37.薄れる赤、光る赤
明け方の冷えた空気が流れ込む。
木立の隙間から差し込む淡い光が、泥と血に塗れた蓮次の身体を静かに照らし出していた。
身体の内側で、痛みがきしむように鳴る。
指先は思うように動かず、震えだけが残る。
疲労はすでに限界を越え、立ち上がる気力さえ奪っていた。
「……もう、いやだ……」
掠れた声が喉からこぼれ落ちる。
そのとき、説明のつかない歪みが生じる。
風も、葉擦れも、音を立てぬまま――。
蓮次は、ゆっくりと顔を上げる。
朱炎が立っていた。
ふと力が抜ける。
――やっと、来た。
そんな思いが湧き上がる。
(……どうして)
逃げたくて、拒み続けてきたはずなのに。
蓮次は自分自身に戸惑いながら、目の前の朱炎を見つめた。
彼の表情は石のように動かない。
赤い瞳だけが冷ややかに蓮次を見下ろしていた。
「情けない」
低く吐き捨てられた一言。
その瞬間、蓮次が感じていた安堵は跡形もなく砕け散った。
朱炎の声に温もりはなかった。慈しみも、救いも。
朱炎はそれ以上何も言わず、踵を返す。
振り向くこともなく、重い威圧を背に纏ったまま、距離を広げていった。
「……まって!」
考えるより先に、体が勝手に動く。
このまま見失ってはいけない――そう思った。
追いかけても追いつけず、よろけて地面に叩きつけられる。
「……痛い……もう、だめだ……」
動かない身体。
朱炎を見上げる。すがるような視線で。
だが、返ってきたのは――
「お前が、力を拒んでいるからだ」
容赦のない事実。
蓮次は苦悶に顔を歪める。
――鬼の力を受け入れろ
朱炎はそう言っている。だが、蓮次は拒み続けてきた。
鬼になどなりたくない。その力を迎え入れたくはなかった。
「……鬼になんて……ならない……」
掠れた言葉は、地に落ちる前に空気へと溶ける。
朱炎はそれを聞き取ったのか、あるいは意にも留めなかったのか、再び歩みを進める。
遠ざかる足取りに合わせるように、蓮次の心が冷えていく。
逃げたいと思っていた。
朱炎からも、鬼として生きる運命からも。
それなのに――
今、このまま置き去りにされることだけは、どうしても耐えられない。
拒み続けてきたはずの存在を追いかけるしかない。
否定と希求、相反する感情が絡まり、胸の奥でほどけなくなる。
朱炎は、その揺らぎに気づいているようにも見えた。
「お前が拒んだのだ。力が欲しいなら、口にすればいい」
その言葉に、蓮次は沈黙するしかない。
――力をください。
それを言う必要はあるのだろうか?
朱炎は選択など与えず、力を押し付けてくる存在だと、どこかで思い込んでいた。
選ばされている?
去っていく足音に、手を伸ばす。
追わなければ――。
「……まって……まって……!」
行かないで。
見捨てないで。
その叫びは、自分のものではない気がした。
眠っていた別の誰かの感情が、ふいに目を覚ましたようで、気を抜けばそれに呑み込まれそうになる。
「……せめて……少しだけ……休ませて……」
地に伏したまま、息に混じって言葉を落とす。
肩や腕には、人ならざる爪の痕が深く刻まれ、痛みが波のように広がっていた。
(……痛くて……動けない)
もし、鬼の力を受け入れていれば。
こんな苦しみに耐えずに済んだのだろうか。
それでも――鬼にはなりたくない。
鬼は残酷で、恐ろしく、人の心をすり減らす存在だ。
力を受け入れた先に、今の自分が残っているとは思えなかった。
「……鬼には……ならない……でも……」
声は弱く、空気に溶けて消える。
霞む視界の向こうで、朱炎の背は確実に遠ざかっていた。
やがて震えが止まらなくなり、蓮次の意識は痛みと疲労の底へ沈んでいく。




