29.月下の彷徨
「蓮次様、起きてください」
「……無理だ……動けない……」
かすれた声で応じると、耀はその訴えを聞き流し、片膝をついて顔を覗き込んだ。
「今のあなたが動ける状態でないことは承知しています。しかし、朱炎様がお呼びです」
(は?……何のために?)
訝しげに眉を寄せて耀を見上げるが、耀は静かに蓮次の腕を取った。
抵抗しようとしても力は入らない。冷たく硬い指が腕を掴み、立ち上がれと命じるように引き起こす。
やがて蓮次は諦めたように体重を預け、近くの壁に身を支えながらようやく立ち上がった。
「歩けますか」
淡々と問われ、小さく頷く。足取りは重く、全身にまとわりつく疲労が骨の奥に沈んでいた。
地下室を出ると、通路の奥に朱炎が立っていた。
鋭い双眸が蓮次へ向けられた瞬間、思わず足が止まる。
「ついてこい」
鬼の頭領の一言に、心臓が跳ねた。
朱炎はそれ以上何も告げず背を向ける。圧迫感を纏った大きな背中が、否応なく蓮次の足を前へ押し出した。
耀は静かに二人の背を見送った。
「お気をつけて……」
***
屋敷の外へ出ると、冷たい夜気が肌を撫でた。目の前には暗く深い森が広がり、朱炎はためらいもなく歩みを進める。
蓮次は痛む体を引きずるように後を追うしかなかった。止まるという選択肢は、そもそも存在していない。
拘束が解かれた今なら逃げられるかもしれない――一瞬、そんな思いが頭をよぎった。
だがすぐにかき消えた。朱炎の力を見た時の記憶が、未だ焼き付いて離れない。
あの鬼から逃げ切れるはずがない。
ただ歩くしかない。
木々の間を縫い、湿った風を吸い込みながら、疲労と痛みに耐えて進む。
頭上で葉が擦れ、虫の声が遠く響く。
朱炎の歩みは揺るぎなく、衰えを見せない。
一方の蓮次は限界に近づき、足を引きずるたび体の奥が悲鳴をあげていた。
(なぜ、こんなことに……)
胸の奥で疑問が渦巻く。
鬼と二人きりで森を歩く――これ以上不気味な状況があるだろうか。
何をされるかわからない恐怖が胸を締め付ける。
無言の背中を追い続けるうち、不安だけが膨らんでいった。
さらに足が重くなる。
蓮次の歩みが遅くなったところで、朱炎が振り返る。
「遅い」
鋭い眼光に射抜かれ、呼吸が止まった。
「……す、すみません」
咄嗟に口から漏れた謝罪が、身体に染みついた屈服のようで、ひどく屈辱だった。
なぜ鬼に謝らねばならないのか――胸の奥が軋む。
やがて森を歩き続ける中、夜空に浮かぶ月が淡く輪郭を現す。
ただ鬼の背を追うだけの単調な時間の中で、痛みも疲労も蓮次の意識を鈍らせていった。
鬼の堂々とした背中は変わらないが、歩調はどこか緩やかになり、先ほどまで感じていた苛烈な威圧感は薄れていた。
見つめていると、朱炎がふと足を止め、振り返らぬまま口を開く。
「近頃、鬼の力が衰えている」
蓮次は黙って耳を傾ける。
「各地で一族が途絶え、残るのは知恵も品位も持たぬ下等な鬼ばかり。
かつては違った。力と誇りと叡智を備えた存在だった。いまや、醜さだけを残した鬼が増え続けている」
声音にはわずかに悲しみが滲み、鬼という種に抱く絶望が影を落としているように思えた。
「このままではいずれ滅びる。鬼という存在そのものが、この世から消える日が来るやもしれん」
鬼の未来など知ったことではない――はずだった。
それでも胸のどこかがざわついた。
誇りと悲しみを抱えた声が、意図せず心を揺らしたのだろうか。
――鬼の言葉に、心を動かされるなんて。
自分自身が信じられず、蓮次は僅かに眉を寄せる。
「だからこそ、お前のような力を必要としている。お前なら、かつての鬼の威厳を取り戻せる」
初めて振り返った眼差しには、確かな期待が宿っていた。
「鬼になれ、蓮次」
命令ではなく、願いにも似た響きだった。
単なる道具ではなく、同じ場所に立つ者として迎え入れようとしている――そんな意志が感じられる。
胸の奥で何かが揺れた。
だが結論は揺らがない。
――鬼になるなど、ありえない。
けれど。
滅びゆく者たちの悲しみを知ってしまった今、心の奥に小さな波紋が広がっていく。
蓮次は口を閉ざし、再び歩き出した朱炎の背中を追うしかなかった。




