37.薄れる赤、光る赤
明け方の冷たい空気が湿った土と血の匂いを運び、木々の間から射し込む微かな光が、泥と血にまみれた蓮次の姿を浮き上がらせる。
身体は痛みで軋み、指先は震えている。疲労が極限に達していた。
「もう……いやだ……」
かすれた声が漏れ、頬を濡らす涙は止まらない。
その時、静かな空間に生まれた違和感。風の流れさえ乱さぬ音もない気配。
蓮次が顔を上げる。
朱炎だ。
一瞬、心のどこかで――(やっと来た……)という安堵が生まれた。
――どうして? あれほど逃げたかったのに?
蓮次は混乱しながら、目の前に立つ朱炎の姿を凝視した。
朱炎の表情には一片の感情もない。赤い瞳は冷ややかに蓮次を見下ろしていた。
「情けない」
ただ一言、朱炎が吐き捨てた。
同時に、蓮次の中にささやかな光のように生まれた安堵は、無情にも砕け散っていた。
温かさも、憐れみも、そこにはない。
思わず涙は止まった。
胸の奥で、何かが音を立てて崩れ落ちたのが分かる。
朱炎は無言で歩き出し、振り返る事はなかった。
重々しい威圧感を纏った背中が、段々と離れていく。
「まって!」
思わず声が出た。咄嗟のことだった――体が勝手に。
そう、また彼の中で何かが疼いた。
どこかで知っている感覚。けれど、それが何なのか、蓮次にはわからない。
ただ、追いかけなければ、と思った。
しかし、すぐに足がもつれ、地面に倒れ込む。
「痛い……もうむりだ……うごけない……」
かすれた声で、泣きそうな顔を朱炎に向けた。
けれど、答えは残酷だった。
「お前が力を受け入れないからだ」
朱炎の言葉が突き刺さる。
蓮次は顔を歪めた。
――鬼の力を受け入れろ、と朱炎は言う。
けれど、蓮次はそれを拒んできた。
鬼になりたくない。鬼の力を、自分の中に招き入れたくない。
「……鬼になんて、ならない……」
震える声が吐き出される。朱炎はそれを聞いて、再び歩き出した。
足音が遠ざかるたびに、蓮次の心は冷たい虚無に包まれていく。
逃げ出したいと思っていた。
ずっと朱炎から。鬼の運命から。
けれど、今、彼に捨てられることが耐えられない。
彼を否定する気持ちと、彼を求めてしまう気持ち。二つの感情が絡まり合う。
朱炎は蓮次の心境の変化に気づいているのかようだった。
「お前が拒んだのだ。力が欲しいのならば、言えばいい」
蓮次は何も答えられなかった。
『力をください』
そんな言葉を、言えるわけがない。
むしろ、朱炎が無理矢理にでも与えてくるものだと、そう思っていたのに――。
遠ざかるその足音が、胸の奥で冷たい杭となり、蓮次を余計に動けなくさせる。
追わなければ――
「まって……まって!」
――行かないで。見捨てないで、と。
また、自分ではない誰かの叫びが、胸の奥から蘇ってくる。
この感情に、同化しそう。
「せめて……すこしだけ……すこし……やすませて……」
地面に伏せたまま、吐息のような声を漏らした。
蓮次の肩や腕には、異形に刻まれた爪痕が深々と残っている。
(痛くて…動けない)
もし鬼としての力を受け入れていれば、これほどの痛みに苦しむこともなかったのだろうか?
だが、鬼にはなりたくない――。
鬼は残酷で恐ろしい生き物。
鬼の力を受け入れれば人の心が朽ち果てそうだ。
「……鬼には……ならない……でも……」
微かな声が空気に消えた。
霞む視界の向こう、朱炎の背中は遠ざかっている。
体が震え始め、蓮次はついに限界を迎えた。痛みも疲労も、自らを飲み込む闇の中へ。
森を進む足音がぴたりと止む。冷酷な赤い瞳が静かに振り返り、倒れている蓮次の様子を窺っている。
「…限界か」
朱炎はしばらく動かなかったが、やがて静かに蓮次のもとへ歩み寄り、蓮次の体を抱え上げた。
____
日が傾き、空が茜色に染まるころ、蓮次は目を覚ました。
長い眠りの中で、夢とも現実ともつかないぼんやりとした時間を過ごした。
やはり、朱炎の姿はない。
身を起こそうとすると、体中にまだ鈍い痛みが残っているが、大きな傷は塞がっている。
蓮次は洞窟の奥に一人、じっと座り込んで考えていた。
気を失ったあと、またあの温かさを感じた。
おそらく、朱炎がここに運んでくれたのだと分かる。
そして、曖昧な意識の中で鬼の力を送り込まれたような気がした。しかし、いつものような苦しさは無かったが…。
どういう事だ。
朱炎は、いざという時は助けてくれるのだろうか…?
「……ちがう……そうじゃない」
蓮次は首を振り、そんな考えを無理やり振り払った。
朱炎は鬼だ。自分を支配し、操ろうとする存在。
それでも、抱きしめられた時の感覚がどこか優しかったことを否定できない。
「ちがう、あれは鬼だ…!」
あえて声に出して自分に言い聞かせた。
独り言は虚しく反響し、孤独感が彼の心と体を蝕んでいく。
やがて太陽がゆっくりと沈み始め、洞窟の外が薄暗くなってきたころ、蓮次は再び動き出した。
遠くから、微かに水の流れる音が聞こえる。
近くに川があるようだ。蓮次はその音に耳を傾け、無意識にそちらの方向へと足を向けた。
少しでも外の空気を吸って気を紛らわせようと。
子供の体だからか、どこか気が緩んでしまう瞬間がある。
川のせせらぎが近づくにつれて、重苦しい心が軽くなるのを感じた。
川面に夕焼けが映り込み、きらきらと輝いていた。
蓮次はしばらくその光景に見とれた後、川の縁に座り
水に足を付けてみた。
鈍い痛みを感じながらも、冷たい水の感触は心地よかった。ほんの少しだけ、痛みが遠ざかったような気がする。
夕焼けの赤がだんだんと薄れ、空が青から群青へと変わっていく。水面の輝きが次第に暗がりに消え、川音だけが静かに響いていた。
夜が近づいてくる中、また、朱炎を思い出している。闇の中に光る赤い目は、恐怖でしかなかった。なのに。
(……どうして、こんな気持ちになるんだろう?)
心の中で問いかけても、答えは出ない。
ただ、蓮次はそのまま川辺に座り続け、日が完全に沈むまでじっとしていた。
体力を残し、無事に生き延びるために。
ふと、どこからともなく視線のようなものを感じた気がした。
闇の中に潜む影に、心のどこかで期待している。
――それは朱炎なのかもしれない、と。




