23.鬼になるための儀式
気を失った蓮次は鬼の手下たちに抱えられ、朱炎が支配する薄暗い領域へと運ばれた。
鬼の住む屋敷だ。
時間がどれほど経ったのか分からない。
冷たい湿気が肌を刺す。蓮次は床の上でゆっくりと目を開けた。
視界はぼんやりと薄暗く、全身が重い。
動かない。喉が渇く。
体を起こそうとすると、両手首に冷たく硬い感触が伝わる。
見下ろすと、手足に重厚な鎖が巻き付けられていた。
「……ここは?」
かすれた声で呟き、蓮次は周囲を見渡した。
ここはおそらく地下牢。
空気は冷たく湿り、遠くで水滴が落ちる音が響いている。
夢の中で見た光景。
「また……夢か?」
震える声で自問したその時、背後から低い声が響いた。
「現実だ」
蓮次は驚き、顔を上げた。
そこにはあの鬼が立っていた。
漆黒の衣を纏い、闇そのもののような存在感。
赤い瞳が冷たく光り、蓮次を鋭く見つめていた。
「……誰?」
恐る恐る問う蓮次に、鬼の頭領は静かに微笑みながら言葉を紡いだ。
「夢の中で何度も私に会っているはずだ」
容貌は少し夢と異なるが、声は夢で聞いたあの声と全く同じだ。
あの赤目の鬼。
この鬼が夢に出てくる度、圧倒的な力と逃げられない恐怖を感じていた。
まさか、現実になるなんて――
「なぜ……ここに?」
「お前には特別な力が眠っている」
蓮次は困惑した。
鬼は言う。お前は鬼になるべきだ、と。
「俺が……鬼に?」
蓮次は信じられずに呟いた。胸の奥から、恐怖と絶望がじわじわと押し寄せてくる。
まるで、夢で見た事が、現実になっている。
「そうだ。人間を捨て、鬼として生きることを選べ」
ただ命令にも思えない、誘惑めいた響きが混じっていた。
鎖に縛られたままの体。
長くなった銀色の髪。
冷たく青白い腕に、鋭く尖った爪。
かつての自分ではない姿が目の前にある。
これは夢ではない。
鬼としての姿。
「こんなの……あり得ない……どうして?」
蓮次の震える声を聞いた鬼は微笑を深める。蓮次に近づき、ささやくように答えた。
「もうすでに人ではない。諦めろ」
その言葉を最後に、朱炎は地下牢を出ていく。
静寂が戻った。
蓮次は目を閉じ、自分の心と向き合い始めた。
渦巻く葛藤。それは人の心を失いたくないという思いと、鬼として目覚めざるを得ない現実。
夢だ、目が覚めたら元に戻っているに違いない。
蓮次はひたすらに願い、目を閉じた。
目が覚めれば、いつもの部屋にいるはず。父がいて、兄と弟がいて…。父と一緒に剣の稽古をして…。
だから、これは夢だ。いつもの悪夢だ。
しかし、目を覚ました蓮次の視界に飛び込んできたのは、異形の手。
現実が希望を打ち砕き、胸に重くのしかかる。
「夢じゃ……ないのか……?」
蓮次は震える声で呟き、醜く変わった右腕を見つめた。
その手は自分のものとは思えず、強烈な恐怖が心を覆う。
やがて耐えきれず、蓮次は頭を抱え込んだ。
また、部屋の扉が重たく開き、あの鬼が悠然と再び姿を現した。
近くの鬼が、その鬼の事を「朱炎様」と声をかけ、蓮次の様子について報告している。
やがて朱炎は冷たく無機質な眼差しを蓮次に向けた。
「姿勢を正せ」
恐怖と疲労で体は重い。
蓮次は動くことすらままならなかった。
全身の筋肉は硬直し、朱炎の視線を避けたい—心で縮こまる。
しかし、朱炎の手下2人が無言で近づき、無理やり蓮次を引き起こした。
立つことができない。
膝が震えて崩れそうになった。
手下に押さえつけられながら、膝を立てて座らせられる。
朱炎は蓮次の右腕を見た。
腕は異様に膨れ上がっていた。皮膚は緑色に変色し、筋肉が歪に隆起している。血管は黒く浮き出ている。
まるで異形のような腕。
朱炎は、ふとため息をついた。「まだまだだな」と言い、まるで見込みのない道具を扱うかのように冷笑した。
「力を拒むからだ。お前が鬼の力を完全に受け入れずに拒むから、このような半端者の姿になる……」
朱炎の声は静かだが、その言葉には明確な怒りが込められていた。
「俺は……人間でいたいんだ……!」
「…愚かだ。お前にその選択肢はない。すでに鬼の道を歩み始めている」
朱炎が一歩前に進むと、蓮次の体に圧倒的な威圧感がのしかかる。
蓮次は必死に抵抗した。
右腕が痛み始める。
肌の色が変色し始め、爪が黒く尖り、低級鬼のような不完全な姿に変わる。
「あまりにも醜い……お前の弱さそのものだ」
蓮次が恐怖に震え上がる中で、朱炎は容赦なく手刀を見せつけている。
「な、何を……!」
「決まっているだろう。お前のその半端な力を、一度断つ」
朱炎が冷徹に告げた瞬間、蓮次の右腕に鋭い閃光が走った。
右腕は朱炎の一太刀によって切り落とされた。
蓮次は凄まじい痛みに叫び声を上げる。
「ぐっ……うああああっ!」
切り落とされた腕はすぐに黒い煙を上げて崩れ去った。
蓮次は頭に叫び続けている。
暴れる体を、手下二人が押さえつけている。
しかし朱炎は一切動じず、その切断面に手をかざした。すると、赤黒い炎が生まれ、蓮次の傷口を焼き始めた。
「うああああっ!」
「痛みを感じるか? お前が鬼になるために必要な痛みだ」
炎は蓮次の体内に鬼の力を送り込むもの。
熱く、激しい力だった。
蓮次は痛みに耐えきれず、仰け反りながら叫び続ける。
「嫌だ!!!……っ!……あああっ!!」
地下の部屋に蓮次の叫び声が響き続ける。
やがて右腕が再び形を成し始めた。
しかし新たに生まれた腕も人間らしさは全くない。
今度は黒く輝く甲殻に覆われた異形のものとなっていた。腕全体からは禍々しい気配が漂っている。
蓮次の目には恐怖と憎悪が入り混じり、怒りが燃えていた。
「…俺は…鬼にはならない、絶対に!!」
朱炎は微笑みながら蓮次を見下ろした。
「そうか。だが、もうすでに鬼の体だ。それをどう使うかはお前次第だ」
新たな鬼の力が体中を巡っている。
変わり果てた姿に絶望した。
だが、心にはまだ人としての誇りが微かに残っている。
「俺は……鬼にならない……」
「いいだろう。その意志がどこまで持つか、見せてもらおう」
朱炎は満足そうに頷き、再び蓮次の腕を切り落とした。
「ああああああっ!!」
切り落とされた腕。
切り口から再び鬼の力が送り込まれる。
「っ……っ…!!」
細胞が壊れては再生する。ずっと。
まるで体の内部から何かに噛み砕かれているかのようだった。
しかし、蓮次の心は強い拒絶で満ちている。
「鬼にならない...」と心の中で何度も唱える。
いつまで繰り返されるのか…。
気が遠くなるほどの痛み。
これが鬼になるための儀式と言うのだろうか…。
やがて右腕は低級鬼のような醜い形にはならず、人間の姿に近い腕となった。
朱炎はその腕をじっと見つめると、満足とは程遠い表情でまた息を吐き出した。
「ひとまずはこれで良かろう...」
蓮次の体力は限界に達していた。
苦しみと絶望の中で気を失いかける蓮次を見下ろし、朱炎は淡々と「続きはまた明日だ」と冷たく言い放つ。そして、その場を去っていった。
押さえつけられていた腕が自由になる。
蓮次は暗闇に飲み込まれるように前に倒れ込んだ。
「嫌だ…。俺は…鬼になんか…なりたくない…」




