58.鬼の居ぬ間に(3)
穏やかな朝。
屋敷には夜の宴の余韻が色濃く残り、日々、上書きされていくようだった。朱炎が不在の間、鬼たちの飲み会は毎日のように繰り返されている。
耀は、信じられないというようにため息を漏らした。夜通し酒を飲み、疲れ果てるまで騒ぐことの、いったい何が楽しいのだろうか。
縁側に立ち、森の奥を見やる。
敵の気配は消え、結界も無傷。だが胸の奥のざらつきだけは消えずに残る。
耀は目を伏せた。
ふと、中庭の方から声が響く。
「よーっし! 今度は本気でいくぞ、蓮次!」
烈炎の豪快な声に続いて、蓮次の高い叫び声が返る。
「うわぁぁぁぁ!!」
目を向けると、庭の中央に筋肉と子供。
烈炎が蓮次を跳ね返し、地面に落とし転がしている。どうやら戦いの稽古らしい。
「おうおう、威勢はいいが動きがかてぇ! 腰をもっと低くしろ、こうだ!」
「うるさいなぁ! いまやろうとしたのに!」
烈炎の拳が勢いよく突き出されると、蓮次の体がくるりと回って尻もちをつく。
地面の砂が舞い上がった。
「ははっ、まだまだだなぁ!」
「わらうなぁ! つぎこそきめる!」
蓮次は顔を真っ赤にしながら再び立ち上がり、勇敢に突っ込んでいく。
蓮次の執念。小さな手が烈炎の脚にしがみついた。
「やった、つかまえた!」
「おっ、やるじゃねぇか。でも――甘ぇんだよ!」
「うぁぁぁ!!……ずるいっ!」
飛ばされて転がる蓮次は受け身を取り、すぐに起き上がって悪態をついた。
「でかいだけのくせに!」
「何言ってやがる! これが戦いってもんだ! はっはっはっ!」
烈炎が笑って蓮次の頭を軽く叩くと、ふてぶてしい顔がふにゃりとほころんだ。
(蓮次様は、成長している……)
二人を見つめつづける耀。
烈炎の蓮次への扱い方に厳しい目を向けつつも、その奥にはどこか安堵が滲んでいる。
朱炎と蓮次では、こうはならないだろう。朱炎の前では、常に蓮次は怯えている。修行というより拷問と呼べるような試練の数々。そこに笑顔はない。
朱炎の不在は、蓮次にとっては良かったのかもしれない――耀はそう思い、目尻を少し緩ませる。
そして、稽古の後に何か口にできるようにと、台所のような場所――水庵へと向かった。
「すまないが、水と、蓮次様が食べられるものを用意してくれるか」
水庵にいた女鬼に指示を出し、耀はすぐに引き返す。
「れつえん! こんどこそ、おれがかつ!」
中庭からは、荒々しさを増した声がした。
汗に濡れた額をぬぐいながら、拳を振るう蓮次。
「うぉりゃあーーーっ!!」
「ほう、やる気だな! だが、まだまだ俺には追いつけねぇぞ!」
「くそがっ! なめんなよ!! おれのほうがつぇーだろうがっ!」
ぴくり、と。
縁側に戻った耀の眉が動いた。
これは流石に見過ごせない。なんという口の悪さだろう。
耀の纏う気配がぴしりと鳴る。氷のように。
鋭く、冷たく、気の流れが止まり、固まる。
「蓮次様」
怒りの籠った低く、ゆっくりとした口調。
蓮次がびくっとして振り返ると、耀が冷ややかな表情で立っていた。
「その言葉遣い……どこで覚えたのですか?」
「あっ、えっと……れつえんのまねをしてみたんだけど……だめかな? へへっ」
笑って誤魔化そうとする蓮次を、耀はじっと見下ろしている。
烈炎が腹を抱えて笑った。
「おいおい、蓮次が俺の真似するなんて、大物の証拠だな!」
耀は烈炎に一瞥もくれず、冷ややかに言い放つ。
「いけません。蓮次様は朱炎様の御子であり、この屋敷を導くお方。言葉には品格が宿ります。皆がそれに従うのです」
「……う、うん」
「良いですか、蓮次様。烈炎のような頭の悪そうな汚い言葉を真似してはなりません。あれは猿です。そう、ただの猿」
「誰が猿だ!」
耀の真剣な表情の後ろから、烈炎が野次を飛ばす。
耀は振り返り、烈炎を睨んだ。
「烈炎。お前はもう少し――」
「へいへい、わかりましたよ」
烈炎は耀の言葉を遮り、投げやりに返した。
「烈炎! 話を最後まで聞け!」
「うるせぇなぁ。朱炎がいなくて情緒不安定ってやつか? どうした、落ち着きねぇじゃねぇか」
「なんだと!?」
「耀、まって、まって。うん、わかった! これからきをつける! だいじょうぶ。れんじはいい子だから、だいじょうぶだよ」
――しかし、この日を境に、蓮次の一人称は「俺」となった。
夕暮れ。
稽古の終わりを告げる風が、ひゅーっと吹いた。
「……もうだめ、つかれた……」
蓮次がその場にへたり込み、両手を広げて地面に転がる。
耀は小さくため息をつき、歩み寄った。
「よく頑張りました。さあ、部屋へ戻りますよ」
「いやだ。もうすこしここにいる」
「ここでは体が冷えますから……」
耀は腕を差し出し、蓮次を抱き上げようとした。だが蓮次は身体をねじって烈炎の方へ逃げてしまう。
しゃがんだ烈炎が、慌てて蓮次を受け止めた。
「おいおい、どうした?」
蓮次は烈炎の胸に顔を埋め、小さな声で訴える。
「耀、こわいから」
「なっ!?」
耀が思わず声を漏らした。烈炎は吹き出し、蓮次を抱え上げながら立ち上がる。
「ほら、見ろ。あの耀様が泣きそうだぜ?」
「……勝手なことを言うな」
耀は口を引き結び、腕を組む。
しかし、蓮次は二人のやり取りに興味がないらしく、烈炎の腕の中でもぞもぞと動き、ぽつりと呟く。
「れつえん、あせくさい」
烈炎が固まる。
「は? おまえ今なんつった?」
「だって、あついし……におうもん」
烈炎は苦笑しながら蓮次の頭を軽く小突いた。
「こいつぁ手厳しいな。戦いの汗の匂いってやつだ、覚えとけ!」
「だめ。くさい」
蓮次は「臭い臭い」と言いつつも、烈炎の胸に顔を埋めたまま、なぜかすりすりと頬を押し付けている。目を擦りながら。
どうやら眠気と戦っている最中のようだ。
「耀だって……れつえんのこと……におい、くさい……おもってる……ね」
「あ、え? はぁ……」
耀が答えあぐねていると、烈炎はその様子を見てにやりと笑う。
「へへ……こりゃ、敵わねぇな」
烈炎が蓮次を部屋に連れ戻し、耀がそれに続く。
今宵もまた、鬼の宴が始まるだろう。
穏やかな日を過ごしたことで、耀も気が緩み始めていた。――羽目を外すことも、あるかもしれない。
 




