52.衝突
背を木の幹に強く打ちつけた耀が、わずかに顔を歪めた。
その表情を目にした烈炎は、拳に力が入りすぎたと気づく。
(やべっ、やりすぎた)
だが、目の前の耀は怒りを見せる事もなく、代わりに、どこか沈んだ表情を見せた。
陰を帯びた目。
(……ちっ、何だその顔)
烈炎は小さく舌打ちした。謝罪するよりも耀の曇った瞳の方が気になってしまう。
「おい、どうした」
問いかけても、耀は目を逸らす。そこに寂しさのようなものが滲んでいた。
(……また、朱炎のことか)
嫌でも勘が働く。胸の奥で、抑えようのない苛立ちが燻る。
烈炎は我慢できず、耀の顎を掴み、自分の方へと向かせた。
二人の視線がぶつかる。
しかし耀は、耐えきれないというように、また視線を逸らした。
「……何があった」
烈炎の声に怒気はなかった。真剣に、どこか探るような口調で問うた。
けれど。
「お前には関係のないことだ」と、何も明かされなかった。
烈炎の眉がぴくりと動く。胸の奥で熱がはぜた。
(関係ねぇ? ふざけんな)
耀の顎を掴んでいる手に、力がこもる。逃がすものかという勢いで、ぐっと耀の顔を持ち上げた。
耀の瞳が揺れている。
見られることを拒むように、彼はそっと目を閉じた。
烈炎はその反応に息を呑む。思わず力を緩め、顎から手を滑らせた。
指先は耀の喉元をなぞり、首を包み込むように掴む。
そのまま、じっと耀の顔を見つめた。
(……また、そんな顔してやがって)
首を強く締めているわけでもないのに、苦痛を示すような顔。いや、苦痛に酔いしれている顔にも見える。
吐き出しきれない想いが胸を焦がす。
「お前っ」
烈炎が唇を開きかけた、その時――
「やめろぉぉぉ!!!」
甲高い声が空気を裂いた。
小さな影が烈炎の腕に飛びつく。
「やめろ! 耀がくるしんでる!!」
蓮次だった。
蓮次は烈炎の腕にしがみつき、小さな手でぱしぱしと叩く。
烈炎はびくともしない。
「あ? なんだ?」
烈炎がそう呟くと、蓮次は勢いをつけて烈炎の着物を破り、逞しい腕にがぶりと噛みついた。
「いってぇっ!」
さすがの烈炎も声を上げ、反射的に腕を振り払う。
小さな体が宙を舞う。
「うわぁっ!!」
耀がとっさに動く。
落下する蓮次を受け止め、膝をついた。
「蓮次様っ」
「……あ、えっと、耀、だいじょうぶ?」
蓮次は耀に話しかけているが耀は蓮次の声に耳を貸さない。代わりに烈炎へと視線を向ける。
瞳には怒りが宿っていた。
「烈炎……お前、何てことを!」
「は? お前があんな顔してたからだろうが!」
「理由にならん! 子を放るとは何事だ!」
激しく言い合う二人。空気が軋む。
烈炎の周囲に熱が立ち昇り、耀の周囲には風が渦を巻く。
そのときだった。
きんと鋭い音が空気を裂いた。
耳鳴りのような脳を刺す音。
耀も烈炎もぴたりと動きを止める。
耀は咄嗟に蓮次を抱き寄せ、腕の中に隠した。
烈炎は片腕を伸ばし、二人を庇うように立つ。
二人して辺りを見回す。
「なんだ今の」
「分からない……」
木々の間を、風が不穏に走る。
虫の声すら止み、森全体が息を潜めたようだった。
蓮次は耀の胸元にしがみついている。耀と烈炎が一瞬にして殺気立ったことで、なにかが起きたと理解した。
ごくりと唾を飲み込んで、身を縮こませた。
耀はそんな蓮次を見下ろすと小さな頭にそっと手を置いた。だがすぐに視線を周囲に戻した。
烈炎もまた、拳を握り締めたまま周囲を探る。
耳鳴りの余韻は消えた。それでも遠くから何者かに見られているような気配を感じる。
二人の鬼が、同時に息を詰めた。
動くべきか、それとも――




