表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
  作者: Yonohitomi
一章
27/166

30.逃亡の代償




森は深い静寂に包まれていた。月の光が木々の隙間を縫うように差し込み、地面にはまだら模様が浮かび上がる。冷たく湿った空気が鼻腔を満たし、苔と土の匂いがほのかに漂っていた。微かな風が葉を揺らし、その音がかえって夜の静けさを強調している。




蓮次の視界はぼやけ、意識は朦朧としていた。足を一歩踏み出すたびに全身が悲鳴を上げ、飢えと疲労がじわじわと心身を蝕む。



ついに膝が地面に沈んだ。



「……っ……動けない……」



声は風にかき消されるようにして、夜の闇に溶けた。


前を行く朱炎の足音が止まり、彼は振り返って蓮次を見つめる。



「……立てないか」



低く響くその声には、同情の色は微塵もなかった。

朱炎はため息をつくように一歩近づき、手を差し出す。その手には熱を帯びた気配があり、何かを送り込もうとしていることは明白だった。



「力を与えてやる。それで少しは楽になれる」


「……やめろ!」



蓮次は咄嗟に手を払いのけ、朱炎を睨んだ。疲労の極みにある身体が軋むが、拒絶の意思だけが蓮次を突き動かしていた。



「拒めば苦しむだけだ」



朱炎の声は冷たく、静かだった。事実だけを淡々と告げるその響きが、蓮次の胸に重く刺さる。



「なぜそこまでして、人間であり続けようとする」



その問いに、蓮次は言葉を失った。



――なぜ自分は人間でいようとするのか?



思いはある。しかし、それを言葉にする術が見つからない。



「……答えられないか」



朱炎はそれ以上追及せず、静かに背を向けて歩き始めた。だが、その進む方向は先ほどとは微妙に違っている。


蓮次は力を振り絞り、よろよろと立ち上がった。視界はますますぼやけ、意識は薄れ、足元はふらついている。それでも朱炎の背中を追わなければならない――なぜかは分からないが、そう強く思った。



やがて、森を抜けると古びた神社が目の前に現れた。


朱炎は迷いもなく神社の裏手へと進む。苔むした石段が月光を浴びて静かに輝き、風が止んだことで周囲はさらに深い静寂に包まれていた。


朱炎はふと立ち止まると、次の瞬間にはその姿を消した。




そして――




静寂を切り裂くように、小さな悲鳴が風に乗って聞こえた。



「……!!!」



蓮次の胸がざわめく。息を詰め、音のした方角を探るが、薄暗い中では何も見えない。



「どこに……行った……?」



焦りと恐怖が蓮次の心をかき乱す。あの悲鳴は何を意味しているのか。嫌な予感が募る。




恐る恐る神社の裏手へと向かった。


心臓が激しく鳴り、鼓動が全身に響く。




朱炎の手に握られていたもの――


それは、赤黒く濡れた「人」の一部だった。



――人肉だ。



蓮次は息を詰めた。朱炎の足元にはかすかな影が横たわっている。それは赤子だった。微かに動いているが、その命の灯火は消えかけている。



朱炎は目を細め、冷たく静かな声で言った。



「食え」



その一言に、蓮次の背筋は凍りついた。



「人の肉を喰らえば、お前は完全な鬼になる。痛みも飢えも、弱さも消え去る」



冷静なその声は、かえってその残酷さを際立たせた。



朱炎の手の中で光る肉片。蓮次は震える足で一歩後ずさった。



――こんなものを食べるくらいなら、死んだほうがマシだ。



心の中でそう叫びながらも、声は出ない。口を開けば、自分の弱さが言葉となって溢れ出してしまう気がした。



蓮次はただ朱炎を睨みつけた。震える指先。押しつぶされそうな心臓。だが、その一歩を後退した瞬間、蓮次の身体は本能的に動き出していた。




逃げる。



その決意とともに、蓮次は駆け出した。


疲労も飢えも忘れ、ただひたすらに走った。背後から感じる朱炎の圧倒的な気配を振り切るように。


木々の間をかき分け、苔むした地面を踏みしめ、冷たい夜風が顔を切り裂くように吹きつける。肺は焼けるように痛く、呼吸は限界に近づいていた。それでも止まらなかった。



――あれを食べたら、俺は俺でなくなる。



その恐怖だけが蓮次の身体を突き動かしていた。振り返らない。ただ前へ、さらに遠くへ。朱炎の冷たい視線を振り切るために。




どれほど走っただろうか。足元がふらつき始めた頃、背後に感じていた朱炎の気配が途切れていることに気づいた。



蓮次は一つの木に手をつき、乱れた呼吸を整えようとした。胸が上下し、汗が冷たい風にさらされて体温を奪っていく。視界は揺れているが、一瞬だけ安堵が胸に広がる。



「……逃げ切れた、のか……?」



その時だった。



「逃げるつもりか?」



まるで耳元で囁かれたかのような声が響いた。



「愚かだ…」



次の瞬間、蓮次の身体に強烈な衝撃が走った。



朱炎の手が、蓮次の腹部を貫いていた。



「っ……!」



体から一気に力が抜けていくのを感じた。温かい血液が腹部から流れ出し、口の中に鉄の味が広がる。視界はぼやけ、手足は重く、身体が冷たくなっていく。



蓮次は何とか意識を繋ぎ止めようとしたが、全身を襲う痛みと喪失感が、思考を次第に奪っていく。



「お前にはまだ時間がある。無駄にするな」



朱炎の声は遠く、冷たく響く。だが、その言葉の意味を深く考える余裕は蓮次にはなかった。



――俺は、ここで終わるのか?



目の前の世界が闇に沈んでいく中、蓮次は静かに意識を失った。







評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ