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  作者: Yonohitomi
一章
29/167

32.鬼ごっこ


朱炎は何も答えられないでいる蓮次を一瞥し、目を細めることもなく腕を振った。


一瞬の事だった。


足元がふわりと浮いたような感覚――いや、周囲の空間そのものが、突然後ろへと押し流されたのだ。




空気がわずかに揺らぎ、二人の姿は一瞬で岩壁の影に飲まれるように消え去った。


まるで暗闇が吹き飛ぶように。


周囲には森の匂いが広がっていた。風が湿った土と腐葉土の臭いを運び、かすかな獣の息遣いが耳元で聞こえた。


目の前には、巨大な影――熊だ。



「――っ!」



咄嗟に振り向いた時には遅かった。蓮次は熊の目の前に放り投げられるように地面に叩きつけられ、身を守る間もなく熊の爪が振り下ろされる。


血を求める瞳、開いた口から熱い息が吹きかかる。だがその刹那、蓮次の体が勝手に動いた。



視界が一瞬、赤い閃光に包まれた。



伸びた手刀が熊の喉を深々と貫いていた。力任せに引き裂く感触――筋肉が裂け、血が滝のように噴き出す。


熊の咆哮が喉の奥で途切れ、体が硬直し、重々しい音を立てて地に崩れ落ちた。



「……な、ん……だ……?」



蓮次の腕は赤黒く染まっていた。震える手のひらを見つめ、喉が乾いたように声が出ない。熊の瞳は、もう何も映していなかった。



「どうして……」



振り返ると、朱炎がそこに立っていた。無表情のまま、ただ蓮次の姿を見下ろしている。その瞳の奥には、微かな笑みの影。



「お前は生き残った。それだけのことだ」



冷たく響く声。朱炎の言葉が氷の刃のように胸に突き刺さる。



「違う……違う! こんなの俺じゃない!」



蓮次は熊の死骸から距離を取り、地面にへたり込んだ。視界が滲み、胸の奥から何かが込み上げる。

熊を殺した自分――その姿は、あまりに鬼じみていた。息が荒くなり、全身がこわばる。



(俺は、人間だった…はず……なのに……)



指の感触が残る。あの温かい肉の抵抗。長く伸びた爪の先に、染み込んだ血の匂い――それが恐ろしくて、何度も何度も手をこすり合わせた。



朱炎は無言のまま、その様子をじっと見つめている。蓮次の葛藤も叫びも、すべて見下ろしながら、表情ひとつ変えない。



「……やっと近づいてきたな」



声は低く、優しい嘲笑のようだった。



蓮次は地面に拳を突き、低くかすれた声で「ふざけるな……」と呟いた。



その言葉に朱炎は眉一つ動かさず、ゆっくりと歩み寄る。蓮次の目の前に立ち、顔を覗き込むようにして静かに言い放った。



「鬼になれ、蓮次」



凍りつくような言葉だった。蓮次は顔を上げ、怒りの目で睨みつける。



「すぐ近くに村がある。お前が鬼だ。私を捕まえられなければ……何が起こるか、分かるだろう?」



朱炎の瞳には冷酷な光が宿っていた。そして、次の瞬間には――その姿が消えていた。



「――!」



蓮次の体は反射的に動き、頭の中で考えが渦巻く。



(また人間を……!)



血が沸騰するような怒りが胸を突き上げた。あの鬼は、鬼ごっこでもやっているつもりだというのか。


ふざけるな――!



体中に残る疲労感を振り払うように、蓮次は足を踏み出した。


村の方角と思われる方向へと全力で走り出す。



やがて遠くから悲鳴が響いた。


蓮次は息を切らしながら家の方へと飛び込む。室内には母親と幼い子供が壁際に追いやられていた。震える体、見開かれた瞳。



二人は生きている――だが、蓮次の姿を見た瞬間、恐怖がさらに深まったように悲鳴をあげる親子。



「違う……!」蓮次は言葉を飲み込み、歯を食いしばった。



そして、別の場所でまた悲鳴が。



(――またか!)



足音を響かせながら次の家へと駆け込む。そこには若い男女が同じように隅へ押しやられていた。傷一つ負っていない。だが、2人の恐怖は壁を貫くように漂っていた。



(…誰も襲われていない……?)



蓮次の呼吸が荒くなる。心の中の疑念が膨らむ。朱炎のやり方じゃない……。どういう事だろうか。


朱炎が人々を手にかけなかった理由が頭を掠める。

……まるで何かを試しているかのよう。


次第に胸の鼓動が高鳴り、耳元にまで轟いた。




外へ飛び出し、通りを駆け抜けると――森の入り口で、朱炎が立っていた。口元には余裕のある笑み。


蓮次の怒りは頂点に達した。



「――ふざけるな!」



喉から叫びを絞り出し、朱炎の方へと一直線に駆け寄る。



その瞬間、目の前に突如、朱炎が姿を現した。



「!」



蓮次の動きが止まる間もなく、朱炎の手が腕を掴む。その指先には冷たく、恐ろしい力が込められていた。



朱炎は微笑みながら囁いた。



「次は私が鬼だ。三つ数える間に逃げてみろ。……私に見つかれば、再び腹に穴が開くと思え」



その声は、底知れぬ冷たさと共に不気味な響きを持っていた。



「一つ」


低く数える声が、蓮次の耳元で響いた。



蓮次は全身の痛みに顔を歪めながらも、朱炎の手を振りほどき、反射的に森の中へ駆け出した。胸を突き上げる鼓動、荒れる息。木々の影が目の端を過ぎ去るたびに心臓が締めつけられる。



「二つ」


その声が遠ざかる。足音を響かせながら、蓮次は必死に走り続けた。



(くそ……!)



体の節々が軋み、汗が滝のように流れる。ようやく振り返ると――朱炎の姿は見えない。


追いかけてこないのか? 疑念が頭をよぎる。


途端に、痛みと疲労が全身を襲い、脚がわずかに遅くなった――その瞬間。



「遅すぎる」



冷たい声と共に朱炎が目の前に現れた。



「――!」



蓮次の瞳が驚きで見開かれる。だが、朱炎は一瞬たりとも隙を見逃さない。


鉄のように冷たい手が蓮次の肩を掴み、無慈悲に木へ叩きつけた。



「ぐっ……!」


背中を貫く衝撃と共に、鬼の力が朱炎の掌から流れ込む――焼けるような熱と刺すような寒さの混ざり合う感覚。



だが、今回は――何かが違う。

痛みだけではない――何かが、体内で目覚めていく。



朱炎が蓮次に力を送るのをやめ、再び蓮次を掴もうとした時、それは起こった。


空気の中へ溶けるように。


蓮次の姿は、跡形もなく消え去っていた。



「……」



朱炎の手は虚空を掴む。風だけが静かに吹き抜ける。

しばらくの沈黙の後、朱炎の口元がゆっくりと綻んだ。


笑みは、深く、冷たく、そしてどこか満足げだった。

遠い未来の出来事を見通すかのように。






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