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  作者: Yonohitomi
一章
28/166

31.命の在り処



冷たく湿った空気が肌にしみ込み、血の臭いが鼻腔を刺した。


全身にまとわりつく不快な感覚。ここが死の匂いに満ちた場所だと告げていた。


ぼんやりと霞んでいた景色が、少しずつ輪郭を取り戻し始める。


薄暗い洞窟の奥。身体は石のように動かず、腹部には鈍く重い激痛が走った。



「……っ……」



声を出そうとしても、喉が詰まったように音にならない。震える手をそっと傷口にやると、指先にぬるりとした感触が残った――血だ。


止まっていない。



ふと視界の端に人影を捉えた。


薄暗がりの中。それは、朱炎だった。その目は冷え切っており、感情をうかがうことはできない。



「目覚めたか」



その声は低く、冷えた刃のようだった。朱炎の手には、赤黒く濡れた肉片が握られている。


朱炎はそれを無造作に投げ、蓮次の目の前に転がした。



「食え」



短い一言に、圧倒的な力が宿っている。



蓮次は息を呑んだ。その赤黒い肉片――それが人間のものだと、本能的に理解できた。



(……そんな……こと、できるわけがない……!)



「お前はもう鬼だ。人の食事は合わない」



静かな声だったが、その重みは否応なく蓮次を押し潰した。

蓮次は傷口の痛みに耐えながら、それでも首を振り続ける。



「……人間を…食べる…くらいなら………死んだほうが…マシだ……」



自分でも驚くほど弱々しい声。だが、蓮次の胸の奥にある小さな火が、まだ消えていないことを示していた。

朱炎はしばらく黙って蓮次を見つめていたが、やがてゆっくりとその場を離れた。



「好きにしろ」


「…………」



蓮次はかすかな安堵を覚えたが、それはすぐに消えた。痛みは鋭さを増し、体温が奪われていく感覚が止まらない。血は止まらず、意識が遠のき始める。



(どうして俺は、生まれてきたんだ……)



体中を覆う痛みと冷たさの中で、蓮次は虚空を見つめ、心の底から思った。


今までの人生を思い返してみた。自分の命は誰にも喜ばれなかったのではないか。誰かのために役に立った記憶もない。ただ、血と憎しみに絡め取られた命の残骸のようなものだ。



(もう、いいか――)



そう思った瞬間、再び冷たい足音が響いた。



「半端者め。放っておいても死ぬだけか…」



独り言のように静かに呟きながら膝をつき、蓮次の胸に手を置いた。



「や、め……ろ……!」



蓮次は全身を震わせながら必死の思いで抵抗した。だが、その声は朱炎には届かない。


体の中に燃えるような熱が流れ込む。

鬼の力が注がれると、血液が逆流するような感覚と共に全身が痙攣し始めた。息が詰まり、痛みと熱に焼き尽くされるかのような感覚が襲う。



「っ……!!」



声にならない声が洞窟の中に響く。傷口から血が再び噴き出し、地面を赤黒く染めた。



だが、やがて血の流れが止まり、傷口がゆっくりと塞がっていく。痛みは徐々に引き、代わりに全身が重くなるような感覚が残った。



蓮次は限界を迎えたように力尽き、気絶するように深い眠りに落ちていく。



朱炎はその様子をじっと見つめていた。鋭い瞳には感情の揺らぎはなく、ただ冷徹な観察者として。



「拒むたび、苦しみは増す……」



短く呟くと、朱炎はゆっくりと背を向けた。


洞窟の奥深く、静寂が再び二人を包み込む中で、朱炎の独り言は続いていた。



「やはりお前は、私を恨んでいるのだろう…」と。




____




「おお? やっと起きたのか。寝過ぎだろ」

しゃがれた声が、冷たい洞窟内に響いた。その声を追いかけるように、もう一つの声が同じ言葉を繰り返す。


「寝すぎだろ」



蓮次の視界には、奇妙な醜い姿の鬼が二体現れていた。双子のようにそっくりだが、片方は太りすぎた腹が醜悪なまでに膨らみ、もう片方は骨の浮き出た細い身体が異様さを増している。


蓮次は目を覚ましたものの、体を動かす力がなく、ただその二体の鬼を黙って見ているほかなかった。


一体が口を開けば、もう一体がすぐに追いかける。



「肉の匂いがしたから来てみたら、朱炎様に会っちまった」


「朱炎様に会っちまった!」


「そしたら、俺たちにお前を見張れってさ。ほら、朱炎様が戻るまでここにいろって」


「ここにいろって!」



二匹は勝手に喋り続け、声を反響させるように交互に繰り返す。その騒がしさに蓮次の頭は余計に重くなり、苛立ちが募った。


傷は塞がっているはずなのに、体の奥底に鈍い痛みが残り、動くのも億劫だ。何とか寝返りを打とうとすると、首に激痛が走った。



「……っ!」



声にならない声を漏らし、動きを止める。頭はぼんやりとして、どうでもよくなってきた。だが、その中でも耳元で繰り返される鬼たちの不快な声が鬱陶しい。



「うるさい……」


「見張り、ご苦労」



蓮次が呟いたのと同じタイミングで、朱炎が姿を現した。


朱炎は冷え切った瞳で二匹の鬼を見やり、手に持っていた何かを鬼たちに投げ与えた。



――それは、泣き声をあげる赤子だった。



二匹の鬼は目を輝かせ、下品な笑い声を上げた。



「ははっ! 朱炎様の土産はいつも上等だ!」


「上等だ!」



蓮次の胸に怒りの炎が燃え上がっていた。



(どうして……こんなことが……!)



目の前で繰り返される非情な行為。朱炎が人間の命を、あまりにも簡単に弄ぶ光景に、蓮次の心は沸々と煮えたぎる。


あの神社でもそうだ。赤子を躊躇いなく殺していた。その忌まわしい記憶が鮮明に甦る。



(人の命をなんだと思っている……!)



蓮次は身体を無理やり動かし、傷の痛みを無視して起き上がろうとした。目には怒りが宿り、朱炎を睨みつける。



それを見た二匹の鬼が、腹を抱えて笑い始めた。



「やめとけ、やめとけ!」


「朱炎様にお前が勝てるわけないだろ!」



下品な笑い声が洞窟内にこだまする。


蓮次は苛立ちを抑えられず、身体を動かそうとしたが、首の激痛が再びそれを阻む。



「……っ……!」



顔を歪めた蓮次に向け、朱炎がゆっくりと歩み寄った。そして、何も言わずに手に持っていた酒瓶を傾け、蓮次の首のひび割れに酒を注ぎ込む。



「――!」



冷たい液体が首を焼くように染み渡り、その一部は顔にもかかった。蓮次の頬を伝い、滴り落ちて地面に染み込む。


それを見た鬼たちは、大笑いしながら口々に言った。



「おいおい、綺麗な顔が台無しじゃねえか!」


「台無しじゃねえか!」



笑い声を響かせながら、鬼たちは洞窟を去っていった。



蓮次は動けないまま地に伏せ、悔しさに歯を食いしばり、震える手で地面を掴んでいた。


朱炎はその様子をじっと見つめていた。その目には情けも怒りもない。ただ冷徹な瞳が、蓮次の姿を見据えている。



「……悔しいか?」



朱炎の低い声が洞窟内に響いた。蓮次は答えなかった。ただ俯き、拳を震わせるばかりだった。



 

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