声がした。
蓮次は朱炎を見上げたが、朱炎はまっすぐ前を向いている。
闇の王のような威圧感。旅をしていた時よりもさらに強く感じ、身震いした。
そんな蓮次を他所に、朱炎は山に足を踏み入れる。
蓮次は一瞬躊躇うも、覚悟を決めて朱炎の背中を追った。
一歩踏み入れた瞬間、空気が変わった。
静寂が広がり、草木が揺れる音すら、まるで息を潜めるかのように消えていく。
同時に今まで見えていなかった鬼達の姿が浮かび上がる。
見張りの鬼達だ。角の生えた者、肌の色が緑や青の者もいて異形に近い鬼がいる一方、角がなく人間と変わらない姿で身なりのいい防具をつけている鬼がいる。
鬼たちは即座に朱炎に気づき、跪く。
「朱炎様、我らが長!」
その声は山の奥へと伝播し、次々と鬼火が灯される。
朱炎は悠然と歩みを進めた。
不揃いな鬼達とは異なり、奥に威圧感を放つ鬼がいる。
蓮次がここへ連れて来られた時に、見張りとして居た鬼。赤髪の派手な男。
その鬼は、朱炎が目の前に来ると片膝をついて深く頭を下げた。
「お変わりなく、ってか。何よりだ」
「烈炎、異常はなかったか」
「異常なし、いつも通りっすよ」
朱炎と烈炎の間に交わされた短いやりとりを、蓮次はじっと聞いていた。
烈炎はわずかに口角を上げ、ふっと息をつく。
その動作ひとつとっても、どこか余裕があり、周囲の鬼たちとはまるで違う空気を纏っていた。
朱炎に気安く口を利く姿勢にも、揺るぎない自信と強さが滲む。
「では、先に」
そう言い、烈炎はここから立ち去ろうとしたが、蓮次の視線に気づいたのか、彼はふと足を止める。
軽く顔を傾け、興味深げに蓮次を見つめた。
蓮次は、咄嗟に目線を外した。
すると、烈炎が低く笑った。
「……目の色、揃ったじゃねぇか」
気安い言葉とは裏腹に、その眼差しには何かを測るような重みがあった。肩を軽く叩かれると、蓮次は思わず息を呑む。
「これで一人前だな」
そう続けた烈炎の声は、どこか確信を持つ声色だった。
蓮次が烈炎の言葉の意味を測りかねていると、朱炎の視線が刺さり、思わず身を縮こませた。
烈炎はそれ以上は何も言わず、短く「じゃあな」とだけ残して、風のように去っていった。
さらに進むと、焚火の周りで酒を酌み交わしていた鬼たちが、鬼火の合図に気づいてどよめいた。
「長が帰ってきたぞ!」
歓喜と咆哮が入り混じる。酒を地に撒き、地面を拳で叩く者、己の力を誇示するように取っ組み合いを始める者。敬意の示し方は様々だ。
ここの鬼はほぼ全員が歪な形をしていた。衣服も布切れを巻いただけの者もいる。見るからに低級な鬼だった。
しかし、朱炎が通るとき、彼らは本能的に口をつぐみ、自ら道を開ける。
酔っていた鬼すらも、朱炎の醸し出す威厳に震え、背筋を正した。
朱炎の後ろを歩く蓮次を、じろじろと見ている者がいる。様子を窺うような目をしている者もいれば、驚いた表情でみている者まで。
蓮次は先ほど感じた違和感を、ここでもひしひしと感じていた。
騒がしい場所を抜け、少し開けた道に出た。道を進むと雅な気配が漂う建物がいくつか。
宿の外にいる者たちは朱炎を見て静かに跪き、「お帰りなさいませ」と控えめに挨拶をした。
この一帯は、鬼と人間の匂いが混じった場所。
蓮次はすぐに理解した。この建物は人間を誘い込む仕掛けだ。
建物の裏側からは人間の血の匂いがする。人を誘い込み、食料として捕えているのだろう。
途中、人間を案内するように歩く鬼がいた。
朱炎のほうを見て頭を下げた後、人間に向き直り、小声で「山の主がお通りです。騒がぬように」と囁いていた。
山を進むごとに、空気が変わる。
ここには武具を身につけ、威厳を漂わせる鬼達がいた。一糸乱れぬ動きで膝をつき、刀や槍を地に突き立てる。
「朱炎様、ようこそお帰りくださいました」
その声は力強く、凛と響いた。
朱炎はただ一瞥し、そのまま歩を進める。蓮次は無言のまま、それについていく。
この戦士のような鬼達は、強いのだろうとすぐに分かった。
蓮次をじろじろと見る事もなく、通り過ぎるまで膝をついたままだった。
またしばらく歩くと、空気が変わる。
ここは今までとは違い、柔らかな空気が漂っていた。
姫君のような衣を身につけた者や、それに付き従う者と子供たち——。
その周りには、彼女たちを守るための体格の良い男鬼が複数いた。
「朱炎様だ!」
駆け寄ろうとする子供たち。女鬼が静かに制する。姫たちは着物の裾を揃え、深々と頭を下げた。
「お帰りなさいませ、朱炎様」
その声音は、どこか緊張を孕んでいた。
蓮次は歩きながら、ふと今までにない視線を感じた。
幼い鬼たちが走り回る中、手を震えさせながらこちらをじっと見ている者がいる。
それは、年老いた女鬼だった。彼女は蓮次を見つめ、涙を零した。
「……よくぞ、よくぞご無事で……」
蓮次は息を飲む。彼女の瞳には、悲しみと崇敬と、言い表せぬ想いが滲んでいた。
その姿に、周囲の鬼たちも次々と蓮次の姿を見て、驚き、息を詰まらせていた。
ある者は、地に伏して拝むような姿勢をとった。
「……蓮次様……」
低く、震えるような声が聞こえる。
蓮次は理解できなかった。
なぜ、彼らは自分を見て泣くのか。崇めるように頭を垂れる者達を見て蓮次は戸惑う。
そんな蓮次を冷ややかな視線で刺す朱炎。
狼狽えるな。
赤い目から飛ばされる無言の圧に、蓮次は息を呑んだ。
そのまま、二人は何事もなかったかのように歩を進めた。
屋敷の門が近づくにつれ、空気はより厳かで、張り詰めたものに変わった。
やがてまた鬼たちが控える見張りの区域に辿り着く。
この辺りを見張る鬼達は武器を持っていない。だが、質の良さそうな防具を付けている。
どこか品格のある鬼たち。この者達も静かに膝をつき、手を胸に当て、深く頭を垂れた。
「お帰りなさいませ、我らが長」
静かに山に響く。
そして、ついに屋敷へと辿り着いた。
門が開く。
「お帰りなさいませ、朱炎様」
厳かに響く声とともに、鬼たちが一斉に膝をつき、頭を垂れた。
ここにいる者たちはみな、人と変わらぬ姿を持ち、見目も整っていた。角もなく、鍛え上げられた肢体に、戦士としての無駄のない所作が宿っている。
朱炎は、その者達による迎えを当然のように受けながら歩を進める。
跪く鬼たちの奥には、二人の鬼が立っていた。
ひとりは、燃えるような赤髪の男、烈炎。
もうひとりは、深い青色の髪を持つ、整った顔立ちの鬼。
朱炎が二人の前に立つと、彼らは深く頭を下げた。
「変わらぬご威光、何よりにございます」
落ち着いた声が溶けるように響いた。
朱炎は短く「うむ」と返し、異常はないかと話を続けていた。
朱炎が青色の髪の鬼の名を呼んだ時、張り詰めていた空気が少しばかり和らいだ。
「全て滞りなく、静穏にございます」
丁寧に話すその鬼は、耀だ。
蓮次がこの屋敷に連れてこられて鬼に変えられる拷問を受けた時、毎度支え、助言をくれた鬼。
朱炎と同じ気配を纏っている。不思議な鬼だった。
耀と烈炎。そして、朱炎。
三人を見つめる蓮次の中に、得体のしれない感覚がこみ上げる。
(これは……懐かしい……と、言うのか?それとも……)
耀は、静かに言葉を選びながら朱炎に応じていた。
烈炎はどこか気安いが、その振る舞いが許されている。彼の力と立場を物語っていた。
蓮次は、ただ彼らを見つめていた。
ふと、視界の端で何かが揺らぐのが見えた。遠くの影が、ふわりと揺れたような気がした。
だが、次の瞬間には何もなく、ただ空気が静かに漂うばかりだった。
気のせいか。
そう思いながら、改めて辺りを見回す。
本当に、戻ってきてしまった。
それは「帰ってきた」という安堵ではなく、「逃れられなかった」という諦めに似た感情だった。
「鬼にならない」とあれほど叫んでいたのに。
今の自分は、ほぼ鬼だ。それを否定する術は、もうどこにもない。
「俺は、もう……」
喉に絡みつく言葉は、どこにも行き場がなかった。
ここは、かつての自分にとって「逃げ場のない監獄」だった。
そして今、それは「受け入れるべき場所」へと変わった。
「蓮次様」
静かな声が、耳に届く。振り返ると、そこには耀がいた。
蓮次を見つめる瞳は穏やかだ。
「蓮次様、お部屋へご案内いたします」
蓮次は、耀のあとに付いて歩き出した。
先ほど揺れた影が跡をつけているのも知らずに。




