32.鬼ごっこ
「悔しいか?」
「…………」
朱炎は何も答えられないでいる蓮次を一瞥し、目を細め、腕を振った。
すると蓮次は足元がふわりと浮いたような感覚に目を見開く。いや、周囲の空間そのものが、突然後ろへと押し流されたのだ。
空気がわずかに揺らぎ、視界が一変する。次の瞬間には、蓮次は洞窟の外へ放り出されていた。
森の匂いが広がる。湿った土と腐葉土の臭いを風が運び、かすかな獣の息遣いが耳元で聞こえた。
目の前には、巨大な影――熊。
「――っ!?」
身を守る間もなく熊の爪が振り下ろされる。 血を求める瞳、開いた口から熱い息が吹きかかる。だがその刹那、蓮次の体が勝手に動いた。
視界が一瞬、赤い閃光に包まれた。
伸びた手刀が熊の喉を深々と貫いていた。 驚いて力任せに引き裂く。筋肉は裂け、血が滝のように噴き出し――
熊の咆哮が響き、それは重々しい音を立てて地に崩れ落ちた。
「……な、ん……だ……?」
蓮次の腕は赤黒く染まっていた。震える手のひらを見つめ、喉が乾いたように声が出ない。熊の瞳は、もう何も映していなかった。
「どうして……」
振り返ると、朱炎がそこに立っていた。無表情のまま、ただ蓮次を見下ろしている。その瞳の奥には、微かな笑みの影。
「お前は生き残った。それだけのことだ」
朱炎の言葉が氷の刃のように胸に突き刺さる。
「違う……違う! こんなの俺じゃない!」
蓮次は熊の死骸から距離を取り、地面にへたり込んだ。視界が滲み、胸の奥から何かが込み上げる。
熊を殺した自分――その姿があまりに鬼じみていた。息が荒くなり、全身がこわばる。
(俺は、人間だった…はず……なのに……)
指の感触が残る。あの温かい肉の抵抗。長く伸びた爪の先に染み込んだ血の匂い――それが恐ろしくて、何度も何度も手をこすり合わせた。
朱炎は無言のまま、その様子をじっと見つめている。蓮次の葛藤も叫びも、すべて見下ろしながら、表情ひとつ変えない。
「……やっとか」
声は低く、優しさもあり、嘲笑のようでもあった。
蓮次は地面に拳を突き、低くかすれた声で「ふざけるな……」と呟いた。
その言葉に朱炎は眉一つ動かさず、ゆっくりと歩み寄る。蓮次の目の前に立ち、また静かに言い放つ。
「鬼になれ、蓮次」
蓮次は顔を上げ、怒りの目で睨みつける。 ――いい加減にしろ、何度目だ!
「すぐ近くに村がある。お前が鬼だ。私を捕まえられなければ……何が起こるか、分かるだろう?」
「…………は?」
唐突すぎて分からなくなり、拍子抜けした顔になる。
この鬼はいつも何を言っているのか。
意味がわからない。
見上げれば、鬼はうっすらと笑みを浮かべていた。そして、次の瞬間には――その姿は消える。
「――!」
蓮次の体は反射的に動き、頭の中で考えが渦巻く。
(また人間を……!)
血が沸騰するような怒りが胸を突き上げた。
あの鬼、鬼ごっこでもやろうと言ったつもりなのか!?
ふざけるな――!
体中に残る疲労感を振り払い、蓮次は足を踏み出した。
村の方角と思われる方向へと全力で走り出す。
耳をそばだてる。
やがて遠くから悲鳴が響いた。
蓮次は息を切らしながら手当たり次第に家へ飛び込んだ。室内には母親と幼い子供が壁際に追いやられていた。震える体、見開かれた瞳。 ――生きている。
「お前たちは――」
蓮次が二人に尋ねようとした時、別の場所でまた悲鳴が――
(――またか!)
足音を響かせながら次の家へと駆け込む。そこでも若い男女が同じように隅へ押しやられていた。 傷一つ負っていない。
(なんだ? さっきから誰も襲われていない?)
蓮次の呼吸が荒くなる。心の中の疑念が膨らむ。
(まるで何かを試している?)
次第に胸の鼓動が高鳴り、己の耳にまで轟いた。
外へ出て通りを駆け抜ける。
すると森の入り口で、朱炎が立っていた。口元には余裕のある笑み。
蓮次の怒りは頂点に達した。
「――ふざけるな!」
喉から叫びを絞り出し、朱炎の方へ一直線に駆けようとする。
しかし。
蓮次が走り出すよりも早く、瞬間的に鬼の姿が移動する。
朱炎は蓮次の目の前に瞬間移動していた。
「!!」
息を吸う暇もなく朱炎に腕を掴まれる。その指先には冷たく、恐ろしい力が込められていた。
朱炎は微笑みながら囁いた。
「次は私が鬼だ。三つ数える間に逃げてみろ。……私に見つかれば、再び腹に穴が開くと思え」
その声は、底知れぬ冷たさと共に不気味な響きを持っていた。
今までの事は、蓮次が“鬼”の役であり、朱炎が逃げ回って遊んでいただけのこと――ここで初めて理解する。
「一つ」
気がつけば、低く数える声が蓮次の耳元で響いていた。
――逃げなければ!
蓮次は全身の痛みに顔を歪めながらも、朱炎の手を振りほどき、反射的に森の中へ駆け出した。
胸を突き上げる鼓動、荒れる息。木々の影が目の端を過ぎ去るたびに心臓が締めつけられる。
「二つ」
その声が遠ざかる。足音を響かせながら、蓮次は必死に走り続けた。
(くそ! 駄目だ。考えている暇もない)
――振り回されている!
体の節々が軋み、汗が滝のように流れる。 随分と遠くへ来れたはずと思い、走りながら振り返る。
朱炎の姿は見えなかった。
追いかけてこないのか?
疑念と安堵が頭をよぎる。
途端に疲労が全身を襲い、脚がわずかに遅くなった。
そのとき――
「遅すぎる」
朱炎が目の前に現れた。
「――!」
蓮次の瞳が驚きで見開かれる。だが、朱炎は一瞬たりとも隙を見逃さない。
鉄のように冷たい手が蓮次の肩を掴み、無慈悲に木へ叩きつけた。
「ぐっ……!」
背中を貫く衝撃と共に、鬼の力が朱炎の掌から流れ込む――焼けるような熱と、刺すような寒さの混ざり合う感覚。
だが、今回は――何かが違う。
痛みだけではない――何かが、体内で目覚めていく。
朱炎が蓮次に力を送るのをやめ、再び蓮次を掴もうとした時――それは起こった。
空気へ溶けるように。
蓮次の姿は、跡形もなく消え去っていた。
***
「…………」
朱炎の手は虚空を掴む。風だけが静かに吹き抜ける。
しばらくの沈黙の後、朱炎の口元がゆっくりと綻んだ。
笑みは、深く、冷たく、そしてどこか満足げだった。
遠い未来の出来事を見通すかのように。




