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  作者: Yonohitomi
一章
28/177

34.記憶の傷が疼いた



 蓮次は心を落ち着かせようと周りを見回した。


 冷たい空気が肌にじわりとまとわりつく。どうやらここは洞窟の中のようだ。

 湿り気のある岩壁が暗闇に溶け、ぽたぽたと滴る水音が遠くで響いていた。


 体を丸めたまま、ふと小さくなった自分の腕に目を落とす。

 あの時――鬼に変えられる前の姿と、それほど変わらない、か。


 思い返せば、鬼にされた瞬間、体が異常な速度で成長した。まるで別人のように。

 背も伸び、長くなった髪が肩を覆い、力の宿る腕には見知らぬ重さがあった。

 それが今、元の大きさに戻っただけ――というか、それ以上に縮んでしまったのだが…。


「……それでも、これは……」


 小さな声が震えた。

 腕も脚も細く、まるで木の枝のようだ。


 大きすぎる着物。布の海の中で縮こまる自分を意識すると、ため息が出る。


「……三つか、四つだ」

 三歳児か四歳児ほどの体で、どうしろと?


 蓮次はゆっくりと顔を上げた。


 朱炎――あの鬼の姿はどこにもない。

 ふと、怒りが胸を焼いた。すべての始まりはあいつだった。自分の人生を奪い、苦しみを与え続け、今もなお影のように付き纏う存在。

 

 蓮次は拳を握り、額に押しつけた。その拳さえも、


(もう……ぜんぶ……あいつのせいだ…!!)


 苛立ちと絶望が混ざり合う心は、思考の渦は次第に濁っていく。

 

 ずっとこのまま生きていくのか? この小さな体で?

 両手で頭を抱える。心が潰れそうだった。


 やがて、静寂の中で小さな腹からグウ〜と音が鳴る。

 空腹――これまで忘れていた感覚。飢えが内臓を絞り上げ、体の震えを引き起こした。


 そう言えば、鬼の体にされてからというもの、何も口にしていない。かと言って、人間を食いたいとも思わない。

 何か、食べられるものはあるだろうか…。


 洞窟の外を見つめた。

(…なにか、たべるもの……)

 ふらつく足で立ち上がり、進む。しかし、重い布が足元に絡まり、歩こうとするたびによろめいてしまう。

 ついには足がもつれて倒れてしまった。

「……っ……!」

 手をついて這いながら進もうとする。


 洞窟の外には風の気配、動物達の動く音。きっと食べ物があるはずだ。


 洞窟の出口に近づく。だが指先を伸ばした瞬間、空気が歪んだ。


 ――ギンッ。

 何かが弾けたような感触。


 振り返って中へ戻ろうとしたが、見えない透明の壁が立ちはだかり、洞窟の闇が自分を拒むように閉ざされていた。


 冷たい汗が背筋を伝う。


「……え?……もどれない?…」


 嫌な予感が胸を締めつけた。

 その予感はすぐに現実となる。


 空気の流れが変わった。ぬめりとした感覚――背後から重い音と共に、異形の影が現れる。


 蓮次は振り向くこともできなかった。

 次の瞬間、鋭い爪が彼の体を掴み上げ、宙へ放り投げる。


 目の前に迫る異形の顔――ねじ曲がった顎、ぎざぎざの牙、血の匂いが鼻を突いた。


 心臓が跳ね上がり、頭が真っ白になる。

「うぁあああっ!」

 喰われる――!?


 その時、空気がねじれるように唸りを上げた。

 刹那、蓮次の小さな体が洞窟の中へと吹き飛ばされる。


 岩に叩きつけられ、鈍い痛みが背中に広がった。息が詰まり、苦しい。


 次に目に映ったのは、血の雨だった。

 洞窟の入口を赤く染めながら、異形の残骸がばらばらと地面に降り注ぐ。


 その間を堂々と進む黒い影――朱炎だ。

 朱炎は無言で立っていた。


 蓮次は痛みに震える体をゆっくりと起こし、乱れた息のまま朱炎を睨みつけた。


 その視線に気づいた朱炎。彼が腕を軽く振ると、白い布の束が蓮次の顔に向かって飛んできた。


「……っ!」

 布は蓮次の頭に落ちた。手で掴み取ると、それは子供用の小さな着物だった。


「着替えろ」

 静かな声が洞窟の中に響いた。

 蓮次は着物を睨んだまま動かない。怒りが込み上げ、血が沸騰するようだった。


「お前のせいだ……!」

 抑えきれない言葉が飛び出した。

「お前のせいで、こんな――!」

 声が途切れる。喉が詰まり、続く言葉が出てこなかった。


 気づけば涙が溢れていた。

 小さな体は感情に逆らえず、悲しみも怒りも限界を超えると、まるで堰を切ったように溢れ出した。

 それが悔しくて、拳をきつく握りしめた。


 朱炎は何も言わない。静かに、じっと蓮次を見つめていた。

 その視線が痛いほど胸に突き刺さる。


 やがて朱炎は背を向けた。

「早く着ろ」

 低い声と共に洞窟の出口へ向かう。その背中は広く、重々しく、何かを背負っているようだった。


 その姿に蓮次はぞっとする。

 遠い記憶の傷がうずき、心の奥で忘れていた痛みが暴れ出す。


 ――待って。


 記憶の影が、呪いのようにささやいた。


 ――置いていかないでくれ。見捨てないでくれ。


「待って――待って!」

 自分の叫びが耳に届いた瞬間、それは自分の声ではないような感覚に襲われた。


 蓮次は胸に手を当てた。心臓が壊れそうなほどに脈打ち、涙が止まらない。


(何だ……これは……俺が……?)

 朱炎は振り返った。その目は鋭く、けれども何かを見極めるように蓮次を見つめていた。


 蓮次は震える指で着物を掴み、慌てて羽織る。袖を通す手がぎこちなく、体の震えが収まらないまま。

 ふらつきながら朱炎のもとへ駆け寄る。

 気づけばその足元にしがみついていた。

 自分の体が勝手に動いた。


「……っ……」

 涙が溢れ、言葉にならない。体が小さく縮こまり、震え続ける。


 蓮次の身体が浮く。

 朱炎が蓮次を抱き上げたのだ。


(え?)


 冷たい腕に包まれる感触――恐ろしいはずなのに、不思議な安堵が胸に広がる。


(なんだろう?)

 蓮次は朱炎を見上げる。

 

 ――ずっと求めていたものに、触れることができたかのよう。


 蓮次は朱炎の胸に頭を預けた。

 朱炎の歩みは森の奥へと続く。

 

 蓮次は静かに目を閉じた。

  

 

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