35.涙の理由
朱炎の腕の中、蓮次はじっと目を閉じていた。
呼吸は落ち着き、体を包む冷たさも薄れていく。
――トク、トク、トク
規則正しい鼓動が耳を満たす。朱炎の心音だ。強く、迷いのない音。それは不思議な安堵を呼び起こす。
(どうして……)
蓮次はふと朱炎の胸からそっと頭を離した。
目を閉じたまま、耳を済ませる。自分の心音は聞こえるか?
鬼の音がするだろうかと。
だが、聞こえてきたのは遠くで鳴り響く篠笛と鉦の音だった。
蓮次はそっと目を開ける。
視界に飛び込んでくる、薄暗い森の向こうに揺れる小さな灯りの群れ。暖かな橙色の炎が風に揺れている。
蓮次は身を起こそうとした。
「あれは……?」
つい口に出してしまう。
小さな体が朱炎の腕の中で動くと、その動きに合わせて布がくしゃりと音を立てた。
知らず知らずのうちに、蓮次の瞳は好奇に輝き始めていた。
目に入るものすべてに心が躍るような、無邪気な驚きと期待。
朱炎は表情を変えなかった。だが蓮次が視線を向けた先へと、進む道を変えた。
やがて木々の影が途切れ、視界がひらける。ここは小丘で、見下ろせば赤い鳥居が並んでいる。
小道に露店が立ち並ぶ。
いくつもの灯りが揺れていた。
「…きれい……」
蓮次の声が微かに震えた。
境内の奥では白装束を纏った神人が祝詞を上げ、神楽の始まりを告げていた。
巫女たちが鈴を慣らし、舞を踊っている。
露店の明かりが闇を照らし、人々の笑顔を誘っていた。
焼きたての団子や手作りのおもちゃを覗き込み、子供達が騒いでいる。
すべてがひとつの渦になって空気を満たしているここは祭りの会場だった。
蓮次は体を乗り出した。
朱炎の腕から今にも飛び出してしまいそうな体勢だ。
心が踊る。胸が弾む。
これまでの痛みや苦しみをすべて忘れ去り、目の前に広がる光景だけが世界のすべてになっていた。
(…これは…?)
自分の内側に浮かぶ疑問。
記憶の境界線がぼやけ、思考があやふやになる。
小さな体に宿る感覚は、いつしか少年の無垢な心そのものになっていた。
わだかまっていた暗いものは消え去り、ただ目の前の賑わいに心を奪われる。
朱炎は蓮次をしっかりと抱き直し、祭りの喧騒へと足を踏み入れた。
彼の歩みはゆっくりだ。まるで蓮次がこのひとときを楽しむための時間を与えるかのように。
しかし、蓮次が楽しめたのは束の間のこと。
甘さと焦げ臭さが混ざり合い、視界がぐるりと揺れ始めた。
人と食べ物の匂いが入り混じっている。
――気持ち悪い、吐きそう
そう感じた瞬間、体がふわりと浮く感覚。
朱炎が近くの建物の屋根に飛び移っていた。
喧騒から離れたことで、静けさに包まれる。
冷たい夜風が頰に触れ、胸に詰まっていた不快感がが少しだけ和らぎ、息をするのが楽になった。
「…………」
ぼんやりとした意識のまま、遠くを見ている。
頭上には満天の星空が広がっていた。
蓮次は無意識のうちに朱炎の顔を見上げていた。
……なんだろう、これは。
胸の奥で静かにざわめくものがある。
それは自分の心のようで、そうではない。まるで別の誰かが心に触れてくるような、奇妙で曖昧な感覚だった。
朱炎とは、憎き鬼。
自分を苦しめ、痛みを与える存在。
なのに――
「……なんで……」
声にならない言葉が唇をすり抜ける。
この感覚は何なのか。今、自分が求めているものは何なのか。
これは自分の気持ちだろうか?
瞼の裏に浮かぶ、知らない風景。
手の届かない何か。求めて、触れたくて、それでも届かなかった切実な想い。
蓮次は目を閉じた。
寂しさが募っていた。
きっかけは、先ほど見かけた家族連れ。
父と母――
自分の親はどこにいるのだろう?
蓮次は生まれてこのかた、実の両親の顔を知らない。
父だと思っていたあの人――武家屋敷の家長も、血の繋がりはなかった。
抱きしめられた記憶など、ひとつもない。心を寄せてほしいと、何度願ったことだろう。
いや、その想いの形を、そもそも自分は知っていただろうか?
考えれば考えるほど心が冷えた。
「……父上……」
これは、誰のことだろう?
ふと口から出てきた言葉。
胸が締めつけられ、息が詰まる。
涙が、知らぬ間に流れ始めていた。
ただ暗闇に手を伸ばしているような、そんな感覚にうまく呼吸ができなくなる。
朱炎が微かに動いた。
「あまり考えるな。」
低く、静かな声が降る。
そのとき、鬼の腕がきつく蓮次を抱きしめ直した。
温もりが伝わる。
これは、鬼の温もり。
蓮次を苦しめるはずの、憎しみの源。
なのに――
はじけたように、涙が止まらなくなる。
こみ上げる感情を抑えられない。
求めた記憶もないのに、なぜ自分は泣いているのか?
鬼の腕の中で――なぜ、こんなにも涙が止まらないのか?
この温もりに触れて、さらに自分が分からなくなる。
まるで知らない誰かが勝手に思い出に触れてきたように、何かが心を狂わせてくる。
「……っ、うっ……!」
蓮次は朱炎の着物を掴み、しがみつき、声を殺して、ひたすら泣いた。
祭りの音に紛れて鬼の子が泣く。
朱炎は泣きじゃくる蓮次を抱きしめ続けた。まるで何かを知っているかのように――。




