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  作者: Yonohitomi
二章
165/166

56.鬼の居ぬ間に(1)



 誰もが息を潜め、朱炎の足音が遠ざかっていくのを耳をそばだてて聞いていた。


 もういいだろう。いや、まだだ。

 “鬼”の足音が完全に消えるまで、息を殺したまま、あと少し。


「……行ったな?」


「……行ったか?」


 ごつごつと体の大きな男鬼たちがひそひそと話す。囁き声が一つ、二つと増え、やがて風が通り抜けた。


 それが合図だった。


「おおおおおぉぉぉぉ!!」と爆ぜるような歓声が上がる。


「朱炎様が出かけられたぁぁぁ!!」


「今夜は自由だ!!」


 堰を切ったように鬼たちが動き出した。まるで溜め込んだ鬱憤が一斉に弾けたかのようだ。

 男鬼たちは大盛り上がりで森へと駆け出した。


「待て! 何をしに行く気だ!」


 耀の鋭い声が響く。


「狩りですよ耀様! せっかくの機会ですぜ? ほら肉だ、肉!」


 近くに残っていた鬼が答えると、すぐに「肉だ、肉だ!」と叫びながら森の奥へ消えていった。


 振り返れば、女鬼までもが「今夜は宴よ!」と浮かれて声を上げている。


「馬鹿者。今そんなことをしている場合か! 朱炎様の留守中に何かあればどうするつもりだ」


「大丈夫ですよ、耀様。耀様も少し気を休めたらどうです?」


 耀の叱責を尻目に、さらに多くの鬼たちが笑いながら森へ消えていった。

 こんなにも能天気な者ばかりだっただろうかと、耀は黙り込む。


 朱炎が結界を張った日から、皆がどこか過ごしづらそうにしているのは分かっていた。だが、それは一族を敵から守るためのもの。鬱憤が溜まるというのはおかしいだろう。


 ましてや、今回の朱炎の不在は長期に及ぶ。何かあってからでは遅いのだ。

 先日、不穏な気配を察したばかりでもある。

 それなのに、主の長期不在をむしろ喜んでいる者たちがいる。


(……朱炎様の意図を理解できる者は、いないのか)


 苛立ちのようなものを感じ、耀は目を閉じて目の前の騒ぎを拒んだ。

 その時、ふと袂を引っ張られる。見下ろせば、泥まみれの手で涙を拭う蓮次がいた。


 朱炎の不在で皆が浮かれて騒ぐ中、蓮次だけが喜べずに意気消沈している。


(無理もない……)


 耀は蓮次を抱き上げると、そっと頭を撫でてやった。


 その頃、女鬼たちは酒蔵に向かい、重たい樽を引きずり出して手際よく火鉢で温めていた。

 立ちのぼる湯気には鬼酒特有の甘い香りが混じり、庭全体にふわりと広がり始める。


 鬼酒。朱炎一族の力を象徴する赤の酒だ。ひと口で酔い、二口で心が燃える。

 盃の中で炎のように揺らめく赤。飲む者の血をたぎらせ、魂を奮い立たせるものだ。


 その隣では、青い光を纏う冷酒が注がれていた。

 赤とは対照的に静けさを宿す酒である。口にすれば舌の奥でひんやりと広がる。

 もし人が飲めば、一口で氷のように凍てつくだろう。


 さらに、もうひとつ。小鬼たちのためのものがある。白く濁った柔らかな香りの酒――いや、酒ではない。

 子鬼にも許される“甘酒”だ。米麹の甘やかな香りがふんわりと立ち上る。


 宴の準備は着々と進んでいるようだ。

 耀がため息をついた時、足元を小鬼たちが駆け抜けていった。




 やがて、一陣で狩りに出た鬼たちが戻ってきた。

 肩に担いだ鹿、猪、山鳥を軽々と放り投げる。地に落ちた瞬間、どん、と鈍い音が響いた。


 それを待っていた鬼が手際よく肉を捌き始める。待ちきれぬ者はそのまま肉を掴み取り、豪快に齧りついた。


「焼け! 焼け!」と叫ぶ声。


「肉だぁぁぁ!!」


「火を起こせぇぇ!」


 焔を操る鬼が宙に鬼火を灯す。火の輪が広がり、肉のある場所へと到達した。

 香ばしい肉の匂いが茜の空に溶けていく。


 歓声とともに焚き火がいくつも灯り、どこからともなく鬼火を宿した灯籠が集まる。


「おおおおおおおおお!!!」


 宴はすでに始まっていた。


 空が移ろい、騒がしさを増す中で、星々も祭りに参加する。


「耀様もいかが? 今夜くらいは……」


「遠慮する」


「もう、真面目なんだからぁ!」


 笑い声があがった。耀は眉をひそめた。

 そんな耀の肩に、烈炎が腕を回した。


「いいじゃねぇか。皆、溜まってたんだよ」


「だが、朱炎様の不在に乗じて……」


「おう、騒げ騒げー! 今日は祭りだぁ!」


 烈炎が声を張ると、周囲の鬼たちが「おおぉ!」と歓声で答える。


「烈炎! 聞いているのか!」


 耀が声を荒げる。目には怒りと焦りが混ざりあい、普段の落ち着きは皆無である。


「敵が攻めてくることを考えないのか? 朱炎様がいない今こそ——」


「それも分かってる。だがな」


 烈炎は盃を揺らし、焚き火を見ながら目を細めた。


「皆、張り詰めすぎだ。少し飲むくらい問題ねぇよ」


「……だからといって」


「見張りも置いてる。俺も酔わねぇ。いざとなればすぐ動ける。お前も少し、肩の力を抜け」


 耀のため息が止まらない。

 腕の中の蓮次は心配そうに耀を見上げていた。


「耀?」


 蓮次が声をかけても言葉は返されず、代わりに蓮次を抱き締める腕の力が強くなる。

 蓮次は窮屈そうに身を捩ったが、その力は緩まなかった。




 火の粉が空へと昇り、闇の中で花のように弾ける。

 鬼たちはそれを見上げ、笑いながら手を叩いた。

 女鬼が酒を振る舞い、男鬼が肉に喰らい付く。


 火はさらに燃え上がり、いつしかその炎を囲んで舞が始まっていた。


 耀の腕の中で、蓮次がきらきらとした目で舞の輪を見つめている。


「ねぇ、みんなとあそびたい」


「駄目です」


「あっちがいい!」


「駄目だと言っている」


 珍しく耀の声が低い。蓮次は思わず縮こまった。

 そのやり取りを見ていた烈炎が横から耀の肩を叩く。


「いいじゃねぇか」


 耀が振り返ると、烈炎がその腕を掴んだ。

 刹那、蓮次は耀の腕から飛び出していった。


「れ、蓮次様!」


 すっかり元気を取り戻した少年は、舞の輪を目掛けて駆けていってしまう。

 舞っていた鬼たちはすぐに気づき、手を叩いて彼を迎え入れた。


 その後はさらに盛り上がりを見せた。ある者は獣の骨で木を叩き、牙を笛にして音を紡いだ。

 またある者は幻術で、光の像を夜空に浮かべた。光の粒が次々に形を変え、鹿や猪、森の動物たちの姿になる。光の動物たちは空を舞った。




 烈炎は輪の外で楽しそうに盃を傾けているが、耀は庭の縁に立ち尽くしていた。額に手を当て、何度目か分からないため息をもらす。


「全く、どうしてこうなる……」


 皆は炎を囲み、歌い踊り狂っているが、同じ炎を見ても、耀には朱炎の影ばかりちらついて見える。

 この有様を、なんと詫びようか。


「……蓮次様を捕まえなければ」


 そう呟くも、蓮次の笑顔を見て動けずに固まる。

 これほどまでに楽しそうな蓮次を、止める気にはなれなかったのだ。

 耀は全てを諦めたような表情で、烈炎のもとへ歩み寄る。


「烈炎、蓮次様から目を離すな。私は少し外を見てくる」


「おう」


 烈炎の返事を聞くや否や、耀は結界の外を目指した。夜風が頬を撫で、喧噪が遠のいていく。


 しかし、結界の外に出るまでが妙に遠い。

 周囲の光の壁が、普段よりも広く張られているように見えた。


(まさか……)


 耀は目を細める。

 

(結界が、広がっている?)


 つまり——朱炎は最初から、この騒ぎを想定していたのかもしれない。


(……やはり、すべてお見通しなのですね、朱炎様)


 耀の胸が熱くなった。

 自分たちの無礼すら朱炎は笑って許すつもりなのか。それとも、これもまた“試練”の一部なのか。


 いずれにせよ、この隙を狙う者がいるはずだ。耀は神経を研ぎ澄まし、歪な気の流れがないかを探る。


「……やはり」


 想像していた通り、先日の不穏な視線がこちらに向けられている。

 耀は目を細め、構えた。







「ねぇ、姐様。また、あの青鬼さん……かっこいいわ」


「何を言っているの。集中しなさい……って、ほら、見つかったじゃない。少し抑えて……」


 式神を飛ばす少女と、その視界を共有する女がいた。女は指示を出しながら少女の不安定な術を安定させる。


 周囲には複数の術師たち。彼らは二人の報告を聞き取りながら、着実に作戦を練っている。


 ――朱炎の留守を突き、“鬼の子”を討つために。


「一度で片をつけねばならぬな」


「それができれば苦労はせぬ」


「朱炎を一閃で討つなど不可能だ。まずは“鬼の子”を……」


「だが、守りが堅すぎる」


「ならば、正面からではなく側より崩すしかあるまい。青鬼を落とせば、朱炎の手綱も緩む。屋敷の均衡が崩れる」


「ではまず、あの青鬼を」


 声を聞き、少女の瞳が揺れた。


「姐様……あの青鬼さん、殺すの?」


 女は顎に手を当て、ゆるやかに口の端を吊り上げた。


「さて、どうしましょうね……」



  

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― 新着の感想 ―
朱炎様いなくてウェーイ♪となってる笑 耀、真面目なんだからぁって言われてるけど、朱炎様と色々やってますからね笑 烈炎の いいじゃねぇか。皆、溜まってたんだよ ……君が一番溜まってる?笑 たまにはい…
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