36.逃亡と涙
夜の闇が一層深く冷たくなるころ、蓮次の荒い息遣いが森に響いていた。足元の土が跳ね上がり、枯れ枝を踏みつける音が鈍く響く。
(くそっ……なんでこんなことに!)
心臓が破れそうなほど打ち、全身の筋肉が悲鳴を上げていた。後ろを振り向く余裕もなく、ただひたすらに走る。
振り返らなくてもわかる――巨大な異形が追いすがり、地面を歪ませるその足音と、生臭い匂いが徐々に迫ってきていることなど。
朱炎はどこへ行ったのか――この数日、姿を消したままだ。
「異形と出会ったら逃げろ。そして戦え――喰われるぞ」
あの夜、祭りの帰りに言われた言葉が耳に蘇る。
朱炎の姿はどこにもない。その事実が蓮次の心にひたひたと冷たい影を落としていた。
(逃げろ、戦え? ふざけるな……どうしろって言うんだ)
呼吸は乱れ、足がもつれる。焦燥感の中、瞬間移動を試みようと意識を集中させた。
――バッ!
身体が一瞬で消え、木々の間に現れる。しかし足場が悪く、崖の縁に飛び出していた。
「うわっ!」
慌てて体を支え、這い上がり、再び走り出した。
(逃げないと!!)
瞬間移動は確かに使えるようになったが、未だに不確実で、行きたい場所へ正確に辿り着くことが出来ない。
何度も余計な場所に飛び、石に頭をぶつけ、木に絡まることもあった。だが、追われ続ける生活の中で、少しずつだが思い通りに力を使えるようになりつつある。
それでもまだ完璧には程遠い。
(もう無理だ……体が限界だ……)
足にまとわりつく疲労感が動きを鈍らせている。
再生が追いつかない傷口は、血を滲ませる一方だ。
立ち止まりたい。座り込んで眠りたい。けれども、異形に捕まることは即ち死――いや、もっと恐ろしいことだ。
夜が明けるまでは逃げ切らねば。
夜が明けるまでは……
____
蓮次の疲れ切った頭の中に、不意にあの夜の温かさと苦い酒の味が蘇る。
祭りの喧騒の中、朱炎に抱えられた自分。
人の群れのざわめきは背後に遠のいていき、漂う甘い団子や焼き魚の香りは薄れていった。
朱炎の胸に耳を押し当て、静かに、しかし力強く響くその心音を聞いていた。
眠りに落ちる寸前だった。
「……飲め」
朱炎の低い声が耳に届いた。
温かさを急に奪うように、冷たい何かが押し付けられた。
「んっ……いやだ…」
「鬼の力だ。お前が生き延びるために必要なものだ」
「……いらない」
「飲め」
拒む蓮次に構わず、朱炎は無理やり酒を流し込んだ。
一口、二口。
あまりの苦さに身体が拒絶しそうになったが、その瞬間、蓮次の目が見開かれる。
液体が胸の奥へと沈み込むと、途端に熱が広がり始めた。
手足の末端まで血が巡り、身体の芯から活力が満ちてくる感覚。
心臓が力強く跳ね、筋肉が緩んだかと思うと、逆に全身が沸き立つような力で満たされる。
(……なんだ、これ……)
疲労が和らぎ、頭にかかった靄が晴れていく。
瞼の裏に残っていた涙の重みさえ、熱によって溶け落ちていくようだった。
朱炎の言葉が正しかったことを、その身で理解した。
鬼の力が注ぎ込まれた酒――それは、命を繋ぐための力そのものだった。
____
現実に引き戻される。
朱炎の力が、まだ体のどこかに残っていることがわかる。
今、動けるのはその力のおかげだ。それがなければ、すでに倒れていただろう。
なのに。あの鬼は。
生きろと酒を飲ませておいて、あれから一向に姿を表さない。
結局、見捨てられたのだろうか?
心の底から湧き上がる不安が喉を締めつける。
憎しみと、捨てきれない期待。それらが蓮次の胸の中でぶつかり合い、自らを責め続けていた。
辺りは随分と明るくなっている。もうすぐ陽が昇る。
あと少しの辛抱だ。
血と泥でべっとりと重くなった着物に振り回されながら、走り続けている。
全身は汗に塗れて冷え切っているのに、胸の奥でわずかに燃える熱い思い。
――それは諦めのようでいて、しかし消し去ることのできない微かな希求。矛盾している。
(いや、でも、もういい……疲れた……喰われても、死んでも……)
そう思いながらも、足を止められない。理由は自分でもわからなかった。
思考の片隅で囁く声に耳を傾けるたび、次の一歩を踏み出すのは本能だ。
「あいつのせいだ!」
また怒りが湧き上がる。
何度も憎んだ。いつも冷たい目で自分を見下ろし、痛みと恐怖の中に叩き落としてきたあの鬼を。
けれど、あの祭の夜。朱炎の腕に抱えられた時の温かさを忘れることができない。
拒絶したはずの男に―― 助けてもらえるかもしれないという期待。
捨てられるかもしれないという恐れ。
憎んでは期待して、不安になる。そんな不安定すぎる自分を自嘲せずにはいられなかった。
ああ、馬鹿だ。余計な事を考えすぎた。
眉をひそめ、歯を食いしばって顔を上げると、蓮次は異形に囲まれていた。
背後にも、左右にも。もはや退路はない。
黒い影が歪みながら動き、牙を剥き、喉の奥から響くような低い唸り声が耳を打つ。
蓮次は息を呑み込んだ。
逃げ場はない。戦うしか。
(けど、どうやって……?)
思わず手のひらが震えた。歪んだ口が開き、鋭い牙が覗いている。
(どうする…逃げる?…でも、囲まれて…)
その時、異形の一匹が猛然と飛びかかってきた。
(もう無理だ!)
ザシュ!!と鋭い音が響く。
(え?)
目の前で、長い爪が異形の首を裂いていた。異形は叫び声を上げ、身を翻して闇の中に消えていった。
(……また、だ……)
熊を殺した時と同じく、無意識に体が動いていた。爪は瞬時に伸び、一撃を加えると元の手に戻っている。
そう、知らず知らずのうちに一一
(…鬼に…なっている…)
諦めの気持ちとともにその場に膝を付いた。
すると、そんな蓮次を励ますように朝日が森の向こうから差し込んだ。
冷たく淀んだ空気を少しずつ押しのけて。
蓮次はすぐに近くの岩陰に身を潜めた。
日差しは段々と情けをかけなくなり、蓮次の肌を焼くからだ。
蓮次は小さな手で肩を抱きしめながら、ぎゅっと体を縮こませた。
(結局、助けに来なかった……)
静けさの中で、朱炎の不在が改めて胸を締め付ける。
ずっとここで逃げ続けるだけの人生なのか――死ぬか、生きるか、それだけの日々。
終わりのない繰り返しに、蓮次はどうしようもない虚しさを感じた。
(……本当に、見捨てられたのだろうか……)
幼い体は、疲労と孤独の重みに砕けそうだった。助けを呼びたくても、その声はどこにも届かない。
瞳に熱がこみ上げ、涙が頬を伝う。
(情けない……こんなことで……泣いてる……)
唇を噛み締めても、涙は止まらなかった。
涙は地面に吸い込まれ、ただ静寂だけが森を包み込んだ。




