30.逃亡の代償
森は深い静寂に包まれていた。月の光が木々の隙間を縫うように差し込み、地面にはまだら模様が浮かび上がる。冷たく湿った空気が鼻腔を満たし、苔と土の匂いがほのかに漂っていた。微かな風が葉を揺らし、その音がかえって夜の静けさを強調している。
蓮次の視界はぼやけ、意識は朦朧としていた。足を一歩踏み出すたびに全身が悲鳴を上げ、飢えと疲労がじわじわと心身を蝕む。
ついに膝が地面に沈んだ。
「……っ……動けない……」
声は風にかき消されるようにして、夜の闇に溶けた。
前を行く朱炎の足音が止まり、彼は振り返って蓮次を見つめる。
「……立てないか」
低く響くその声には、同情の色は微塵もなかった。
朱炎はため息をつくように一歩近づき、手を差し出す。その手には熱を帯びた気配があり、何かを送り込もうとしていることは明白だった。
「力を与えてやる。それで少しは楽になれる」
「……やめろ!」
蓮次は咄嗟に手を払いのけ、朱炎を睨んだ。疲労の極みにある身体が軋むが、拒絶の意思だけが蓮次を突き動かしていた。
「拒めば苦しむだけだ」
朱炎の声は冷たく、静かだった。事実だけを淡々と告げるその響きが、蓮次の胸に重く刺さる。
「なぜそこまでして、人間であり続けようとする」
その問いに、蓮次は言葉を失った。
――なぜ自分は人間でいようとするのか?
思いはある。しかし、それを言葉にする術が見つからない。
「……答えられないか」
朱炎はそれ以上追及せず、静かに背を向けて歩き始めた。だが、その進む方向は先ほどとは微妙に違っている。
蓮次は力を振り絞り、よろよろと立ち上がった。視界はますますぼやけ、意識は薄れ、足元はふらついている。それでも朱炎の背中を追わなければならない――なぜかは分からないが、そう強く思った。
やがて、森を抜けると古びた神社が目の前に現れた。
朱炎は迷いもなく神社の裏手へと進む。苔むした石段が月光を浴びて静かに輝き、風が止んだことで周囲はさらに深い静寂に包まれていた。
朱炎はふと立ち止まると、次の瞬間にはその姿を消した。
そして――
静寂を切り裂くように、小さな悲鳴が風に乗って聞こえた。
「……!!!」
蓮次の胸がざわめく。息を詰め、音のした方角を探るが、薄暗い中では何も見えない。
「どこに……行った……?」
焦りと恐怖が蓮次の心をかき乱す。あの悲鳴は何を意味しているのか。嫌な予感が募る。
恐る恐る神社の裏手へと向かった。
心臓が激しく鳴り、鼓動が全身に響く。
朱炎の手に握られていたもの――
それは、赤黒く濡れた「人」の一部だった。
――人肉だ。
蓮次は息を詰めた。朱炎の足元にはかすかな影が横たわっている。それは赤子だった。微かに動いているが、その命の灯火は消えかけている。
朱炎は目を細め、冷たく静かな声で言った。
「食え」
その一言に、蓮次の背筋は凍りついた。
「人の肉を喰らえば、お前は完全な鬼になる。痛みも飢えも、弱さも消え去る」
冷静なその声は、かえってその残酷さを際立たせた。
朱炎の手の中で光る肉片。蓮次は震える足で一歩後ずさった。
――こんなものを食べるくらいなら、死んだほうがマシだ。
心の中でそう叫びながらも、声は出ない。口を開けば、自分の弱さが言葉となって溢れ出してしまう気がした。
蓮次はただ朱炎を睨みつけた。震える指先。押しつぶされそうな心臓。だが、その一歩を後退した瞬間、蓮次の身体は本能的に動き出していた。
逃げる。
その決意とともに、蓮次は駆け出した。
疲労も飢えも忘れ、ただひたすらに走った。背後から感じる朱炎の圧倒的な気配を振り切るように。
木々の間をかき分け、苔むした地面を踏みしめ、冷たい夜風が顔を切り裂くように吹きつける。肺は焼けるように痛く、呼吸は限界に近づいていた。それでも止まらなかった。
――あれを食べたら、俺は俺でなくなる。
その恐怖だけが蓮次の身体を突き動かしていた。振り返らない。ただ前へ、さらに遠くへ。朱炎の冷たい視線を振り切るために。
どれほど走っただろうか。足元がふらつき始めた頃、背後に感じていた朱炎の気配が途切れていることに気づいた。
蓮次は一つの木に手をつき、乱れた呼吸を整えようとした。胸が上下し、汗が冷たい風にさらされて体温を奪っていく。視界は揺れているが、一瞬だけ安堵が胸に広がる。
「……逃げ切れた、のか……?」
その時だった。
「逃げるつもりか?」
まるで耳元で囁かれたかのような声が響いた。
「愚かだ…」
次の瞬間、蓮次の身体に強烈な衝撃が走った。
朱炎の手が、蓮次の腹部を貫いていた。
「っ……!」
体から一気に力が抜けていくのを感じた。温かい血液が腹部から流れ出し、口の中に鉄の味が広がる。視界はぼやけ、手足は重く、身体が冷たくなっていく。
蓮次は何とか意識を繋ぎ止めようとしたが、全身を襲う痛みと喪失感が、思考を次第に奪っていく。
「お前にはまだ時間がある。無駄にするな」
朱炎の声は遠く、冷たく響く。だが、その言葉の意味を深く考える余裕は蓮次にはなかった。
――俺は、ここで終わるのか?
目の前の世界が闇に沈んでいく中、蓮次は静かに意識を失った。




