29.月下の彷徨
「蓮次様、起きてください」
耀の冷静な声が耳に届く。
「……無理だ……動けない……」
蓮次はかすれた声で答えたが、耀はそれを無視するように近づき、片膝をついて彼の顔を覗き込む。
「体を動かせる状態ではないことは承知しています。しかし、朱炎様がお呼びです」
……は?…何のために?
怯えた表情で耀を見上げる蓮次。その視線に一切動じることなく、耀は無言で彼の腕を引き起こす。
蓮次は抵抗しようとしたが、体は思うように動かない。耀の冷たい手が腕を強く掴み、立ち上がるよう促してくる。しばらくして、蓮次は諦めたようにその手に体を預け、壁に寄りかかりながら立ち上がった。
「歩けますか?」
耀の淡々とした問いに、蓮次は小さく頷き、一歩を踏み出す。足取りは重く、全身を疲労が覆っている。
地下室を出ると、通路の先に朱炎が立っていた。
鋭い視線が蓮次に向けられると、彼は思わず足を止めた。
「ついてこい」
冷たく放たれた一言に、蓮次の心臓が一瞬跳ね上がる。
朱炎はそれ以上何も言わずに背を向けて歩き出した。
大きな背中から放たれる圧迫感が、蓮次の足を無理にでも動かさせる。
耀は、二人の背中を静かに見送った。
屋敷を出ると、冷たい空気が蓮次の肌を刺した。目の前に広がるのは暗く深い森。朱炎はその中へ迷いなく足を踏み入れた。
蓮次は恐る恐る後を追う。全身がだるく、傷ついた体は一歩進むたびに痛みを訴える。
それでも、止まることは許されないような気がしていた。
拘束が解かれた今なら逃げられるかもしれない――
そんな考えが一瞬だけ頭をよぎる。しかし、すぐに蓮次はその考えを打ち消した。朱炎の力を目の当たりにした記憶が、恐怖となって心に焼き付いている。自分ごときがあの男から逃げられるわけがない。
ただ歩くしかなかった。
木々の間を進む朱炎の背中を追い、痛みと疲労に耐えながら、森の中をひたすらに進む。
頭上で揺れる木々の葉が、かすかな風にざわめいている。
薄暗い森の中を、蓮次は朱炎の背中を追うように歩いていた。湿った土の匂いと、かすかな虫の声だけが耳に響く。
朱炎の足取りは一定で、迷いも疲れも感じさせない。
一方で蓮次は、体の奥から湧き上がるだるさに耐えながら、重い足を引きずるように進んでいる。
なぜこんなことに……
疑問が頭の中で渦を巻く。
鬼の頭領、朱炎――その存在感は圧倒的だ。
――あの鬼と二人きりで森を歩くなんて、これ以上不気味な展開があるだろうか。
何をされるのかわからない恐怖が、蓮次の胸を締め付ける。
「お前を連れていく」という朱炎の言葉が何を意味するのか、それすらもわからない。
ただ無言でその背中を追う。
森の湿った空気を吸い込むたび、不安はさらに膨らむばかりだった。
怖い……
心の中で呟いたその言葉が、余計に自分の弱さを痛感させた。
自分は鬼に攫われ、こんな異常な世界に放り込まれて、どうして生き延びることができるのか。
蓮次の歩みが遅くなったのに気づいたのか、朱炎が足を止めて振り返った。その赤い瞳が冷たく光り、蓮次は思わず息を飲む。
「遅いぞ」
低く、腹に響くような声。蓮次の体が自然と震えた。
「……す、すみません」
しぼり出すように謝ると、朱炎は冷たく鼻を鳴らしてまた歩き出した。
威圧感だけで心が砕けそうになる。だが、蓮次は拳を握りしめた。
――負けない。鬼になどならない。
その思いだけが、疲弊した心をわずかに支えていた。
やがて森を歩き続ける中、月が夜空にぼんやりと浮かび上がる。
単調な時間の中で、蓮次の痛みと疲労は意識を鈍らせていた。
朱炎の背中は、相変わらず堂々としていたが、その歩調はどこかゆったりしたものに変わり、鬼特有の凄まじい威圧感とは少し違っていた。
その背中を見つめていると、ふいに朱炎が立ち止まり、振り返ることなく口を開いた。
「…最近、鬼の力が弱まっている…」
蓮次は沈黙を守り、ただ彼の言葉を聞いている。
「各地で鬼一族が途絶えている。ただの異形のような低級鬼ばかりが増え、気品も知恵も失いつつある…」
頭領の声は、今までの冷たい響きとは違い、どこか悲しさを含んでいた。それは、鬼という存在に対する彼の絶望感を表しているようだった。
「かつての鬼は違った。力、気品、叡智を備えた存在だった。だが今――そんな鬼たちは少なくなった。醜悪なだけの鬼が、この世界に何をもたらすというのか…」
朱炎の声にはどこか重みがあった。怒りとも悲しみともつかないその響きが、妙に心に残る。
蓮次は依然として何も言わなかった。心の中で反論や抵抗の気持ちが渦巻いていたが、今は何も言うべき時ではないと感じていた。
ただ、鬼の話す言葉を冷静に受け止めている。
「このままでは我々も滅びる。いずれ、鬼という存在そのものが、この世から消え去るかもしれん」
朱炎が語る鬼の未来に興味はない。鬼が滅びようがどうなろうが、蓮次にとってはどうでもいい話だ。
だが、心のどこかがざわつくのを感じた。
朱炎の悲しみと誇り。その言葉の熱意が、ほんの少しだけ蓮次を引きつけた。
――自分が、この鬼に少しでも心を動かされるなんて。
そう思った途端、蓮次はわずかに眉をひそめた。鬼の言葉に心を動かされる自分が信じられない。
「だからこそ、お前のような力を持った者を必要としている。お前なら、かつての鬼の威厳を取り戻せるかもしれない。」
初めて振り返った朱炎の目には、蓮次に期待するような色が宿っていた。
それは、蓮次を単なる手駒として利用しようとしているのではなく、真に彼を鬼の一員として迎え入れようとしているかのようだった。
蓮次は戸惑った。
朱炎の言葉には、命令ではない、ある種の敬意さえ感じられた。単なる道具として利用しようとしているのではなく、彼を本気で仲間に加えたいと思っているように聞こえる。しかし。
――鬼になるなんてありえない。
蓮次の思いは揺らがない。
それでも朱炎の言葉が、心の奥に小さな動揺を生む。鬼たちが抱える「終わり」の悲しみ。その切実さに触れたことで、自分の中に新たな疑念が生まれつつあった。
蓮次は口を閉ざし、再び歩き出す朱炎の背中を追った。




