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  作者: Yonohitomi
一章
34/165

37.薄れる赤、光る赤


明け方の冷たい空気が湿った土と血の匂いを運び、木々の間から射し込む微かな光が、泥と血にまみれた蓮次の姿を浮き上がらせる。


身体は痛みで軋み、指先は震えている。疲労が極限に達していた。



「もう……いやだ……」



かすれた声が漏れ、頬を濡らす涙は止まらない。


その時、静かな空間に生まれた違和感。風の流れさえ乱さぬ音もない気配。


蓮次が顔を上げる。



朱炎だ。


一瞬、心のどこかで――(やっと来た……)という安堵が生まれた。


――どうして? あれほど逃げたかったのに?


蓮次は混乱しながら、目の前に立つ朱炎の姿を凝視した。



朱炎の表情には一片の感情もない。赤い瞳は冷ややかに蓮次を見下ろしていた。



「情けない」



ただ一言、朱炎が吐き捨てた。

同時に、蓮次の中にささやかな光のように生まれた安堵は、無情にも砕け散っていた。


温かさも、憐れみも、そこにはない。


思わず涙は止まった。

胸の奥で、何かが音を立てて崩れ落ちたのが分かる。


朱炎は無言で歩き出し、振り返る事はなかった。

重々しい威圧感を纏った背中が、段々と離れていく。



「まって!」



思わず声が出た。咄嗟のことだった――体が勝手に。

そう、また彼の中で何かが疼いた。

どこかで知っている感覚。けれど、それが何なのか、蓮次にはわからない。

ただ、追いかけなければ、と思った。

しかし、すぐに足がもつれ、地面に倒れ込む。



「痛い……もうむりだ……うごけない……」



かすれた声で、泣きそうな顔を朱炎に向けた。

けれど、答えは残酷だった。



「お前が力を受け入れないからだ」



朱炎の言葉が突き刺さる。

蓮次は顔を歪めた。


――鬼の力を受け入れろ、と朱炎は言う。


けれど、蓮次はそれを拒んできた。

鬼になりたくない。鬼の力を、自分の中に招き入れたくない。



「……鬼になんて、ならない……」



震える声が吐き出される。朱炎はそれを聞いて、再び歩き出した。

足音が遠ざかるたびに、蓮次の心は冷たい虚無に包まれていく。


逃げ出したいと思っていた。

ずっと朱炎から。鬼の運命から。

けれど、今、彼に捨てられることが耐えられない。

彼を否定する気持ちと、彼を求めてしまう気持ち。二つの感情が絡まり合う。


朱炎は蓮次の心境の変化に気づいているのかようだった。



「お前が拒んだのだ。力が欲しいのならば、言えばいい」



蓮次は何も答えられなかった。


『力をください』


そんな言葉を、言えるわけがない。

むしろ、朱炎が無理矢理にでも与えてくるものだと、そう思っていたのに――。



遠ざかるその足音が、胸の奥で冷たい杭となり、蓮次を余計に動けなくさせる。


追わなければ――



「まって……まって!」


――行かないで。見捨てないで、と。

また、自分ではない誰かの叫びが、胸の奥から蘇ってくる。

この感情に、同化しそう。



「せめて……すこしだけ……すこし……やすませて……」



地面に伏せたまま、吐息のような声を漏らした。

蓮次の肩や腕には、異形に刻まれた爪痕が深々と残っている。



(痛くて…動けない)



もし鬼としての力を受け入れていれば、これほどの痛みに苦しむこともなかったのだろうか?


だが、鬼にはなりたくない――。

鬼は残酷で恐ろしい生き物。


鬼の力を受け入れれば人の心が朽ち果てそうだ。



「……鬼には……ならない……でも……」



微かな声が空気に消えた。

霞む視界の向こう、朱炎の背中は遠ざかっている。

体が震え始め、蓮次はついに限界を迎えた。痛みも疲労も、自らを飲み込む闇の中へ。





森を進む足音がぴたりと止む。冷酷な赤い瞳が静かに振り返り、倒れている蓮次の様子を窺っている。



「…限界か」



朱炎はしばらく動かなかったが、やがて静かに蓮次のもとへ歩み寄り、蓮次の体を抱え上げた。




____





日が傾き、空が茜色に染まるころ、蓮次は目を覚ました。


長い眠りの中で、夢とも現実ともつかないぼんやりとした時間を過ごした。


やはり、朱炎の姿はない。


身を起こそうとすると、体中にまだ鈍い痛みが残っているが、大きな傷は塞がっている。


蓮次は洞窟の奥に一人、じっと座り込んで考えていた。

気を失ったあと、またあの温かさを感じた。

おそらく、朱炎がここに運んでくれたのだと分かる。


そして、曖昧な意識の中で鬼の力を送り込まれたような気がした。しかし、いつものような苦しさは無かったが…。


どういう事だ。

朱炎は、いざという時は助けてくれるのだろうか…?



「……ちがう……そうじゃない」



蓮次は首を振り、そんな考えを無理やり振り払った。

朱炎は鬼だ。自分を支配し、操ろうとする存在。


それでも、抱きしめられた時の感覚がどこか優しかったことを否定できない。



「ちがう、あれは鬼だ…!」



あえて声に出して自分に言い聞かせた。

独り言は虚しく反響し、孤独感が彼の心と体を蝕んでいく。


やがて太陽がゆっくりと沈み始め、洞窟の外が薄暗くなってきたころ、蓮次は再び動き出した。


遠くから、微かに水の流れる音が聞こえる。

近くに川があるようだ。蓮次はその音に耳を傾け、無意識にそちらの方向へと足を向けた。


少しでも外の空気を吸って気を紛らわせようと。


子供の体だからか、どこか気が緩んでしまう瞬間がある。

川のせせらぎが近づくにつれて、重苦しい心が軽くなるのを感じた。


川面に夕焼けが映り込み、きらきらと輝いていた。


蓮次はしばらくその光景に見とれた後、川の縁に座り

水に足を付けてみた。

鈍い痛みを感じながらも、冷たい水の感触は心地よかった。ほんの少しだけ、痛みが遠ざかったような気がする。



夕焼けの赤がだんだんと薄れ、空が青から群青へと変わっていく。水面の輝きが次第に暗がりに消え、川音だけが静かに響いていた。




夜が近づいてくる中、また、朱炎を思い出している。闇の中に光る赤い目は、恐怖でしかなかった。なのに。



(……どうして、こんな気持ちになるんだろう?)



心の中で問いかけても、答えは出ない。

ただ、蓮次はそのまま川辺に座り続け、日が完全に沈むまでじっとしていた。


体力を残し、無事に生き延びるために。


ふと、どこからともなく視線のようなものを感じた気がした。


闇の中に潜む影に、心のどこかで期待している。

――それは朱炎なのかもしれない、と。




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