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  作者: Yonohitomi
一章
30/166

33.崖の縁、闇の底


蓮次の胸を混乱が締めつけた。ついさっきまで目の前にあった朱炎の姿が、今はどこにも見当たらない。



(…ここは…どこだ…)



冷たい汗が背筋を伝う。突然の事で、何が起きたのか分からない。

しかし、あの鬼から逃げ切れたのだろうかと安堵していると、また、耳元で聞こえた。あの低い声。



「…逃げぬのか?」



朱炎の声だ。

心臓が凍りついた。


蓮次は反射的に駆け出した。もう、何かを考えている余裕がない。足元の土が蹴り上げられ、荒い呼吸が喉を焼く。


体中の筋肉は悲鳴を上げている。それでも無我夢中で足を動かした。



もっと速く……もっと遠く……!



だが、その必死の努力はすぐに嘲笑で打ち砕かれた。



「ただ逃げるだけか? もっとできることがあるだろう――集中しろ。」



その言葉が氷の刃のように蓮次の胸に突き刺さる。何を言っているのか? 集中? できること? 逃げるだけで手一杯の自分に、そんな余裕があるとでも?


蓮次の眉がひくつき、奥歯を噛みしめた。だが、怒りの熱が冷めやらぬうちに疑問が浮かび上がる。



――朱炎があの時、目の前から忽然と消えたのはどうしてだ?


思い返せば、朱炎はいつだって気配もなく、音も立てず、突如現れていた。まるで空間そのものを飛び越えるように――。



瞬間移動――?



胸がざわめき、冷たい汗が伝う。あの鬼は、そんなことまでできるのか。



(なら、もしかして――俺にも……?)



心臓が鼓動を打つたびに、全身に血が巡るような感覚。冷たさと熱が入り混じり、胸の奥に渦を巻く。それが恐怖か期待かさえ分からない。



やってみろ!俺にもできるはずだ……!



叫びが胸の中で反響する。さっき朱炎の前から消えたあの瞬間、たしかに自分の中で何かが弾けた。


脚を止めることはできない。とにかく意識を集中し、逃げ切る事だけを考える。


突然、景色がぐにゃりと歪んだ。空気が濃密に変化し、足元の感覚が消える。視界を覆う赤黒い光――。



次の瞬間、



蓮次の体は宙に浮いていた。



「――!」



見下ろすと、足元は崖。大地の裂け目が広がり、崩れ落ちる岩と共に、蓮次は滝壺へ滑り落ちてしまう。



(――しまった!こんなところに!)



だがその考えも、頭の奥に浮かんだ次の瞬間にはもう消えていた。迫る水面、轟音。一瞬にして蓮次を飲み込んでいく。



上を見上げると、崖の縁に朱炎の姿があった。暗闇に溶け込むその瞳が、ひどく冷ややかに、だがどこか満足げに笑っている。



蓮次は歯を食いしばり、心の中で叫んだ。


ふざけるな――!俺はお前の言いなりにはならない!絶対に!



落ちていく蓮次の体は、容赦なく水の塊に叩きつけられ、全身が痛みで悲鳴を上げた。だが、それ以上に鋭い痛みが走ったのは、途中で大きな岩にぶつかった時だった。



「……っ!!!」



鈍い衝撃が左肩を襲い、骨が砕ける感覚が全身を広がった。ひびが入ったのかもしれない。痛みが鋭い刃のように肩から全身へと広がり、呼吸が止まる。



(――折れた……?)



水の冷たさが骨に染み渡り、血の巡りを鈍らせていく。もがこうとする意志はすぐに削がれ、体の動きが鈍り始める。視界の端で泡が弾け、耳には激流の音だけが轟いていた。



(もう……無理だ……)



思考がどこか遠くへ流される。元々限界だった体力も、わずかに残っていた気力も、全て流されていく。



(……もう……いい……)




だが――。


突然、強い力が襟元を掴んだ。


蓮次は一瞬息を呑んだが、次の瞬間には激しい痛みと共に背中から岩へ叩きつけられていた。




ガッッ――!


左肩から響く嫌な音。激痛が全身を駆け巡り、息が止まる。



「っぐ、っ――!」



叫びも喉の奥でつかえ、全身が痺れる。肩に入ったひびが、今度こそ完全に折れたのだろう。痛みは骨の奥底まで刺し込み、全身が焼けるようだった。



「……っ……!」



蓮次はその場に崩れ落ち、体を丸めた。肩を抱え込むようにして震えながら、顔を歪める。激痛が波のように押し寄せ、意識が遠のきそうになるたびに歯を食いしばった。




もう何もかもが限界だった。




屈辱。絶望。痛み――すべてが積み重なり、心が音もなく砕けていく。



(俺が……何を……した……?)



声にならない問いが胸の奥で何度も反響する。やがて、掠れた声が震える唇からこぼれた。



「……俺が……何を……したっていうんだ……」



それはもはや言葉とは呼べないほどの音。消え入りそうな声。悔しさと、限界を超えた疲労の混じった、搾り出すような響きだった。



朱炎は、ただ黙って見ていた。

憐れみの色もなく、怒りもなかった。ただ、底知れない静けさだけがそこにあった。





「殺せよ……」


かろうじて残った意識が、怒りと悲しみを綯い交ぜにして言葉を吐き出させた。唇が血に濡れる。



「殺せばいいだろ……」



朱炎の沈黙は続いていた。


蓮次は朱炎の無言に耐え切れず、目を閉じたままうつむき、震えた声で繰り返す。



「こんな……こんな世界……俺には……いらない……」



肩の痛みが燃えるように熱い。だが、その痛みさえも、今の蓮次にはもうどうでもよかった。



心に、黒い霧が絡みつくように広がり始めた。


痛みと疲労が意識を鈍らせる中、胸の奥から黒いものが湧き上がってくるのが分かる。

初めての感覚――喉元を這い上がるような怒りと、すべてを呪い、憎む感情。それはどこにも出口を見つけられず、心の中で渦を巻き、広がっていく。



(なんだ……これは……?)



ただ沸き立つ憎しみの感覚だけが鮮明だった。


朱炎の姿も、無力な自分も――すべてが憎い。世界が憎い。



蓮次の周囲に、黒い気配が滲み出し、形の見えない影がうごめく。


その異変に朱炎がすぐさま気づき、歩み寄る。

一瞬もためらうことなく蓮次の元へ。



蓮次の体は地面に横たわったまま動かない。朱炎が伸ばした手がその胸に触れると、蓮次は反射的に肩を引いた。



「やめろ……もう、やめてくれ……」



声はかすれ、痛みと恐怖で震えていた。



(まただ。また……この体に力を押し込んでくるつもりなのか……)



その時、朱炎の声が耳元で低く響いた。



「大人しくしろ」



言葉には、真剣な響きが混じっている気がして思わず反抗するのをやめた。



(…………?)



今までの彼とは何か違う。その微かな違いを、蓮次の本能がかすかに感じ取った。


黙り込み、朱炎の指先が自分に触れる感触を受け入れる。


朱炎の手はゆっくりと蓮次の背中に回り、支えるように彼の体を引き起こした。その瞬間、朱炎の掌からいつもと異なる気配が蓮次の胸に流れ込む。



「……!」



何かが急に流れ込むと同時に全身を貫く激痛。

骨が砕け、細胞が軋むような感覚が蓮次を襲った。



「ぁあああっ!!!」



喉の奥から絞り出される絶叫。


その痛みは、過去にどんな苦痛を受けた時とも違っていた。



(やめろ――やめてくれ――!)



細胞が悲鳴を上げ、意識が限界を超えるたびに、蓮次の心が何かに引き裂かれそうになる。



「っ……あ……!」



やがて最後の声すら出なくなり、蓮次の意識はまた暗闇へと沈んでいった。


静寂だけが、その場に残った。


朱炎の掌はまだ蓮次の胸に触れていた。彼は眉一つ動かさず、意識を失った蓮次の顔をじっと見下ろしている。




____




ここは闇。何もない真っ暗闇。


限界を迎えてここに逃げてきた。


今回だけではない。いつもこの場所は、限界を迎えた時に辿り着く場所。


けれど、ここにいるのは自分ではないかもしれない。


何も見えない。聞こえない。

自分が自分ではなくなる感覚に、身を任せ、漂う。


暗闇の底から、ふと見上げると、白く光る場所があり、あれが元いた世界なのだろうと分かった。


戻るべきか……。




____




「……っ!」


体中が痛み、息ができない。


蓮次は荒い息をつきながら目を開けた。視界がぼやけ、耳鳴りが頭の奥で響いている。


全身を襲う鈍い痛みが凄い。咄嗟に左肩に手を伸ばした。そこから骨を砕かれた感覚が未だに抜けない。しかし。



(……折れて……いや、治っている……?)



うつ伏せになった体を無理やり動かし、腕で自分を支えようとするが――何かがおかしい。



(腕が……)



驚きと混乱に眉をひそめながら、自分の手を見下ろす。小さく、薄い皮膚。細く頼りない指先が震えていた。



「え……?」



喉の奥から絞り出した声が、かすれ、幼さを帯びた響きに変わっていた。


蓮次は腕を見比べ、次に、手のひらを開き閉じする。まるで誰か別人の手を見ているかのような感覚。


心臓が跳ね、呼吸がさらに荒くなる。


足の感覚も鈍い。


着ていた着物は、体から滑り落ちていた。



肩を覆うはずの袖が余り、手首がすっぽりと隠れている。腰の帯もすっかり緩んで、着ていた着物は自分を包むただの大きすぎる布と化していた。



「……は?」



幼い声と共に、蓮次の目が見開かれた。






 

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