53.融和
――これは、敵の気配か
耀は目を細めた。
主の視線ならすぐにわかる。彼の気配は常に強く鋭く、圧倒的だ。
だがこれは違う。どこか歪で不安定。怯えも怒りも混じっている。
(……隠れている? こちらの様子を伺っているのか)
向けられているのは敵意だろうか。
相手は気づかれたと悟りながらも退くことができず、息を殺して潜んでいるようだ。こちらに向かってくるような気配はない。
やがて、耐え切れなくなったのかのように、その気配はふと掻き消えた。
風が止み、森が沈黙する。
「今のうちに……」
耀が静かに口にした。烈炎と視線を交わす事なく、動き出す。
互いの呼吸で相手の動きを読んで進む。
蓮次を抱えた耀は木々の間を駆け抜け、烈炎はその背を守るように後を追った。
やがて、屋敷の灯が見えた。
点々と夕闇に浮かぶのは鬼火と灯明の群れ。面のように光を放つのは朱炎が張った結界だ。
耀は蓮次を抱えたまま結界を抜け、奥へ駆け込む。
一方の烈炎は中には入らず、外に留まる。敵の追跡があるかもしれない。
結界の中に踏み込ませることだけは、絶対に許されないのだ。
もし姿を現せば、斬る。
烈炎は神経を研ぎ澄まし、暗闇の向こうに視線を走らせた。
耀は廊下を進んでいた。腕の中の蓮次を安全に部屋に届けなければならない。
途中、朱炎の部屋の前を通った。
奥から低い声が漏れ聞こえた。
穏やかに応えるのは、女の声――紅葉だ。
二人は、これからの旅の支度について話しているのだろう。
その声音に触れたとき、耀の胸が微かに疼いた。
どうしても心を揺さぶられそうになるが、この感情は不要なものと理解している。
「…………」
迷いを振り切るように、耀は足を速めた。
紅葉と蓮次の部屋に辿り着く。
耀は蓮次をそっと床に下ろし、自身も壁際に腰を下ろした。
結界内とはいえ、油断は禁物。
いつ襲われても守れるよう、神経は張り詰めたままだ。
「……耀、だいじょうぶ?」
蓮次が心配そうに耀を見上げた。
「蓮次様が案ずることはありません」
耀は穏やかに微笑んた。
しかし、蓮次は眉をひそめたまま、じっと耀の顔を見つめている。
「よーうー」
「え?」
突然、蓮次が耀の袖を引っ張り、耳をつまみ、挙げ句の果てには背中に張りついた。
動かなくなったかと思えば――首筋に鼻息をかけられる。
「れ、蓮次様っ!? なにを……っ!」
「がぶっ!」
「っぉあああっ!?」
首を噛まれた耀の悲鳴が響いていた。
騒がしさに重なるように、床を擦る足音が近づいてくる。
「ははうえ!」
穏やかな笑顔を見せたのは、紅葉。
蓮次は耀から離れて紅葉に駆け寄った。
その小さな体が勢いよく飛びつくと、紅葉は蓮次を抱きしめ、頭を撫でた。
穏やかな空気が満ちる。
耀が紅葉を見つめる。彼女の表情を見る限り、朱炎との話し合いも無事に終わったのだろうと分かる。
そして、紅葉の背後には朱炎――主の姿。変わらず無表情だ。
耀が立ち上がる。すると、突き刺すような鋭い視線を向けられた。
言葉はなかった。だが理解できた。
――部屋に来い
耀は思わず息を止めてしまった。すぐに動かず固まっていると、主は圧だけ残して去ってしまう。
(朱炎様は、お怒りなのか?)
主の機嫌があまり良くないように思えた。
あの鋭い目つきは心臓に悪い。胸の鼓動が一気に早まってしまった。
ふと目の前の母子に目を向ける。
紅葉は蓮次に寄り添い、穏やかな表情で過ごしている。蓮次も、今日の修行の成果とやらを楽しそうに話している。
この様子から、朱炎の機嫌を損なった原因はこの二人には無いと分かる。
原因は、自分かもしれない。不安が募り、すぐに部屋を出ようとした。
「あれ? 耀? だいじょうぶ?」
「え?」
蓮次に呼び止められた耀が、驚いて振り返る。一瞬、何を心配されているのか理解できなかった。
耀がきょとんとしていると、「父上におこられるよ」蓮次が続けた。
「……あ、ああ」
うまく言葉を返すことができず、自らの思考の乱れに情けなさを覚える。
(やはり、朱炎様の血を引く方だ……)
耀は苦笑した。
(怒られる……か? 怒られるような事をしただろうか……まぁ、無いこと無いが。いや、それよりも)
敵の話、旅先の話や鬼女紅葉の話。報告しなければならない事がたくさんある。
耀は急ぎ朱炎の部屋に向かった。
だが、手前まで来て思わず足を止めてしまう。
蓮次の言葉の通りになるかもしれない。
いつになく、部屋から漏れ出るほどの荒々しい気が満ちている。
耀の掌が汗ばんだ。




