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  作者: Yonohitomi
一章
24/177

30.逃亡の代償



 森は深い静寂に沈んでいた。

 月の光が木々の隙間から細く差し込み、地面にはまだらな影が浮かび上がる。湿った夜気が鼻腔を満たし、苔と土の匂いが微かに漂っていた。風が葉を揺らす音だけが、かえって静けさを際立たせる。


 蓮次の視界は霞み、意識は遠のいていく。

 一歩踏み出すごとに身体が悲鳴を上げ、飢えと疲労がじわじわと心身を侵食していた。


 やがて膝が折れ、地面に崩れ落ちる。

「……っ……動けない……」

 掠れた声は風に溶け、夜へと消えていった。

 前を行く朱炎が振り返る。

「……立てないか」

 低く響く声に情けはない。


 朱炎は近づき、無言で手を差し出した。指先に宿る熱の気配から、力を流し込もうとしているのが分かる。

「力を与えてやる。少しは楽になる」

「……やめろ!」

 蓮次は反射的に手を払った。限界を越えた身体が軋む。それでも拒絶だけは曇りなく残っている。

「拒めば苦しむだけだ」

 淡々とした言い方が、かえって胸に重く落ちた。

「なぜそこまでして、人間であり続けようとする」

 そう問われても、言葉が出ない。


 ――なぜ、自分は人間でいたいのか。

 胸の奥にははっきりした思いがあるのに、形ある言葉に結ばれない。


「……答えられぬか」

 朱炎は追及をやめ、再び歩み出す。

 ただし向かう先は、先ほどとは違う方角だった。


 蓮次は歯を食いしばり、ふらつきながら立ち上がる。

 視界は歪み、足は頼りない。

 それでも朱炎の背を追わねばならないと理由もなくそう思った。


 やがて森を抜けた先に、古びた神社が現れる。

 苔むした石段が月明かりを受け、静かに光っていた。風が止み、周囲はさらに深い静寂に包まれる。


 朱炎は裏手へと進み、一瞬ののち、その姿が掻き消えた。


 ――そして。


 静寂を破る小さな悲鳴が、風に乗って届いた。


「!!」


 蓮次の胸がざわつく。

 息を詰め、音の方角を探るが、闇は何も教えてくれない。


「どこへ……行った……?」


 焦燥と嫌な予感が心を締めつける。

 蓮次は神社の裏手へと足を運んだ。

 鼓動が激しく鳴り、胸の奥を打ち続ける。


 朱炎の手に握られていたもの――

 赤黒く濡れた、それは紛れもない人の一部だった。


 ――人肉。


 息が喉で止まる。

 朱炎の足元には小さな影が横たわっていた。赤子だ。わずかに身じろぎするが、命の灯は消えかけている。


 朱炎は目を細め、冷ややかに告げた。

「食え」

 背筋が凍る。

「人の肉を喰らえば、完全な鬼になる。痛みも飢えも、弱さも消える」


 蓮次は震える足で一歩退く。

 ――こんなものを食らうくらいなら、死んだ方がいい。


 叫びたいのに、声は出ない。

 口を開けば、自分の弱さまで零れ落ちそうだった。


 蓮次は朱炎を睨み据えた。

 震える手。潰れそうな心臓。


 そして後退したその一瞬、身体は本能に引きずられるように動き――

 逃げた。


 森へ飛び込み、ただ走る。

 疲労も痛みも忘れ、夜気を切り裂くように。

 背後の圧倒的な気配を振り切るために。


 ――あれを食べたら、俺は俺じゃなくなる。

 その恐怖だけが身体を突き動かす。


 振り返らない。ただ遠くへ。

 遠くへ。


 どれほど走ったのか。

 足元が覚束なくなった頃、背後の気配が消えていることに気づく。


 蓮次は木に手をつき、荒い息を整えた。

 汗が冷え、体温を奪っていく。


「……逃げ切れ…た……のか」


 その時――

「逃げるつもりか」

 耳元で囁かれた。


「愚かだ」

 直後、腹部に凄まじい衝撃が走った。

 朱炎の手が、蓮次の腹を貫いていた。


「っ……!」

 熱い血が溢れ、鉄の味が口に広がる。

 視界は滲み、急激に力が抜ける。


「お前にはまだ時間がある。無駄にするな」


 遠ざかる声。

 意味を考える余裕はない。


 ――ここで、終わるのか?


 世界が闇に沈む中、蓮次の意識は静かに断たれた。


 

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