57.鬼の居ぬ間に(2)
鬼たちのどんちゃん騒ぎは、夜通し続いた。
庭には空の酒瓶が散らばり、石畳の上には酔い潰れた鬼たちが転がっている。
それでも、血生臭さのないのがこの一族の奇妙なところだ。見た目には獰猛な者でも、意外と品性を欠かない。朱炎の指示と耀による教育、そして紅葉が命の重さを教えたことが、少しずつ根づいているのだ。
蓮次はというと、最初こそ賑やかさに目を輝かせていたが、やがて疲れ果て、いつの間にか眠り込んでいた。
気づけば、柔らかな感触に頭を預けている。目を擦ると、視界の先に烈炎の顔があった。
「……烈炎?」
掠れた声で名を呼ぶと、烈炎は面白そうに片眉を上げた。
「おう、やっと起きたか。お前、途中で寝ちまったからな」
その声に続くように、大人たちの笑い声が聞こえた。どうやら、烈炎の膝の上で眠っていたらしい。
庭を見れば、まだ騒ぎ続けている鬼もいれば、倒れたまま動かない鬼もいる。
朝の光がうっすら差し込み、宴の熱気を冷ますように、庭の空気が澄んでいた。
「耀は?」
蓮次が辺りを見回すと、烈炎が答える。
「外だ」
蓮次の眉がわずかに動く。
昨夜、耀に“遊んではいけない”と注意されたのを思い出した。けれど、その約束を守らず、烈炎たちと遊びに夢中になってしまった。今になって胸の奥が、少しだけ痛む。
「……耀に、あやまらなきゃ」
そう呟いて、蓮次は烈炎の膝から降りようとした。
だが、烈炎の腕が素早く伸び、彼の身体を片腕で抱え上げる。
「ったく、勝手に行くな。俺が連れてってやる」
蓮次は抵抗しかけたが、烈炎の力には敵わない。
仕方なくそのまま抱えられ、烈炎の肩越しに屋敷の庭を見た。
烈炎は背後の鬼たちに一声かける。
「何かあったらすぐ動け。……念のためにな」
短い命令のあと、烈炎は結界の外へと歩み出た。
一方その頃。
耀は薄明の空の下にいた。
警戒の糸を張り詰めたまま、朝の光を迎えた。
風の流れが変わるたび、鋭く目を細める。
敵の視線――確かに昨夜、感じたのだ。どこからか誰かに見られていた。
だが、気配は霧のように消えてしまった。掴みどころがなかった。
朱炎の結界は完璧だ。それを破る術を持つ者など、そう多くはない。
(きっと、鬼を討つ者の仕業だ。朱炎様の留守を知り、屋敷に残る鬼を狙っている。やはり蓮次様を……)
耀の感覚――嫌な予感は外れたことがない。
何かが蠢いている。そう感じたからこそ、夜が明けても屋敷には戻らず、ずっと外を見張っていた。
木立の影には、烈炎の部下たちが待機している。
まだ若い鬼――朱霞と灰羅。烈炎が自ら鍛える歳の近い兄弟鬼で、実力も申し分ない。
耀は声をかけた。
「何か感じたか?」
朱霞が首を横に振り、灰羅が低く答える。
「気配はありません。何も」
「……そうか」
耀はわずかに息をついた。
何も起きなかったという安堵と、説明のつかない不安が胸の中で混ざり合っていた。
その時、ふと背後から気配。
烈炎と、その腕に抱かれた蓮次の姿が現れる。
「耀、きのうはごめんなさい」
蓮次は烈炎の腕の中から身を乗り出して謝った。耀を真っすぐに見つめる。自分を常に守ろうと奔走してくれる彼は、大切な存在なのだ。その彼の表情に不安や焦りが見え隠れしているのを、蓮次は幼いながらも見逃さなかった。
だから、はっきりと言わなければと――。
「ありがとう、耀。みんな、たのしくあそべた。耀のおかげだ。だから、耀はすこしやすめ」
拙い命令口調。耀はほんの僅かに息を呑んだ。
どこか朱炎の面影を感じさせ、幼いながらも“主”の片鱗を垣間見せる。
耀は驚きを押し隠すように、静かに頭を垂れた。
「承知しました。屋敷に戻りましょう、蓮次様」
烈炎はそのやり取りを見て、鼻で笑った。自身も耀の顔色を見て、少しでも休ませようと思っていたのだ。
(ちぃせぇのに、先越されたぜ……)
烈炎はからかいの言葉を飲み込み、ひとまず蓮次を耀に預けた。
「ほらよ、頼むわ」
「……あ、ああ」
耀は蓮次を抱き上げ、屋敷へ戻った。
その夜も、祭りは続いた。だが警戒を怠るわけにはいかない。
耀は烈炎に敵の気配があったことを伝え、見張りを増やすよう指示した。
当然、烈炎も自ら見回り、例の視線とやらを探る。だが、風が草を揺らす音だけで何もなかった。
烈炎が屋敷に戻る頃。
耀は蓮次に「外に出るな」と強く言い聞かせ、烈炎と交代して再び見張りについた。
耀は一人、木の上から、時に結界の境界線に立ち、無音の世界をじっと見つめる。
何も起きない。かえって不気味だった。
「静けさ」は嵐の前触れ――耀はその理をよく知っている。
(杞憂であれば良いが……)
夜が明け、屋敷に戻れば相変わらず危機感のない下っ端が飲んだくれて伸びている。
耀はその有様にため息を漏らしたが、同時に少し肩の力が抜けたようでもあった。
(このまま、何もなければいい……)
朱炎が留守にしている今、ここは一族の中心であり、蓮次の居場所だ。
ここを狙われればすべてが崩れる。
今回の朱炎の旅は、ただの巡行ではない。「次なる時代」を見据えた計画の一部――その意味を、耀は誰よりも理解している。
もし敵が攻めてきたら、朱炎は必ず戻るだろう。
どんなに遠くにいても、蓮次や一族の危機を感じ取れば、彼はすぐに帰ってくる。
それは、計画の破綻を意味する。自分の不手際でそれを遮ることになる――耀はその重さを噛みしめていた。
だが、凝り固まった表情を解すのは――
「よーーーうーーー!」
「おい! こら! 待ちやがれ!」
蓮次と烈炎の、動物じみた鬼ごっこである。
(はぁ……全く……)
その騒がしさが、耀には救いに思えた。
  
遠い山裾。
術師たちはひっそりと動き始めている。
派手な戦いでは鬼に勝てない。人は知恵を絞り、鬼に立ち向かわなければ。
返り討ちに遭えば命はない。だからこそ、気づかれぬように。あたかも何も起きていないかのように。
影に潜む人間たちは、鬼の“隙”を探している――。
 




