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  作者: Yonohitomi
一章
30/177

36.逃亡と涙


 夜の闇が一層深く冷たくなるころ、蓮次の荒い息遣いが森に響いていた。

 足元の土が跳ね上がり、枯れ枝を踏みつける音が響く。


(くそっ……なんでこんなことに!)


 心臓が破れそうなほど打ち、全身の筋肉が悲鳴を上げていた。後ろを振り向く余裕もなく、ただひたすらに走っている。


 今、異形達に追われている。


 振り返らなくてもわかる――地面を歪ませるその足音と、生臭い匂いが徐々に迫ってきていることなど。


 朱炎はどこへ行ったのか――この数日、姿を消したままだ。


『異形と出会ったら逃げろ。そして戦え――喰われるぞ』


 あの夜、祭りの帰りにそう言われた。

 あれから朱炎の姿はどこにもない。


(逃げろ、戦え? ふざけるな……どうしろって言うんだ)


 体力もわずか。足がもつれる。

 焦燥感の中、瞬間移動を試みようと意識を集中させることにした。


 ――バッ!


 身体が一瞬で消え、木々の間に現れる。しかし足場が悪く、崖の縁に飛び出していた。


「うわっ!」


 慌てて体を支え、這い上がる。そして再び走り出した。


(逃げないと!!)


 瞬間移動は確かに使えるようになったが、未だに不確実で、行きたい場所へ正確に辿り着くことが出来ない。


 何度も余計な場所に飛び、石に頭をぶつけ、木に絡まることもあった。だが、追われ続ける生活の中で、少しずつだが思い通りに力を使えるようになりつつある。


 それでもまだ完璧には程遠い。


(もう無理だ……体が限界だ……)


 疲労感が動きを鈍らせている。

 再生が追いつかない傷口は、血を滲ませる一方だ。


 休みたい。座り込んで眠りたい。

 けれども、異形に捕まることは即ち死――いや、もっと恐ろしいことだ。


 夜が明けるまでは逃げ切らねば。



***


 蓮次の疲れ切った脳裏に、不意にあの夜の温かさと苦い酒の味が蘇る。


 祭りの喧騒の中、朱炎に抱えられた自分。

 朱炎の胸に耳を押し当て、力強く響くその心音を聞いていた。


 眠りに落ちる寸前だった。


「……飲め」


 朱炎の低い声が耳に届いた。

 温かさを急に奪うように、冷たい何かを押し付けられた。


「んっ……いやだ…」


「鬼の力だ。お前が生き延びるために必要なものだ」


「……いらない」


「飲め」


 拒む蓮次に構わず、朱炎は無理やり酒を流し込んだ。


一口、二口。


 あまりの苦さに吐き出しそうになったが、次の瞬間、蓮次の目が見開かれる。


 酒が身体に沈み込むと、途端に熱を持ち、広がり始めた。手足の末端まで血が巡る。

 身体の芯から活力が満ちてくる感覚があった。

 心臓が力強く跳ね、筋肉が緩んだかと思うと、全身が沸き立つような力で満たされる。


(……なんだ、これ……)


 疲労が和らぎ、脳内の靄が晴れていく。

 瞼の裏に残っていた涙の重みさえも消えていく。


 朱炎の言葉が正しかったことを、その身で理解した瞬間だった。

 朱炎が口にした鬼の力とは――

 それは、命を繋ぐための力、そのものだった。


***


 現実に引き戻される。

 朱炎の力が、まだ体のどこかに残っていることがわかる。

 今、動けるのはその力のおかげだ。それがなければ、すでに倒れていただろう。


 なのに、なぜ?


 死なせるつもりはないと言う、あの鬼。

 生きろと酒を飲ませておいて、あれから一向に姿を表さない。


 なぜだ?

 結局、見捨てられたのか?


 心の底から湧き上がる不安。

 憎しみと捨てきれない期待。それらが蓮次の胸の中でぶつかり合い、自らを責め続けていた。


 辺りは随分と明るくなっている。もうすぐ陽が昇る。あと少しの辛抱だ。


 血と泥でべっとりと重くなった着物に振り回されながら、走り続けている。

 全身は汗に塗れて冷え切っているのに、胸の奥ではわずかに燃える熱い思いがあった。


 それは諦めのようでいて、消し去ることのできない微かな希求。


 矛盾している。


(でも、もういい……疲れた……喰われても、死んでも、構わない)


 そう思いながらも、足を止められない。

 思考の片隅で死を欲するも、次の一歩を踏み出させるのは本能だ。


「あいつのせいだ!」


 また怒りが湧き上がる。

 痛みと恐怖の中に叩き落としたあの鬼。


 けれど、あの祭の夜、朱炎の腕に抱えられた時の温もりを忘れることができない。


 拒絶したはずの男に――助けてもらえるかもしれないという期待と、捨てられるかもしれないという恐れ。

 矛盾した感情が常にある。そんな不安定すぎる自分を自嘲せずにはいられなかった。



 ああ、馬鹿だ。余計な事を考えすぎた。

 眉をひそめ、歯を食いしばって顔を上げると、蓮次は異形に囲まれていた。


 背後にも、左右にも。もはや退路はない。

 黒い影が歪みながら動き、牙を剥き、喉の奥から低く唸る。


 蓮次は生唾を呑み込んだ。

 逃げ場はない。戦うしか。


(けど、どうやって……?)


 思わず手のひらが震えた。

 異形の歪んだ口が開き、鋭い牙が覗いている。


(どうする、逃げるか? でも、囲まれている)


 その時、異形の一匹が猛然と飛びかかってきた。


(もう無理だ!)


 ザシュ!!


 と鋭い音が響きた。


(え?)


 長い爪が異形の首を裂いていた。異形は叫び声を上げ、身を翻して闇の中に消えていく。


(……また、だ……)


 熊を殺した時と同じ。

 無意識に体が動いていた。爪は瞬時に伸び、一撃を加えると元の爪の長さに戻っている。


 そう、知らず知らずのうちに一一

 俺は鬼になっている。


 諦めの気持ちとともに膝を付いた。

 すると、そんな蓮次を励ますように朝日が差し込む。冷たく淀んだ空気を少しずつ押しのけて。


 蓮次はすぐに近くの岩陰に身を潜めた。

 日差しは段々と情けをかけなくなり、蓮次の肌を焼くからだ。

 小さな手で肩を抱きしめながら、ぎゅっと体を縮こませる。


(結局、助けに来なかった……)


 静けさの中、朱炎の不在が改めて胸を締め付ける。


 ずっとここで逃げ続けるだけの人生なのか?

 終わりのない繰り返しに、蓮次はどうしようもない虚しさを感じた。


(……本当に、見捨てられたのだろうか……)


 幼い体は、疲労と孤独の重みに砕けそうだ。助けを呼びたくても、その声はどこにも届かない

 熱がこみ上げ、涙が頬を伝う。


(情けない……こんなことで……また泣いてる……)


 唇を噛み締めても、涙は止まらなかった。

 







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