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  作者: Yonohitomi
一章
32/166

35.涙の理由


朱炎の腕の中、蓮次はじっと目を閉じていた。荒い呼吸は落ち着き、体を包む冷たさも薄れていく。けれども胸の奥にはまだ、言いようのない不安と寂しさの残り火が消えずにくすぶっていた。



――トク、トク、トク



規則正しい鼓動が耳を満たす。朱炎の心音だった。強く、迷いのない音。それはまるで、ずっと続く鼓動の道標のようで、不思議な安堵を呼び起こす。



耳を済ませて聞いていると、篠笛とかねの音が聞こえてきた。


蓮次はそっと目を開けた。



視界に飛び込んできたのは、薄暗い森の向こうに揺れる小さな灯りの群れだった。暖かな橙色の炎が風に揺れている。


蓮次は身を起こそうとした。



「あれは……?」



つい口に出してしまう。小さな体が朱炎の腕の中で動くと、その動きに合わせて布がくしゃりと音を立てた。


知らず知らずのうちに、蓮次の瞳は好奇心に輝き始めていた。


目に入るものすべてに心が躍るような、無邪気な驚きと期待。



朱炎は表情を変えなかった。だが蓮次の視線を追うように、足をゆっくりと別の方向へと向けた。



木々の影が途切れ、ひらけた道の先に石段が見える。その先には赤い鳥居と、夜の空に浮かぶ神社の屋根。


露店が立ち並ぶ通りには、いくつもの灯りが揺れていた。



「…きれい……」



蓮次の声が微かに震えた。



境内の奥では白装束を纏った神人じにんが祝詞を上げ、神楽の始まりを告げていた。


巫女たちが鈴を慣らし、舞を踊っている。

露店の明かりが闇を照らし、人々の笑顔を誘っている。


焼きたての団子や手作りのおもちゃを覗き込む子供達が騒いでいる。


すべてがひとつの渦になって空気を満たしているここは祭りの会場だった。




蓮次は体を乗り出した。


朱炎の腕の中で、今にも飛び出してしまいそうな勢いだ。心が踊る。胸が弾む。これまでの痛みや苦しみをすべて忘れ去り、目の前に広がる光景だけが世界のすべてになる。



(…これは…?)



自分の内側に浮かぶ疑問を、蓮次は意識しなかった。記憶の境界線がぼやけ、思考があやふやになる。小さな体に宿る感覚は、いつしか少年の無垢な心そのものになっていた。


胸の奥にわだかまっていた暗いものは消え去り、ただ目の前の賑わいに心を奪われていた。



朱炎は無言のまま、蓮次をしっかりと抱きながら祭りの喧騒へと足を踏み入れた。彼の歩みはゆっくりと、確かだった。まるで蓮次がこのひとときを楽しむための時間を与えるかのように。



しかし、楽しく感じたのは一瞬だけ。



鼻腔を満たす甘さと焦げ臭さが混ざり合い、視界がぐるりと揺れ始めた。人と食べ物の匂いが入り混じり、胸に不快感が押し寄せる。



――気持ち悪い、吐きそう



そう感じた瞬間、体がふわりと浮く感覚。


朱炎が近くの建物の屋根に飛び移っていた。



喧騒から離れていく。静寂がゆっくりと蓮次を包んでいった。


冷たい夜風が頰に触れ、胸の中で詰まっていたものが少しだけ和らぎ、息が楽になる。



「…………」



ぼんやりとした意識のまま、遠くを見ている。

頭上には満天の星空が広がっていた。



朱炎が屋根に腰を下ろし、遠くを見つめている。祭りの明かりに背を向け、ただじっと、動かずに。



蓮次は無意識のうちに朱炎の顔を見上げていた。



――なにか……なんだろう、これは。



胸の奥で静かにざわめくものがある。それは自分の心のようで、そうではないようで。まるで誰か他のものが心に触れてくるような、奇妙で曖昧な感覚だった。



朱炎――憎き鬼。

自分を苦しめ、痛みを与える存在。


なのに。



「……なんで……」



声にならない言葉が唇をすり抜ける。

この感覚は何なのか。今、自分が求めているものは一体何なのか。


いや――これは本当に、自分のものなのか?


瞼の裏に浮かぶ、知らない風景。手の届かない何か。求めて、触れたくて、それでも届かなかった……切実な想い。


蓮次は目を閉じた。

さびしい…ような…。切ない…ような。


曖昧な記憶が輪郭を持たずに浮かび上がる。

きっかけは、先ほど見かけた家族連れ。


父と母。自分の親はどこにいるのだろう。


蓮次は生まれてこのかた、実の両親の顔を知らない。


父だと思っていたあの人――武家屋敷の家長――も、血の繋がりはなかった。


抱きしめられた記憶など、ひとつもない。

心を寄せてほしいと、何度願ったことか……


いや、その想いの形を、そもそも自分は知っていただろうか?


考えれば考えるほど心が冷え、胸の奥にぽっかりと穴が開いたような寂しさが押し寄せる。



「……父上……」



誰のことだろう?


その言葉が胸に湧き上がった瞬間、激しい寂しさが蓮次を押し寄せた。胸が締めつけられる。息が詰まる。涙が、知らぬ間に溢れ始めていた。


何を、どこに求めているのかも分からず、ただ暗闇に手を伸ばしているような、そんな感覚に胸がいっぱいになる。



朱炎が微かに動いた。



「あまり考えるな。」



低く、静かな声が降る。

その瞬間、腕がきつく蓮次を抱きしめ直した。

温もりが伝わる。


鬼の温もり。

蓮次を苦しめるはずの、憎しみの源。


なのに。

心がはじけたように、涙が溢れ出す。


こみ上げる感情を抑えられない。

理由は分からない。

求めた記憶もない。


なぜ自分は泣いているのか?

鬼の腕の中で――なぜ、こんなにも涙が止まらないのか?


ただ分からなかった。


けれど、この温もりに触れた瞬間――

ずっと探し求めていたような気がして、この温もりにすがりつきたくて――


自分のもののようで、自分のものでない。


まるで、誰か知らない者の心が胸に触れるように、何かが心の奥を震わせてくる。



「……っ、うっ……!」



蓮次は朱炎の着物を掴み、しがみつき、声を殺して泣いた。ひたすら泣いた。





朱炎は黙っていた。


その腕は、まるで何かを知っているかのように、蓮次を強く抱きしめ続けていた。




 

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