56.鬼の居ぬ間に(1)
誰もが息を潜め、朱炎の足音が遠ざかっていくのを耳をそばだてて聞いていた。
もういいだろう。いや、まだだ。
“鬼”の足音が完全に消えるまで、息を殺したまま、あと少し。
「……行ったな?」
「……行ったか?」
ごつごつと体の大きな男鬼たちがひそひそと話す。囁き声が一つ、二つと増え、やがて風が通り抜けた。
それが合図だった。
「おおおおおぉぉぉぉ!!」と爆ぜるような歓声が上がる。
「朱炎様が出かけられたぁぁぁ!!」
「今夜は自由だ!!」
堰を切ったように鬼たちが動き出した。まるで溜め込んだ鬱憤が一斉に弾けたかのようだ。
男鬼たちは大盛り上がりで森へと駆け出した。
「待て! 何をしに行く気だ!」
耀の鋭い声が響く。
「狩りですよ耀様! せっかくの機会ですぜ? ほら肉だ、肉!」
近くに残っていた鬼が答えると、すぐに「肉だ、肉だ!」と叫びながら森の奥へ消えていった。
振り返れば、女鬼までもが「今夜は宴よ!」と浮かれて声を上げている。
「馬鹿者。今そんなことをしている場合か! 朱炎様の留守中に何かあればどうするつもりだ」
「大丈夫ですよ、耀様。耀様も少し気を休めたらどうです?」
耀の叱責を尻目に、さらに多くの鬼たちが笑いながら森へ消えていった。
こんなにも能天気な者ばかりだっただろうかと、耀は黙り込む。
朱炎が結界を張った日から、皆がどこか過ごしづらそうにしているのは分かっていた。だが、それは一族を敵から守るためのもの。鬱憤が溜まるというのはおかしいだろう。
ましてや、今回の朱炎の不在は長期に及ぶ。何かあってからでは遅いのだ。
先日、不穏な気配を察したばかりでもある。
それなのに、主の長期不在をむしろ喜んでいる者たちがいる。
(……朱炎様の意図を理解できる者は、いないのか)
苛立ちのようなものを感じ、耀は目を閉じて目の前の騒ぎを拒んだ。
その時、ふと袂を引っ張られる。見下ろせば、泥まみれの手で涙を拭う蓮次がいた。
朱炎の不在で皆が浮かれて騒ぐ中、蓮次だけが喜べずに意気消沈している。
(無理もない……)
耀は蓮次を抱き上げると、そっと頭を撫でてやった。
その頃、女鬼たちは酒蔵に向かい、重たい樽を引きずり出して手際よく火鉢で温めていた。
立ちのぼる湯気には鬼酒特有の甘い香りが混じり、庭全体にふわりと広がり始める。
鬼酒。朱炎一族の力を象徴する赤の酒だ。ひと口で酔い、二口で心が燃える。
盃の中で炎のように揺らめく赤。飲む者の血をたぎらせ、魂を奮い立たせるものだ。
その隣では、青い光を纏う冷酒が注がれていた。
赤とは対照的に静けさを宿す酒である。口にすれば舌の奥でひんやりと広がる。
もし人が飲めば、一口で氷のように凍てつくだろう。
さらに、もうひとつ。小鬼たちのためのものがある。白く濁った柔らかな香りの酒――いや、酒ではない。
子鬼にも許される“甘酒”だ。米麹の甘やかな香りがふんわりと立ち上る。
宴の準備は着々と進んでいるようだ。
耀がため息をついた時、足元を小鬼たちが駆け抜けていった。
やがて、一陣で狩りに出た鬼たちが戻ってきた。
肩に担いだ鹿、猪、山鳥を軽々と放り投げる。地に落ちた瞬間、どん、と鈍い音が響いた。
それを待っていた鬼が手際よく肉を捌き始める。待ちきれぬ者はそのまま肉を掴み取り、豪快に齧りついた。
「焼け! 焼け!」と叫ぶ声。
「肉だぁぁぁ!!」
「火を起こせぇぇ!」
焔を操る鬼が宙に鬼火を灯す。火の輪が広がり、肉のある場所へと到達した。
香ばしい肉の匂いが茜の空に溶けていく。
歓声とともに焚き火がいくつも灯り、どこからともなく鬼火を宿した灯籠が集まる。
「おおおおおおおおお!!!」
宴はすでに始まっていた。
空が移ろい、騒がしさを増す中で、星々も祭りに参加する。
「耀様もいかが? 今夜くらいは……」
「遠慮する」
「もう、真面目なんだからぁ!」
笑い声があがった。耀は眉をひそめた。
そんな耀の肩に、烈炎が腕を回した。
「いいじゃねぇか。皆、溜まってたんだよ」
「だが、朱炎様の不在に乗じて……」
「おう、騒げ騒げー! 今日は祭りだぁ!」
烈炎が声を張ると、周囲の鬼たちが「おおぉ!」と歓声で答える。
「烈炎! 聞いているのか!」
耀が声を荒げる。目には怒りと焦りが混ざりあい、普段の落ち着きは皆無である。
「敵が攻めてくることを考えないのか? 朱炎様がいない今こそ——」
「それも分かってる。だがな」
烈炎は盃を揺らし、焚き火を見ながら目を細めた。
「皆、張り詰めすぎだ。少し飲むくらい問題ねぇよ」
「……だからといって」
「見張りも置いてる。俺も酔わねぇ。いざとなればすぐ動ける。お前も少し、肩の力を抜け」
耀のため息が止まらない。
腕の中の蓮次は心配そうに耀を見上げていた。
「耀?」
蓮次が声をかけても言葉は返されず、代わりに蓮次を抱き締める腕の力が強くなる。
蓮次は窮屈そうに身を捩ったが、その力は緩まなかった。
火の粉が空へと昇り、闇の中で花のように弾ける。
鬼たちはそれを見上げ、笑いながら手を叩いた。
女鬼が酒を振る舞い、男鬼が肉に喰らい付く。
火はさらに燃え上がり、いつしかその炎を囲んで舞が始まっていた。
耀の腕の中で、蓮次がきらきらとした目で舞の輪を見つめている。
「ねぇ、みんなとあそびたい」
「駄目です」
「あっちがいい!」
「駄目だと言っている」
珍しく耀の声が低い。蓮次は思わず縮こまった。
そのやり取りを見ていた烈炎が横から耀の肩を叩く。
「いいじゃねぇか」
耀が振り返ると、烈炎がその腕を掴んだ。
刹那、蓮次は耀の腕から飛び出していった。
「れ、蓮次様!」
すっかり元気を取り戻した少年は、舞の輪を目掛けて駆けていってしまう。
舞っていた鬼たちはすぐに気づき、手を叩いて彼を迎え入れた。
その後はさらに盛り上がりを見せた。ある者は獣の骨で木を叩き、牙を笛にして音を紡いだ。
またある者は幻術で、光の像を夜空に浮かべた。光の粒が次々に形を変え、鹿や猪、森の動物たちの姿になる。光の動物たちは空を舞った。
烈炎は輪の外で楽しそうに盃を傾けているが、耀は庭の縁に立ち尽くしていた。額に手を当て、何度目か分からないため息をもらす。
「全く、どうしてこうなる……」
皆は炎を囲み、歌い踊り狂っているが、同じ炎を見ても、耀には朱炎の影ばかりちらついて見える。
この有様を、なんと詫びようか。
「……蓮次様を捕まえなければ」
そう呟くも、蓮次の笑顔を見て動けずに固まる。
これほどまでに楽しそうな蓮次を、止める気にはなれなかったのだ。
耀は全てを諦めたような表情で、烈炎のもとへ歩み寄る。
「烈炎、蓮次様から目を離すな。私は少し外を見てくる」
「おう」
烈炎の返事を聞くや否や、耀は結界の外を目指した。夜風が頬を撫で、喧噪が遠のいていく。
しかし、結界の外に出るまでが妙に遠い。
周囲の光の壁が、普段よりも広く張られているように見えた。
(まさか……)
耀は目を細める。
(結界が、広がっている?)
つまり——朱炎は最初から、この騒ぎを想定していたのかもしれない。
(……やはり、すべてお見通しなのですね、朱炎様)
耀の胸が熱くなった。
自分たちの無礼すら朱炎は笑って許すつもりなのか。それとも、これもまた“試練”の一部なのか。
いずれにせよ、この隙を狙う者がいるはずだ。耀は神経を研ぎ澄まし、歪な気の流れがないかを探る。
「……やはり」
想像していた通り、先日の不穏な視線がこちらに向けられている。
耀は目を細め、構えた。
「ねぇ、姐様。また、あの青鬼さん……かっこいいわ」
「何を言っているの。集中しなさい……って、ほら、見つかったじゃない。少し抑えて……」
式神を飛ばす少女と、その視界を共有する女がいた。女は指示を出しながら少女の不安定な術を安定させる。
周囲には複数の術師たち。彼らは二人の報告を聞き取りながら、着実に作戦を練っている。
――朱炎の留守を突き、“鬼の子”を討つために。
「一度で片をつけねばならぬな」
「それができれば苦労はせぬ」
「朱炎を一閃で討つなど不可能だ。まずは“鬼の子”を……」
「だが、守りが堅すぎる」
「ならば、正面からではなく側より崩すしかあるまい。青鬼を落とせば、朱炎の手綱も緩む。屋敷の均衡が崩れる」
「ではまず、あの青鬼を」
声を聞き、少女の瞳が揺れた。
「姐様……あの青鬼さん、殺すの?」
女は顎に手を当て、ゆるやかに口の端を吊り上げた。
「さて、どうしましょうね……」




