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  作者: Yonohitomi
一章
27/177

33.崖の縁、闇の底



「ここは! どこだ……」


 ついさっきまで目の前にあった朱炎の姿が、今はどこにも見当たらない。


 冷たい汗が背筋を伝う。突然の事で、何が起きたのか分からない。


 しかし、あの鬼から逃げ切れたのだろうかと安堵した。

 なのに、また耳元で聞こえるあの低い声。


「逃げぬのか?」


 心臓が凍りついた。蓮次は反射的に駆け出した。

 もう何かを考えている余裕がない。

 足元の土を蹴り上げ、必死に走る。


 体中の筋肉は悲鳴を上げている。それでも無我夢中で足を動かした。


 もっと速く!

 もっと遠く!


 だが、その必死の努力はすぐに嘲笑で打ち砕かれる。またぴたりと距離を詰められて――


「ただ逃げるだけか? もっとできることがあるだろう――集中しろ」


 耳元で告げられる。そしてなぜか、もう恐怖も怒りも湧いてこない。それよりも――


(!?)


 何を言っているのかと疑問が浮かび上がる。


(集中? できること?)


 逃げるだけで手一杯の自分にそんな余裕があるとでも思うのか?


 蓮次の眉がひくつき、奥歯を噛みしめた。


 ――朱炎があの時、目の前から忽然と消えたのはどうしてだ? 


 思い返せば、朱炎はいつだって気配もなく、音も立てず、突如現れていた。まるで空間そのものを飛び越えるように――。


 瞬間移動――?


 胸がざわめき、冷たい汗が伝う。

 鬼は、そんなことまでできるのか?


(なら、もしかして――俺にも?)


 心臓が鼓動を打つたびに、全身に血が巡るような感覚。冷たさと熱が入り混じり、胸の奥に渦を巻く。


 やってみろ!俺にもできるはずだ!


 強く脳内で反響する。さっき朱炎の前から消えたあの瞬間、たしかに自分の中で何かが弾けた。それを思い出せ、と。


 脚を止めることはできない。とにかく意識を集中する。


 すると突然、景色がぐにゃりと歪んだ。

 空気が濃密に変化し、足元の感覚が消える。視界を覆う赤と黒い光――。


 次の瞬間、蓮次の体は宙に浮いていた。


「――!?」


 見下ろすと、足元は崖。大地の裂け目が広がり、崩れ落ちる岩が見える。


(――しまった!こんなところに!)


 そう思った時にはもうすでに滝壺へと滑り落ちていた。

 迫る水面、轟音。一瞬にして蓮次を飲み込んでいく。

 襲いかかる水塊の合間から上を見上げると、崖の縁に朱炎の姿があった。

 暗闇に溶け込むその瞳が、ひどく冷ややかに、だがどこか満足げに笑っている。


 蓮次は歯を食いしばり、心の中で叫んだ。


 ふざけるな――!

 俺はお前の言いなりにはならない!絶対に!


 蓮次の体は、容赦なく水塊に叩きつけられた。

 全身が痛みで悲鳴を上げた。だが、それ以上に鋭い痛みが走ったのは、途中で大きな岩にぶつかった時だった。


「……っ!!!」


 鈍い衝撃が左肩を襲い、骨が砕ける感覚が全身を広がった。ひびが入ったのかもしれない。痛みが鋭い刃のように肩から全身へと広がり、呼吸が止まる。


 声を上げる暇もない。

 水の冷たさは骨に染み渡り、血の巡りを鈍らせていく。

 もがこうとする意志はすぐに削がれ、体の動きが鈍り始める。

 視界の端で泡が弾け、耳には激流の音が轟いていた。


(もう……無理だ……)


 思考も遠くへ流される。元々限界だった体力も、わずかに残っていた気力も、全て流されていく。


(……もう……いい……)


 だが突然、強い力が襟元を掴んだ。


 蓮次は一瞬息を呑んだが、次の瞬間には激しい痛みと共に背中から岩へ叩きつけられていた。


 ガッッ――!


 左肩から響く嫌な音。激痛が全身を駆け巡り、息が止まる。


「っぐ、っ――!」


 叫びも喉の奥でつかえ、全身が痺れる。肩に入ったひびが、今度こそ完全に折れたのだろう。痛みは骨の奥底まで刺し込み、全身が焼けるようだった。


「……っ!!」


 蓮次はその場に崩れ落ち、反射的に体を丸めた。肩を抱え込むようにして震えながら、顔を歪める。

 激痛が波のように押し寄せ、意識が遠のきそうになる。


 もう何もかもが限界だった。


 屈辱。絶望。痛み――すべてが積み重なり、怒りまで音もなく砕けていく。


(俺が……何を……した……?)


 声にならない問いが胸の奥で何度も反響する。やがて、掠れた声が震える唇からこぼれた。


「……俺が……何を……したっていうんだ……」


 それはもはや声とは呼べないほどの、消え入りそうな音。悔しさと、限界を超えた疲労の混じった、搾り出すような響きだった。


 朱炎は、ただ黙って見ていた。

 憐れみの色もなく、怒りもない。底しれない静けさの中、やはり薄らと笑みを浮かべるだけで。


「殺せよ……」


 かろうじて残った意識が、怒りと悲しみを綯い交ぜにして言葉を吐き出させた。唇が血に濡れる。


「殺せばいいだろ……」


 朱炎の沈黙は続いていた。

 蓮次は朱炎の無言に耐え切れず、目を閉じたままうつむき、震えた声で繰り返す。


「こんな……こんな世界……俺には……いらない……」


 肩の痛みが燃えるように熱い。だが、その痛みさえも、今の蓮次にはもうどうでもよかった。


 心に、黒い霧が絡みつくように広がり始める。

 胸の奥から黒いものが湧き上がってくるのが分かる。


 初めての感覚――喉元を這い上がるような怒りと、すべてを呪い、憎む感情。それはどこにも出口を見つけられず、心の中で渦を巻き、広がっていく。


(なんだ……これは……?)


 ただ沸き立つ憎しみの感覚だけが鮮明だった。

 朱炎の姿も、無力な自分も――すべてが憎い。世界が憎い。


 蓮次の周囲に、黒い気配が滲み出し、形の見えない影がうごめく。


 その異変に朱炎がすぐに気づき、歩み寄る――

ためらうことなく蓮次の元へ。


 蓮次の体は地面に横たわったまま動かない。朱炎が伸ばした手がその胸に触れると、蓮次は反射的に肩を引いた。


「やめろ……もう、やめてくれ……」


 声はかすれ、痛みと恐怖で震えていた。


(まただ。またこの体に、鬼の力を押し込んでくるつもりなのか……)


 その時、朱炎の声が耳元で低く響いた。


「大人しくしろ」


 言葉には、真剣な響きが混じっている気がして思わず反抗するのをやめた。


(…………?)


 今までの彼とは何か違う。その微かな違いを、蓮次の本能がかすかに感じ取った。

 黙り込み、朱炎の指先が自分に触れる感触を受け入れる。


 朱炎の手はゆっくりと蓮次の背中に回り、支えるように彼の体を引き起こした。その瞬間、朱炎の掌からいつもと異なる気配が蓮次の胸に流れ込む。


「……!」


 何かが急に流れ込むと同時に全身を貫く激痛。

骨が砕け、細胞が軋むような感覚が蓮次を襲った。


「ぁあああっ!!!」


 喉の奥から絞り出される絶叫。

 その痛みは、過去にどんな苦痛を受けた時とも違っていた。


(やめろ――やめてくれ――!)


 細胞が悲鳴を上げ、意識が限界を超えるたびに、蓮次の心が何かに引き裂かれそうになる。


「っ……あ……!」


 やがて最後の声すら出なくなり、蓮次の意識はまた暗闇へと沈んでいった。


 静寂だけがその場に残った。


 朱炎の掌はまだ蓮次の胸に触れていた。彼は眉一つ動かさず、意識を失った蓮次の顔をじっと見下ろしている。




***



 ここは闇。何もない真っ暗闇。

 限界を迎えてここに逃げてきた。


 今回だけではない。いつもこの場所は、限界を迎えた時に辿り着く場所。


 けれど、ここにいるのは自分ではないかもしれない。

 何も見えない。聞こえない。

 自分が自分ではなくなる感覚に、身を任せ、漂う。


 暗闇の底から、ふと見上げると、白く光る場所があり、あれが元いた世界なのだろうと分かった。


 戻るべきか……。




***




「……っ!」


 体中が痛み、息ができない。

 蓮次は荒い息をつきながら目を開けた。視界がぼやけ、耳鳴りが頭の奥で響いている。


 全身を襲う鈍い痛みが凄い。咄嗟に左肩に手を伸ばした。そこから骨を砕かれた感覚が未だに抜けない。しかし。


(……折れて……いや、治っている……?)


 うつ伏せになった体を無理やり動かし、腕で自分を支えようとするが――何かがおかしい。


(腕が……)


 きと混乱に眉をひそめながら、自分の手を見下ろす。小さく、薄い皮膚。細く頼りない指先が震えていた。


「え……?」


 喉の奥から絞り出した声が、かすれ、幼さを帯びた響きに変わっていた。


 蓮次は腕を見比べ、次に、手のひらを開き閉じする。まるで誰か別人の手を見ているかのような感覚。


 心臓が跳ね、呼吸がさらに荒くなる。

 足の感覚も鈍い。

 着ていた着物は、体から滑り落ちていた。

 肩を覆うはずの袖が余り、手首がすっぽりと隠れている。腰の帯もすっかり緩んで、着ていた着物は自分を包むただの大きすぎる布と化していた。


「……は?」


 幼い声と共に、蓮次の目が見開かれた。

 



 

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